就寝時間・「平和」という概念・クラシック
翌日も獣はまるで挨拶でもしに回ってきたかのように、街に現れた。僕はそれを当然のように還したのだけれど、やはり不気味だった。一昨日とも昨日とも同じような反応を獣は見せ、毛を逆立てながら〈獣森〉にへと帰っていくのだが、翌日になると獣は何事もないように現れるのだ。まるで一日しか記憶できない病気でも患ったようだった。
僕は毎日のように体力を激しく消耗するので、就寝する時間も徐々に長引いていった。永遠と洞窟の中を彷徨っているような感覚だった。僕は毎晩頭を抱え、頭を激しく掻いて図鑑に目を通してはの繰り返しだった。図鑑を僕はまるで道に線を作る蟻の大群を一匹一匹異なる特徴点を探すようにじっくりと何度も目を通したのだが、やはりヒントとよべるヒントも見つからなかった。
「大変そうですね」と声がした。それはとても優しく美しい声だった。
僕は声がした方へ目をやった。そこには白い服装に身を包んだ少女が僅かに開いた扉の隙間から覗いていた。僕にはその少女に覚えがなかった。しかしあまりにも自然な口調で僕に声をかけてきたので、いささか不気味だった。それはまるで幽霊のような儚げがある少女だったのだ。
「えっと――」
「地長の娘です」と少女は割り切るようにそう言った。「初めまして」
「あ、どうも。初めまして」と僕は首を下げた。
地長の娘さんは、まるで雪の妖精のようだった。清純そうな白色のワンピースは天然な環境から生まれた氷のように僅かに透けており、そして肌も白かった。まるで生まれて一度として太陽の光に身を晒した事のないような奇麗な白色だった。栗色の髪は癖など一切なく、真っ直ぐと肩まで伸びており、とても軽やかだった。睫毛が長く、瞳は澄んだ奥行きを覗かせていて、大きい。
「父親から聞きました。緊急事態、らしいですね」と少女は慣れていないような丁寧語で僕に訊ねてきた。とてもぎこちない口調が僕は気になった。
「そうなんだ、緊急事態なんだ」と僕は言った。そのあとに「普通の口調で構わないさ」と僕は付け足した。
「ありがとう。そうさせていただくわ」と少女は遠慮なく口調を自然体に戻した。「やっぱり〈獣還師〉という仕事は大変?」
「今まではそこまでじゃなかったんだ。体力を激しく一気に消耗する事に慣れれば、簡単だったさ」
「けれど、緊急事態なのね?」
「そうなんだ。君に言ってもわからないと思うけれど、見ての通り僕は今相当参っている」
少女は僕の顔をまじまじと見つめた。僕はなんだ? と首を傾げた。
「それは…私に性欲の矛を向けているのかしら? ごめんなさい。私まだ処女なの」と少女は軽々しくそう口に吐いた。その口調から仕草まで、まるで人生を何度か経験しているかのような大人びたものだった。
「ど、どうしてそうなるのか教えて欲しい」と僕はなるべく平然を装いながら言った。少女が躊躇なくそんな事を言い出すので、僕はどこか動揺していたのだ。
僕は図鑑を机の端に置き、一度伸びをした。強張った筋肉をほぐすように何度か肩を自分で揉み、二回ほど肩を回してみるとポキポキと骨が骨を軽く叩く乾いた音が発した。そのあとに僕は瞼を閉じ、暗闇の中で目玉を上下左右に動かした。そして指で瞼と目元を優しくほぐした。
「ねえ」
「なんだい?」
「とてもネガティブな思考なのだけれど、私の話を聞いてくれないかしら? 獣還師さん」と少女が僕と自分の前にコーヒーを置いて、その場に腰を下ろした。コーヒーは砂糖もミルクも含まれてなく、無垢なまま育った少年のようなブラックだった。立ち昇る湯気が僕の顔を下から煽いでくる。
僕は構わない、と言った。
「私ね、この世界がいつまでも平和のまま続くとは思えないの。というより、この世に「完全な平和」というのは存在しないんじゃないかと私は思うのよ。例えば、光がある場所には必ず影があるでしょう? それと同じで、幸せがそこにあるのなら、背後には不幸も佇むと思うのよ。誰しもが平和で幸せな世界なんて、ありえないわ。誰かに幸福が訪れたとしたらその分――いや、その倍くらい――他人に不幸が襲うのよ。あるいは、ある人の幸福のせいで不幸になった人間もどこかにはいると思うわ」
「よくわからない事を君は言うんだな」と僕は二度、三度と肯いた。「確かにそうかもしれないな」と僕は思わず本音を言ってしまっていた。
「とてもネガティブだとは思うけれど、私は常に現実と向き合っていたい人なの。今この世界は「平和だ平和だ」と言うけれど、そんなはずないと私は断言できるわ。歴史の本などを私は何冊も読んできたわ。今じゃ考えられないかもしれないけれど、昔は「戦争」なんてのも実際にあったのよ?」
僕は肯いた。「戦争」というものがあったことは、僕も知っていた。まだこの世界が様々な国に分裂していた頃の話だ。意味もないような争いを、人々はしてきたのだという。そんな過去があったからこそ今の時代は平和なのだ、と決まって皆はそう吐くが、確かに少女の言うとおりかもしれないと僕は思った。
「けれど、仮にその闇の部分があったとして、僕はそれを見つけれない。見えないものを助けるなんて、難しい話だよ」と僕は言った。そのあとで僕は、自分がとても馬鹿な事を洩らしたことに気がついた。無意識に零れてしまったのだから、今のは僕の本音なんだろう。そう考えるとさらに僕は自分を殴りたくなった。
少女はまるで大切な約束日が雨降りだったかのような、がっかりとした顔をしていた。どうやら失望しているらしかった。それもそうだ、と僕は自覚した。僕はなんて馬鹿な発言をしたのだろう、と僕は今更になって後悔した。
そしてしばらく深い沈黙が場に佇んだ。僕は息が詰まりそうだった。自分に嫌悪を抱き、そして彼女の視線がたまらなく僕の心に凍みたのだ。傷口に唐辛子をすり潰したのを塗りたくられているようだった。
「私は〈獣還師〉の仕事はわからないけれど」と少女は呆れたような顔つきのまま僕に背を向け、部屋を出て行く間際にそう言った。「わからない事があるなら、この街の〈森の図書館〉にいってみてはどうかしら。あそこにはいろいろ資料が並んでいるし、獣の事に関しての本も多いわよ」
「そうなのか?」と僕はその情報を脳に刻んだ。何か手掛かりが掴めるかもしれない、と思ったのだ。思わず僕は期待した。
「ええ。けれど、すこしそれまでの道程が危険だから気をつけて」
「ありがとう。明日地長に訊いてみるよ」
そうとだけ少女は言うと、まだ湯気が昇っているコーヒーを手に持ってさっさと出て行った。それは逃げるようだった。部屋はさきほどよりも増して沈黙が深まったように思えた。空気が貫禄を備えた岩石のように重く、僕の身に容赦なく襲い掛かってくるようだった。
その後で僕はあの少女のことを考えてみた。地長からは人見知りだと聞いたのだけれど、そうとはとても思えなかった。確かにどこか不思議な雰囲気はまとっていたが、人見知りというのからは大分離れていた。僕はどこか夢心地だった。まるで今まで幻想でも見ていたかのように、それは潔く消えていったのだ。とても白く、儚い。僕はあの子は本当に地長の娘なのか? とも思えた。
コーヒーの僅かな香りと少女の髪の匂いが淡く室内に残っていたので、あの子がこの世に実在する人物だとは確信できた。芳醇そうな甘い匂いが、うっすらと部屋に漂っており、その香りはまるで僕に遠慮しているかのように、憚っている印象を覚えさせた。
お風呂から上がり、湯冷めしないうちに今日は就寝しようと思ったのだけれど、リビング部屋の方からクラシックの音楽が聴こえてきたので、僕はリビングに向かった。リビングには地長がいた。頬杖をして、ラジオから流れてくる様々な楽器の音に耳を澄ませていた。
「おや、先程娘にコーヒーを持っていかせたんですが、どうでした? 可愛かったでしょう」と地長は僕に気づいてすぐに、娘の話題を切り出した。僕はいささかそれが億劫だった。自己嫌悪に再び填ってしまいそうで、怖いのだ。
ラジオから流れてくるクラシックは、まるで憂鬱そうな表情でトイレ掃除をする少年のような音楽だった。扁平な板の中に詰め込んだような、静かで盛り上がりのないものだった。眠気が瞼の裏に這い寄ってき、僕の脳をくすぐった。
「よくわからないです」と僕は正直なことを言った。
「よくわからない?」と地長は反芻した。「私の娘がですか?」
「はい。彼女はとても難しい考えをしています」
「それは面白いです」と地長は陽気に笑っていた。僕はそれじゃあおやすみなさい、と言って部屋に戻った。
読者ほしいー。 ほんとうにそれがああああああほしいいいいいい




