平凡・獣のSOS・娘
朝食を済ませ、僕は窓から東街の街並みを眺めていた。街並みは実にいそいそしさに溢れていた。僕もその光景を視界に広げているだけで、まだ見ぬ世界を冒険するような活発とした気分となっていた。飄々と柔らかく優しい風が街に流れており、外に出ている人々の髪や服を靡かせていた。子供たちは陽気な声を上げながら、街の一本道を数人で駆けていた。
地長は朝食の皿を洗っているようだった。水道から水が放出し、ステンレスの流し台に打ちつけている音がしていた。静寂な空間に音と呼ばれる音はそれだけだった。外からは遠くから流れてきた余韻のような子供のはしゃぐ声と、小鳥が数羽ほど鳴いている声だけだった。その音はどれも平和そのものだった。地長はその静かな空間に淡く流れる音に耳を澄ませているようだった。僕も耳を澄ましてみると、体の何もかもを癒して淡い眠気を誘ってくるようだった。小鳥のさえずり、子供の陽気な声、水がステンレスを叩く音、それはまるで耳の癒しだった。
「東街のどこを案内しましょう?」と壁越しから地長の声が聞こえた。
僕はどんな場所をこの東街に求めているのか、考えを巡らせてみた。まるで故郷を彷彿させるような懐かしい気分になる場所…。日頃の疲れを癒す、自然に包まれた場所…。列車で長旅をする価値がある絶景…。そんなことを僕は求めているのだ。そしてこの西地方東街には、そのすべてが凝縮されているように思えた。だから僕は、「地長の好きな場所をお願いします」と大声で返した。
「了解です」という地長のはきはきとした声がした。「思わず東街に住みたくなるような所に連れて行きますよ」
「お願いします」
もう一度僕はコルクボードに貼ってある写真を見た。何度見ようとそれは幸せな家庭が写っていた。僕は口元が緩んでいるのがわかった。まるで自分の幼少期のアルバムを見てるみたいに、笑みが零れてしまうのだ。写真に写る地長は、皺などは一切刻んでなく、髪の色も黒一色だった。四十後半と地長は言っていたが、少々若すぎではないか? と僕は思った。三十代前半と言われても僕は多分信じてしまうだろう。そんな事を僕は一人で脳裏に呟きながら、冷めたコーヒーを飲んだ。
地長が洗い物を終わらせたらしく、タオルで手を拭いながら「さて、行きますか」と言った。僕は「はい」と肯き、羽織ってきたコートを着た。まだ季節は寒いのだ。もうすぐ春風が空気に流れ、気温も温かさを佩びていくだろう。地長も昨日と同じの紺色のコートを羽織り、それを丁寧にボタンを閉めていった。
準備が完了し、地長は首を幾度か曲げて骨を鳴らた。そして開いたままだった窓を閉めた。やや肌寒かった風が途切れ、室内は完全なる沈黙となった。地長と僕の足音だけがその場に取り残された。木板の軋む音だった。「靴を履いてください」と地長が言った。僕はブーツを履いた。鉄網の階段を下り、コンクリートの地面に着いた。ブーツの踵がコンクリートの地面をこつこつと蹴り、まるで時計の秒針を刻む針のようだった。それと轟々と機械の音が耳元に甦ってきた。昨日の記憶を鼓膜がそっと引っ張ってきたようにその音はいきいきと耳の奥をくすぐった。
外の空気に肌を晒すと、まだすこし冬の余韻を残していた。柔らかく身にまとわりつくような弱い冷気を頬に感じたのだ。すこし風を靡かせており、僕の背を押している。僕はコートのポケットに手を入れ、地長の方を見た。地長はどこに案内しようか、いろいろと考えているようだった。
その時だった。街中に聞き覚えのある音が響いたのだ。それは昨日聴いたばかりの獣の出現を知らせる警告チャイムだった。「え?」と地長と僕は声を洩らした。「故障ですかね?」と地長は警戒する様子など見せずにチャイムが置いてある建物の方へ歩みを始めた。警告音が止まる気配はない。
しかし僕はこれは故障ではないような気がした。あり得ない話だが――その前に認めたくないのだが――僅かに獣の気配を悟ってしまったのだ。昨日と同様だった。僕は気配の漂う方へ体勢を向けた。風が顔にかかり、前髪が左右に離れた。風が当り、目玉がすぐに乾燥してしまうので僕は目元を歪めた。
僕は驚きを隠せなかった。驚かざるを得ないと僕は思った。素直に驚愕していたのだ。獣というものは〈獣還師〉に注意されれば、必ず三年間はじっとしているのだ。土に埋められた石ころのように、じっとしているのだ。それは確定した事実のはずだった。暫定的なものではなく、獣という正体が明らかになった時からの研究でわかりきっていることなのだ。しかし、二日に続いてその獣は、僕の目の前に現れたのだ。
「………なんで」と僕は思わず声を洩らした。
強く脳を打ちつけられたかのように、僕は呆然としていた。目の前に立ち塞がる巨大な獣は本物の獣か? 僕にはわからなかった。なぜまた現れた? まるで見当もつかない。獣は僕をまじまじと見下ろしていた。その青い瞳には、昨晩のような濁った奥行きは感じれなかった。まるで希望の光をようやく発見したような…。
希望を発見した?
僕は昨日地長の言っていた「まるで何かを探すように」という言葉が脳裏に過ぎった。これは――助けを僕に求めているのではないか? 僕にはわからなかった。とても忌々しい気分だった。たとえそれが僕に対するSOSだったとしても、僕には「獣のSOSに応えよう」、という選択肢は毛頭となかった。
とりあえず、僕は昨日と同様で獣を還すことにした。これでいいのだろうか? 僕にはわからない。本当にこれでいいのか? もう一度いう。「僕にはわからない。まるで見当もつかない」
一日だけ宿泊するだけだったはずが、僕は泊り込みでこの事態を調べる事となった。僕自身も今日のこの出来事は不思議でしかたなかった。結局、この街を案内してくれるという約束も中断し、僕は獣について書かれた図鑑を読み漁っていた。
図鑑には、獣の様々な習性が説明されていた。びっしりと堅苦しい文体の文章が羅列に並び、非常に分かり難い図が載っているページもあった。僕は頭を抱えた。どこのページを捲っても、〈獣還師〉に注意された獣が何事もなく澄ました顔で翌日も街に訪れるなんて例外な行動は、一切書いてはいなかったのだ。それどころか、SOSの合図すらも解明されてはいないそうだった。獣の習性はまだ解りきれていないことが多いのだ。
その日は一晩中図鑑を読み漁った。しかし、同じページを行き来するばかりで、何もわからなかった。僕は頭を強く掻き、舌打ちを零した。図鑑を鞄に戻し、地長の元にへと向かった。地長はリビングにいた。ダイニングテーブルに座ってほ頬杖をしながら、コルクボードに掛かったラジオから流れてくる陽気なジャズの音楽に耳を澄ませていた。
「おや、どうしました?」と地長は僕に気づき、眠たそうな顔をしながら訊ねた。それはまるで優しくゆっくり女性の衣類を脱がすような声だった。「とても難しい顔をしていて、大変そうです」
「まあ……予想外な展開となったので」と僕は溜息をついた。
「コーヒーでも飲みますか? あ、お風呂沸いていますよ」と地長はまるで僕の親にでもなったかのように自然な言い回しで言った。僕も喋りやすいのでありがたい。
「地長はもう入ったのですか?」
「はい。もう入りましたよ。老人の入ったあとのお風呂は嫌ですか?」と地長は笑いながら訊ねてきた。僕を和ませようとしてくれているのか。僕は本当に久々に父親と会話しているような感覚に陥りそうだった。
「まさか」と僕は笑いながら否定した。「お風呂、お借りします」
「どうぞ」
「あの――娘さんは大丈夫なのでしょうか?」と僕は気になる点を質問した。
「ああ。気にすることないですよ。もう入りました。私よりも早いです」
僕は未だに地長の娘さんを見ていないのだ。地長が言うにはすでに帰ってきているというが、僕は一目としてその姿を見てはいない。極度の人見知りなんですよ、と地長は笑いながら僕に言った。「今に会うでしょう。なにせ同じ空間にいるのですから」
「そうですね。それじゃあ、お風呂いただきます」
そう言って僕は頭を下げた。そして風呂場へと足を運んだ。風呂場はまるで今の僕の気持ちを表したような、もやもやとした湿気と湯気に包まれていた。
人気がほしい(切実、懇願) 人気…というか、読者が欲しい(切実、懇願、願望) 僕は才能がないのだろうか、いや、なくても人気が欲しい!(切実、懇願、土下座)




