第9話 魔法の理
第一訓練場での模擬戦から少し後。
レイ・ノヴァクが次に向かったのは、魔法科棟にある円形講堂だった。
「基礎魔法構築」
「……魔法陣の基本かぁ」
講堂へ向かう階段を上りながら、レイは眠そうに呟いた。
実家では、魔法を使う際にわざわざ魔法陣を意識したことなどほとんどない。
精霊に頼めば大抵のことはできたし、自分で直接魔力を操る場合も、身体を動かすのと同じような感覚で魔法を発動させていた。
だからこそ、
「やっぱり基礎からちゃんと勉強しておいた方がいいよね」
という、極めて真面目な理由でこの授業を選んでいた。
別に魔法の才能を披露したいわけではない。
将来、困らない程度の知識を身につけておきたい。
それだけだった。
◇
講堂はすり鉢状になっており、中央に設置された演台を囲むようにして半円状の座席が並んでいる。
その中央に立っていたのは、長い白髭を蓄えた老人だった。
分厚い眼鏡の奥から鋭い視線を覗かせている。
エルンスト教授。
皇国でも名の知れた魔法陣研究の第一人者であり、長年にわたって多くの魔導士を育ててきた人物だった。
「静かに」
細い杖が演台を軽く叩く。
それだけで、講堂内のざわめきが収まった。
「魔法というものは、ただ魔力を放出すればよいというものではない」
エルンスト教授は黒板に一本の線を描いた。
続いて、その線を中心に複雑な円と文字が重なっていく。
「魔力を一定の形に固定し、望む現象へと変換する。そのために必要なのが魔法陣だ」
黒板に描かれた図形が淡く光る。
「術式の構造を理解し、正確に魔力を流す。これが魔法構築の基本となる」
生徒たちは真剣な表情でノートを取っていた。
レイも一応、真面目に聞いている。
ただし、その表情は周囲に比べると随分とのんびりしていた。
(なるほど……魔力をこういう順番で流すんだ)
レイは教授の説明を聞きながら、頭の中で魔力の流れを想像していた。
自分が普段やっていることとは、かなり違う。
レイの場合、魔力を細かく分解して組み立てるというより、最初から「こうなってほしい」と思った結果に向かって魔力を動かしている。
それを改めて知識として整理すると、
(僕、かなり適当に魔法使ってたんだな)
という結論になった。
もちろん本人に悪気はない。
むしろ授業を受けている今は、
(ちゃんと勉強しておけば、もっと普通に魔法を使えるようになるかもしれない)
と、前向きに考えていた。
「では、実技に移る」
教授の声で、生徒たちが一斉に顔を上げる。
「本日は最も基本的な火属性魔法――『火弾』を構築してもらう。目標は前方の魔法標的だ」
講堂前方に、小さな鉄製の標的がいくつか設置された。
「魔法陣の構築から始め、詠唱を行い、火弾を放て。威力よりも術式の安定性を見る。無理に威力を出す必要はない」
「はい!」
生徒たちが一斉に杖を構える。
淡い光が次々と浮かび上がった。
レイの斜め前では、フィオナも小さく杖を握っている。
彼女の周囲には、他の生徒よりもずっと精密な魔法陣が浮かび始めていた。
(やっぱり綺麗だなぁ)
レイは感心しながら眺める。
そのとき、教授の声が響いた。
「始め!」
講堂内に、火弾が次々と飛んでいく。
ポン。
小さな火球が標的に当たる。
別の生徒はもう少し強い。
ボッ!
標的が軽く揺れる。
「うん……こんな感じか」
レイも立ち上がった。
杖は持っていない。
「ノヴァク君、杖を使わないの?」
近くの生徒が不思議そうに尋ねる。
「うん。普段使わないから」
「でも、授業では魔法陣を――」
「ああ、そうだった」
レイはそこで思い出したように黒板を見る。
(魔法陣……魔法陣……)
頭の中に、教授が先ほど描いていた簡単な図形を思い浮かべる。
だが、どうにも上手くいかない。
(うーん。こういう細かい図形を覚えるの、苦手だな)
レイは少し考えた。
そして結局、
(まあ、いつも通りでいいか)
と諦めた。
「……火、お願い」
ぽつりと呟く。
次の瞬間。
レイの手のひらの前に、小さな火球が生まれた。
魔法陣はない。
詠唱もない。
ただ、赤い火がふわりと浮かんでいる。
「え?」
近くの生徒が目を丸くする。
レイはそのまま火球を標的へ向けて放った。
ヒュンッ。
火球は真っ直ぐ飛び、
――ボンッ!
標的に当たって、小さな爆炎を上げた。
鉄製の標的が少し揺れる。
表面には黒い焦げ跡が残った。
「……あ」
レイは少しだけ目を丸くした。
(思ったより強かったかな?)
周囲を見る。
他の生徒たちの火弾は、標的を焦がす程度。
自分のものも大差ない。
少しだけ焦げ跡が大きいくらいだ。
「まあ、こんなものかな」
レイは満足そうに頷いた。
しかし。
講堂内は妙に静かだった。
「…………」
「…………」
レイは首を傾げる。
「どうしました?」
返事がない。
やがて、演台の前にいたエルンスト教授が、ゆっくりと口を開いた。
「……ノヴァク」
「はい?」
「今の魔法は、誰に教わった?」
「え?」
レイは困ったように眉を下げた。
「父に……というか、特に教わったわけじゃないですね」
「魔法陣は?」
「使ってません」
「詠唱は?」
「してません」
「杖は?」
「普段から使わないので……」
教授の眉間に深い皺が寄った。
「では、今の火弾をどうやって発動した」
「どうって……」
レイは少し考える。
「火を出しただけですけど」
「…………」
エルンスト教授は黙り込んだ。
講堂の中ほどでは、エルリアとミリィもレイを見ていた。
エルリアは驚いたように目を瞬かせる。
(無詠唱……?)
ミリィも同じだった。
(ゲームでは、レイが無詠唱を身につけるのはもっとずっと後だったはず……)
ただし、2人が昨日の模擬戦を見ていたわけではない。
だからこそ、今のレイが「普通の新入生ではない」ことだけは理解できた。
一方、フィオナはというと。
「……すごい」
小さく呟いていた。
彼女は魔法陣を使って魔法を構築することを得意としている。
だからこそ、魔法陣なしで魔法を発動したレイの姿は、素直に興味深かった。
しかし、エルンスト教授は冷静だった。
「……まあ、いい」
教授は眼鏡を押し上げる。
「無詠唱そのものは、珍しくはあるが不可能ではない。魔法陣の構造を完全に身体感覚へ落とし込んでいる者も存在する」
そこで教授は、標的を見た。
焦げ跡はある。
だが、破壊されているわけではない。
「威力も……まあ、少し強い程度だな」
レイはほっとした。
(よかった。普通だったみたいだ)
教授は続ける。
「ただし、授業では術式を学ぶことが目的だ。自己流で済ませるのではなく、他者が再現できる形で構造を理解しろ」
「分かりました」
「次からは魔法陣を使ってみることだ」
「はい」
レイは素直に頷いた。
その様子を見て、エルンスト教授は少しだけ表情を緩める。
「では、もう一度だ。今度は教えた通りにやってみろ」
「分かりました」
レイは机に座り直した。
そして黒板を見る。
「えっと……円を描いて、ここに術式を……」
しばらくして。
レイの前に、歪んだ魔法陣が浮かび上がった。
「…………」
「…………」
「……難しいですね、これ」
「貴様は本当に何なのだ……」
教授が頭を抱えた。
講堂のあちこちから、小さな笑い声が漏れる。
先ほどまで張り詰めていた空気も、少しずつ和らいでいった。
レイはそんな周囲の反応を気にすることなく、歪んだ魔法陣を眺めている。
(まあ、これも練習すればできるようになるかな)
焦る様子はない。
自分が少し変わった方法で魔法を使えることも。
周囲から珍しい目で見られていることも。
レイにとっては、それほど大きな問題ではなかった。
ただ、将来領地に戻ったときに困らないように。
必要な知識を少しずつ覚えていけばいい。
その程度の認識だった。
そして、そんなレイを見ながら。
エルリアは小さく微笑み、
ミリィは複雑そうに眉を寄せ、
フィオナは興味深そうに彼の魔法陣を見つめていた。
誰もまだ気づいていない。
この少年が規格外なのは、魔法の威力そのものではない。
魔法陣という「技術」を必要とせず、魔法そのものを感覚で扱っていること。
それが、この世界の魔法体系においてどれほど珍しいことなのか。
そしてレイ自身が、そのことをまるで理解していないということを。
「……先生」
「なんだ」
「この魔法陣、どこが間違ってます?」
「全部だ」
「全部ですか」
「全部だ」
「なるほど……」
レイは素直に頷いた。
その日、基礎魔法構築の授業でレイが学んだことは一つ。
魔法陣は、思ったより難しい。
そしてエルンスト教授が得た感想も、また一つ。
この少年には、基礎から教え直す必要がある。
皇立学園での魔法の授業は、そんな妙に穏やかな形で始まった。




