第7話 フィオナ・レムリア
入学式の喧騒が落ち着き、新入生たちはそれぞれの指定された教室へと移動していた。
天井が高く、等間隔に磨き上げられた窓から柔らかな陽光が差し込む広々とした教室。黒板の前には、すでに学園の教官らしき人物が立ち、手元の書類を整理している。
この皇立学園では、貴族や生まれつき高い魔法の才能を持つ人間は事前の実技試験が免除される仕組みになっていた。
一方で、魔力を持たない者や地方の平民であっても、難関の筆記試験を突破すれば入学が許可される。
そのため、教室内には全く同じデザインの制服を身にまとった貴族の子弟と、どこか緊張した面持ちで周囲を窺う平民の生徒たちが混在していた。
新入生は十三歳の一学年、五十人ほどしかいない。ホームルームは全員がこの一つのクラスに集められるが、ここで行われるのは事務連絡のみ。
授業自体は学年に関係なく各自が自由に選ぶ、完全選択制となっていた。
レイ・ノヴァクは、教室内の一番後ろ、窓際の席に陣取っていた。
いつものリラックスした雰囲気で、椅子の背もたれに軽く寄りかかっている。
ポケットの中では、昨日購入した銀細工の『マナ・チェッカー』が、周囲の生徒たちの魔力に反応して小さく震えていた。
レイはそれを指先で転がしながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
その少し前方には、背筋を美しく伸ばした第二皇女エルリア。そして、その隣には公爵令嬢ミリィの姿もある。
二人はHRの喧騒の中にいながらも、時折、最後方にいるレイへ視線を向けていた。
「――おい、見ろよ。あそこの席」
前方の席から、ひそひそとした貴族の生徒たちの話し声が聞こえてくる。
「何だよ、あののんびりしたやつ。……いや、違う。あいつ、平民の奴の隣に座っているぞ」
「物好きな。辺境伯の嫡男だと聞いたが、やはり田舎者は育ちが知れるな。平民などと馴れ合って、何の利益があるというんだ」
彼らの視線の先。
レイのすぐ斜め前の席には、緊張で肩を狭くして座る平民の男子生徒がいた。
周囲の貴族たちは、まるで境界線でも引くかのように彼から距離を置いている。
だが、のんびり派のレイにとって、そんな身分制度の壁などどうでもいいことだった。
「これ、よかったら使います?」
レイはポケットから、携帯用の筆記用具セットを取り出した。
「え……?」
「ペン持ってくるの忘れたのかと思いまして。これ、予備なので」
「あ、ありがとうございます……」
少年はおそるおそる筆記用具を受け取った。
「僕はレイ・ノヴァク。よろしく。そんなに緊張しなくても、授業が始まればみんなただの学生だよ」
「……僕はトマスです」
レイが気楽に微笑むと、トマスも少しだけ表情を和らげた。
周囲の貴族たちがチッと舌打ちする。
その様子を見ていたエルリアは、上品な微笑みの裏で感嘆していた。
(さすがはゲームの主人公ね。身分に関係なく誰にでも手を差し伸べる……まさに英雄の器だわ)
一方、ミリィもまた顎に手を当てながらレイを見つめていた。
(相変わらずレイはレイね。周囲の目なんて、本当に気にしていない)
ミリィはそこで、ふと苦笑する。
(……まあ、ゲームではもっと人懐っこい感じだった気もするけど)
◇
「静かに。これより、各自の『選択科目希望票』の記入を始めてもらう」
教官の厳格な声と共に、魔法によって複製された書類が、生徒たちの机の上へとふわりと舞い降りた。
周囲の貴族たちは、
「やはり宮廷魔導士を目指すなら、上級魔法理論は必須だな」
「領地経営なんて地味な授業、誰が受けるかよ」
などと、内輪の派手な科目で盛り上がっている。
選択授業は学年関係なく受けるため、難易度の高い上級クラスを選べば、すぐにでも先輩たちと同じ教室で競うことができる。
しかし、レイの選択は極めて実務的だった。
(まずは『統治――領地経営論』)
レイは迷うことなくペンを走らせる。
(将来、自領を豊かにしてのんびり隠居するためには絶対に必要だ。それから……『剣術基礎』)
剣術は基礎科目。
だが、レイにとっては重要だった。
(父上との模擬戦では、いつも一瞬で崩される。もっと身体の使い方を覚えないと)
そして最後に、
(『基礎魔法構築』)
と記入する。
(ここはちゃんと勉強しておいた方がいいな。僕は精霊に頼ることが多いから、一般的な魔法の組み立て方を知らない。感覚だけでやっていると、いつか困るかもしれないし)
レイの選択は、周囲の新入生と比べれば地味だった。
だが、その選択には彼なりの明確な理由があった。
レイは魔力量に恵まれている。
精霊との相性も極めて良い。
剣術も幼い頃から父親に鍛えられている。
新入生の中だけで比較すれば、間違いなく上位に入る。
しかし――。
(……まだまだ知らないことばかりだ)
レイ自身、そのことを理解していた。
父との模擬戦では一度もまともに勝てたことがない。
精霊魔法も、複雑な術式になるほど制御が難しくなる。
特に複数の属性を組み合わせたり、細かな魔力操作を要求されたりすると、感覚だけでは思うようにいかないことも多い。
だからこそ、学園に来た。
自分の知らない技術を学ぶために。
「よし」
レイが希望票を提出しようと席を立った、その時だった。
一人の少女が机に突っ伏すような姿勢で、必死に書類と睨み合っている。
特徴的な深い藍色の髪を短くまとめ、小柄な身体を同じデザインの制服に包んでいる。
その書類を持つ手はかすかに震えていた。
周囲の喧騒に怯えるように、何度も肩をびくつかせている。
(――レムリア侯爵家の、フィオナ・レムリア……だったっけ)
レイは入学式の際の名簿で、その名前を見かけたことを思い出した。
名門貴族の令嬢。
極度の人見知りで引っ込み思案。
そして、非常に高い魔法適性を持つ少女。
「……あの、レムリアさん?」
「ひゃっ!?」
レイが声をかけた瞬間、フィオナは小さな悲鳴を上げて飛び上がった。
その拍子に、机の上に置いてあったインク瓶が傾く。
「あっ」
インクがこぼれる。
レイは反射的に手を伸ばした。
「――っ」
指先に風が集まる。
しかし、昨日までのように完璧な制御ではなかった。
レイの指先から小さな風の渦が生まれ、こぼれたインクを横から押し戻す。
だが――。
「……っと」
インクの一部が机の端へ飛び散った。
レイは慌ててもう一度風を操る。
今度は少し強すぎた。
飛び散ったインクが逆方向へ弾かれ、床に黒い染みを作る。
「……あ」
教室が静かになる。
レイは気まずそうに頭を掻いた。
「すみません。ちょっと強すぎました」
フィオナは呆然と床を見つめていた。
「だ、大丈夫……です」
「紙は汚れてないから、書き直さなくても大丈夫そうですね」
レイはほっと息を吐く。
一見すると大したことのない出来事だった。
しかし――。
少し離れた席にいたミリィは、目を見開いていた。
(今の……)
ミリィはレイの指先を見つめる。
(魔法陣を使わずに風を操った。でも、完全な無詠唱というほどではない。魔力の流れが……少し乱れていた)
ミリィは前世のゲーム知識と、これまでのレイへの認識を重ね合わせる。
(ゲーム開始時のレイよりは、明らかに強い。でも……)
以前のような「何でも完璧にできる異常な存在」ではない。
むしろ――。
(ちゃんと失敗するんだ)
その事実に、ミリィは少しだけ安心した。
一方、エルリアは別の意味で感心していた。
(魔法陣なしで風を操った……。でも、制御にはまだ荒さがある)
エルリアは、これまでの旅で見たレイの戦闘を思い出す。
確かに彼は強い。
しかし、万能ではない。
特に魔法の細かな制御については、学ぶ余地が十分にあるように見えた。
(なるほど……。これから学園で成長していく、ということなのね)
エルリアは勝手に納得した。
当のレイは、そんな二人の視線にも気づかず、床にこぼれたインクを見ていた。
「……掃除しないと」
◇
「大丈夫ですか?」
レイがそう尋ねると、フィオナはこくこくと頷いた。
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ。僕の魔法もまだ練習中なので、あまり参考にならないかもしれませんけど」
「……練習中?」
フィオナが小さく顔を上げる。
「はい。僕、魔法陣を使う普通の魔法があまり得意じゃなくて」
「……」
フィオナの瞳が、少しだけ大きくなった。
「精霊魔法なら比較的得意なんですけどね」
「精霊……」
フィオナはレイの周囲を見つめる。
もちろん、シルフの姿は彼女には見えない。
「私……魔法陣を、たくさん勉強しました」
「そうなんですか?」
「はい……。だから、その……」
フィオナは少し迷ったあと、自分の希望票をレイに差し出した。
そこには一年生としては異例なほど高度な、
『上級元素融合論』
『魔力制御理論』
『高位魔法陣解析』
などの科目が並んでいた。
レイは思わず感心する。
「へえ……すごいな。こんな難しい授業、僕には無理そうです」
「そ、そんな……」
「いや、本当に。僕、魔法陣のことはほとんど知らないので」
レイは自分の希望票を見せる。
そこには、
『統治・領地経営論』
『剣術基礎』
『基礎魔法構築』
と書かれている。
フィオナはその文字をしばらく眺めていた。
「……基礎魔法構築」
「はい。ちゃんと勉強しておこうと思って」
「レイさん……強いのに?」
「え?」
レイは首を傾げる。
「僕、そんなに強くないですよ」
フィオナは思わず目を瞬かせた。
「……?」
「学園に来る人たちなら、僕より強い人もたくさんいると思います」
実際、レイはそう考えていた。
ノヴァク領では父親との模擬戦が基準だった。
そのせいで、自分がどれほど恵まれた才能を持っているのかを正しく理解していない。
だが、同時にレイは自分の弱点も知っている。
細かな魔力制御。
魔法理論。
複雑な術式。
経験。
そして、何より実戦での判断力。
そこにはまだ大きな伸びしろがある。
「だから、これから勉強しないと」
レイはそう言って笑った。
フィオナはしばらく黙っていた。
そして――。
ほんの少しだけ、口元を緩めた。
「……私も、勉強します」
「はい。お互い頑張りましょう」
レイはのんびりと笑った。
フィオナの頬が、ほんのり赤くなる。
その様子を遠くから見ていたミリィは、心の中で小さく息を吐いた。
(うん……こっちの方がいい)
ゲームの主人公としての才能はある。
新入生の中でも、おそらくトップクラス。
でも――。
(まだ「完成された主人公」じゃない)
それなら、この先の物語にも意味がある。
剣術を学ぶ。
魔法理論を学ぶ。
仲間と出会う。
敗北を知る。
自分の限界を知る。
そして、それを一つずつ乗り越えていく。
ミリィは、初めてレイの姿にゲーム開始時の主人公らしさを感じた。
「……さて」
レイは自分の希望票を眺めながら、小さく呟いた。
「これで、のんびり学生生活を送れるかな」
その言葉を聞いて、ミリィは思わず苦笑する。
(たぶん……無理でしょうね)
同じ十三歳の新入生が集うホームルーム。
そこで始まった、身分も適性も超えた奇妙な交流。
まだ誰も知らない。
この少年が、学園で多くの仲間と出会い、数え切れない失敗と成長を重ねていくことを。
そして――。
「でしゃばらず、のんびり過ごす」というレイ本人の願いとは裏腹に、彼の周囲には少しずつ、物語の歯車が集まり始めていた。




