第3話 ミリィ・フローレンス
「ミリィ? どうかいたしましたの?」
不思議そうに小首を傾げるエルリアの声は、ミリィの耳には届いていなかった。
彼女はただ、そこにいるはずのない少年の姿を、じっと見つめ続けることしかできなかった。
(――どうして、レイがここにいるの?)
ミリィの頭の中は、今や激しい混乱の渦に叩き落とされていた。
彼女には、前世の記憶がある。
この世界が、かつて自分が最後まで遊び尽くした王道RPG『ブレイブ・ファンタジー』の世界であるという確信。
そして、その知識によれば――物語は『皇立学園の入学式』から始まるはずだった。
主人公であるレイ・ノヴァクが辺境から皇都へ上京し、学園の門をくぐる。
そこから、彼の運命と世界の命運を巻き込んだ物語が始まる。
少なくとも、ゲームではそうだった。
それなのに。
(どうして……入学式より前に、レイがエルリア殿下と一緒にいるの?)
ゲームのシナリオには、このような前日譚は存在しなかった。
しかも、エルリアはディルムード魔導国への大使として赴いていたはずだ。
その帰路の馬車に、辺境にいるはずのレイが同乗している。
ミリィには、何がどうなっているのかまるで理解できなかった。
(まさか……私が知らないイベント?)
背筋を冷たい汗が伝う。
『ブレイブ・ファンタジー』には、ゲーム本編だけでは描かれていない裏設定や、条件次第で発生するイベントも数多く存在した。
しかし――
(こんなイベント、攻略サイトにもなかったはず……)
ミリィは必死に記憶を探る。
だが、どれだけ思い返しても、この場面に繋がるイベントは見つからなかった。
「……ミリィ? 顔色がよろしくありませんわよ」
エルリアが心配そうに顔を覗き込んでくる。
その声で、ミリィはようやく我に返った。
いけない。
今は公爵令嬢として振る舞わなければ。
ミリィは一度だけ深く息を吸い、いつもの優雅な微笑みを浮かべた。
「いいえ、滅相もございません、エルリア殿下。少々、意外な方のお姿が見えたものですから、驚いてしまいましたの」
ミリィは改めてレイへ視線を向ける。
「お久しぶりですわね、レイ。貴方も学園へ向かう途中でしたの?」
「久しぶり、ミリィ」
レイは昔と変わらない、のんびりとした笑みを浮かべた。
「うん。ちょうど入学の時期だからね。途中で殿下の馬車に拾ってもらったんだ」
「そうでしたの……」
屈託のない表情。
穏やかな口調。
どこか気の抜けた雰囲気。
その姿は、ミリィの知る『ゲームの主人公レイ』そのものだった。
だからこそ、余計に混乱する。
二人は幼少期、貴族の夜会や領地間の付き合いで何度か顔を合わせた程度の仲だ。
同い年ということもあり、互いに気の置けない知人ではあった。
だが、ミリィにとってレイは、それだけの存在ではない。
世界の命運を背負い、やがて邪神と戦うことになる主人公。
本来なら、今の段階ではまだ深く関わる必要のない人物だった。
(ストーリーラインにないことが起きている……)
ミリィは胸の内で呟く。
(この世界は、もう私の知っているゲームとは違うの?)
もしそうなら。
邪神討伐に至るシナリオそのものが崩れているのだとしたら――
この世界の未来はどうなるのか。
最悪の可能性が、次々と頭をよぎる。
一方、その隣でミリィの様子を見ていたエルリアは、心の中で小さく息を吐いていた。
(ミリィったら、ずいぶんと驚いているわね)
まあ、無理もない。
辺境伯の嫡男が、皇女である自分の馬車から降りてくれば驚くのが普通だ。
(世の中、予定通りにいかないことなんていくらでもありますもの)
エルリアにもまた、前世の記憶があった。
ただし、彼女は『ブレイブ・ファンタジー』を途中でやめてしまっていた。
物語の序盤から中盤までは知っている。
だが、終盤の展開までは知らない。
そのため、現在の出来事に多少の違和感を覚えながらも――
(まあ、ゲームに存在しなかった出来事くらい起こりますわよね)
程度にしか考えていなかった。
何より、二人はお互いが転生者であり、同じゲームの知識を持っているなどとは微塵も気づいていなかった。
ただの幼馴染の貴族令嬢同士として、これまで接してきたに過ぎない。
「立ち話もなんですわ」
エルリアが手を叩く。
「ミリィ、貴方の荷物の準備は済んでいらっしゃるのでしょう?」
「はい、すでに」
「それなら、すぐにでも出発できますわ。フローレンス公爵閣下には、私からすでに挨拶を済ませてありますから」
エルリアはレイにも視線を向ける。
「レイ卿も、馬車の中へどうぞ」
「はい」
促され、ミリィは複雑な胸中を抱えたまま、用意していた旅行鞄を従僕へ預けた。
ちなみに、ミリィの兄であるレオンハルトは、すでに学園の最上級生として皇都に滞在している。
そのため、この場には不在だった。
それだけが、ミリィにとって数少ない「いつも通り」の現実だった。
◇
フローレンス領を出発した豪華な馬車は、再び皇都へ続く滑らかな街道を進み始めた。
車内には、レイ、エルリア、ミリィの三人が向かい合って座っている。
「それにしても、レイ卿」
沈黙を破ったのはエルリアだった。
「先ほどの戦い、本当に見事でしたわ」
「ありがとうございます」
「特に、風を使ったあの動き。騎士たちとの連携も見事でした」
エルリアの瞳には、純粋な好奇心が浮かんでいる。
「一体、どのような訓練を積まれてきたのですの?」
その質問に、ミリィもさりげなく耳を傾けた。
ゲームの主人公。
しかも、幼い頃からその才能の片鱗を見せていた少年。
彼がどれほど成長しているのか。
それはミリィにとっても気になるところだった。
「いえ、大したことはしていませんよ」
レイは恐縮したように頭を掻いた。
「毎日のように父上と模擬戦をしていただけです」
「毎日……」
「はい。まあ、ほとんど負けていますけど」
「……え?」
エルリアが目を丸くする。
「父上が強すぎるんですよ」
レイは苦笑した。
「今日の戦いだって、僕一人で三十体全部を倒したわけじゃありません。騎士の皆さんがかなり戦ってくれていましたし」
「ですが、貴方が戦場に入ってから、状況が一気に変わりましたわ」
「それは……風魔法が得意だからだと思います」
レイは少し考えた。
「僕は精霊との相性がいいので、風を使った移動や補助には自信があります。でも、剣術だけならまだまだです」
「そうなのですか?」
「はい」
レイは真面目な顔で頷いた。
「父上からは、魔法に頼りすぎるなって、いつも言われています」
「……なるほど」
エルリアは納得したように頷いた。
先ほどの戦いを思い返す。
確かにレイは速かった。
しかし、何度か魔物の攻撃を避ける際には、風を使って大きく距離を取っていた。
一撃で全てを葬り去ったわけではない。
むしろ、魔物の群れを分断し、騎士たちが戦いやすい状況を作りながら、一体ずつ確実に倒していた。
「では、貴方は自分の実力をどの程度だと思っていますの?」
「うーん……」
レイは腕を組んだ。
「同年代の中では、たぶん強い方だと思います」
ミリィの眉がわずかに動いた。
意外だった。
ゲームの主人公だからといって、自分を過小評価しているわけではないらしい。
「でも」
レイは続ける。
「学園には僕より強い人も、きっといると思います」
「まあ……」
エルリアが少し驚いたように目を瞬かせた。
「そんなに自信がないのですか?」
「逆ですよ」
レイは笑った。
「自分がどれくらい強いかは、なんとなく分かっています。でも、父上と比べると全然ですし、領内の騎士にも剣だけなら僕より上手い人がいます」
そして、少し楽しそうに続けた。
「だから、学園が楽しみなんです」
「……楽しみ?」
「はい」
レイの緑色の瞳が輝いた。
「同年代で、自分より強い人と戦ったことがほとんどないので」
その言葉に、ミリィは内心で少し驚いた。
(ゲームのレイも、戦うこと自体は嫌いじゃなかったけれど……)
彼はもっと、自分を大したことのない存在だと思っているイメージだった。
しかし実際には違う。
レイは自分の実力を理解している。
ただ、それを「完成された強さ」だとは思っていないのだ。
(……なるほど)
ミリィは少しだけ考える。
ゲーム開始時点の主人公は、まだ未完成だった。
才能はある。
しかし、物語を進める中で仲間と出会い、強敵と戦い、何度も敗北を経験して成長していく。
その姿こそが『ブレイブ・ファンタジー』の魅力だった。
(だったら……まだシナリオ通りなのかもしれない)
ミリィは、ほんの少しだけ安堵した。
少なくとも、レイが最初から完成された化け物になっているわけではない。
彼にはまだ、成長する余地がある。
それは、ゲームを知るミリィにとって重要なことだった。
「それにしても」
エルリアが再び口を開く。
「先ほど、風と炎の両方を使っていましたわね」
「はい。シルフとアグニのおかげです」
『呼んだ?』
シルフがレイの肩の辺りへ姿を現す。
『あたしの力があったから、あれくらいできたんだからね!』
『俺もいたぞ』
アグニも小さく炎を揺らす。
「もちろん二人とも頼りにしてるよ」
レイが笑う。
エルリアはその様子を興味深そうに眺めた。
「精霊とそれほど自然に会話できる方は、珍しいですわね」
「そうなんですか?」
「ええ」
「でも、僕にとっては普通なんですよね」
「その『普通』が、普通ではないのでしょうね」
エルリアが苦笑した。
ミリィもまた、二人の精霊を見つめながら考えていた。
(やっぱり……)
ゲームでも、主人公レイは複数属性の精霊と契約する特殊な才能を持っていた。
ただし、それは物語を進める中で少しずつ明らかになっていく設定だったはず。
(この世界では、ゲームより少し早く才能が開花している……?)
ミリィの胸に、再び小さな不安が芽生えた。
ゲームとの違いは、まだ消えていない。
馬車は、そんな噛み合っているようで噛み合っていない三人の会話を乗せ、皇都へ向かって走り続けた。
窓の外には、時折、邪神の影響によって少し淀んだ色を見せる森や、逆に精霊のマナが濃く残る美しい渓谷などが現れる。
レイはその景色をのんびりと眺めながら、時折ミリィやエルリアの学園生活への展望に相槌を打っていた。
数日間の旅路は、思いのほか穏やかだった。
そして――
やがて馬車の窓から、地平線にそびえ立つ巨大な白亜の城壁が見えてきた。
アルカディアス皇国の首都。
皇都である。
城門をくぐった瞬間、辺境や地方都市とは一線を画す、圧倒的な活気と喧騒が広がった。
石畳の大通りを無数の馬車が行き交い、様々な地方から集まった人々が通りを埋め尽くしている。
珍しい魔導具を並べた店。
見たこともない食材を売る露店。
魔術師たちが集う工房。
その全てが、レイには新鮮だった。
「すごい……」
思わず窓へ顔を近づける。
「皇都って、本当に大きいんですね」
「ふふ。気に入っていただけました?」
エルリアが微笑んだ。
「はい。これは、しばらく散歩するだけでも楽しそうです」
ミリィはそんなレイを見ながら、思わず微笑んだ。
(……やっぱり昔と変わらないわね)
世界を救う主人公。
その肩書きとはあまりにも不釣り合いなほど、レイはのんびりしていた。
◇
「さて、私たちはここまでですわね」
皇族専用の区画へ向かうエルリア。
公爵家の別邸へ向かうミリィ。
そして、学園の一般寮へ向かうレイ。
三人は皇都中心部の広場で馬車を降り、一度別れることになった。
「入学式で、またお会いしましょう、レイ卿、ミリィ」
エルリアが優雅に手を振る。
「はい、殿下」
「ええ。また学園で」
ミリィも微笑んだ。
そして、レイへ視線を向ける。
「レイ」
「ん?」
「……学園では、あまり無茶をしないようにしてくださいね」
「無茶?」
「貴方は昔から、変なところで無茶をするでしょう?」
「そうかな?」
「そうですわ」
ミリィは小さく笑った。
「では、また入学式で」
「うん。またね、ミリィ」
二人を乗せた馬車が、それぞれの目的地へ向かって走り出す。
レイはその姿を見送ると、大きな旅行鞄を肩へかけた。
「さて、と」
いよいよ皇立学園だ。
入学式までは、まだ数日ある。
せっかくの大都会なのだから、少しくらい散策してみてもいいだろう。
レイはそんな気軽な気持ちで、皇都の街へ歩き出した。




