第2話 エルリア・フォン・アルカディアス
大空を滑るように進む風は、ひやりとして心地よかった。
レイは一定の高度を保ちながら、眼下に広がる景色を眺めていた。
辺境を飛び立って数日。
すでに景色はノヴァク領の荒々しい岩肌から、なだらかな丘陵地帯へと移り変わっている。
見渡す限りの草原を一本の街道が貫き、その先には深い森の影が横たわっていた。
「そろそろフローレンス領の境界かな」
そう呟いた時だった。
風の精霊シルフが、レイの金髪をくいくいと引っ張った。
『ねえレイ。あそこ。変なマナの塊がぐちゃぐちゃに動いてる。何か戦ってるみたい』
「ん?」
シルフが指し示した先へ、レイは視線を向けた。
街道の木々に囲まれた、やや開けた一角。
そこには、きらびやかな装飾が施された馬車が停まっていた。
明らかに高貴な身分の者が乗る馬車だ。
その周囲では、十数人ほどの騎士たちが剣を振るっている。
そして――
「……多いな」
彼らを取り囲む黒い影の数は、ざっと見ても三十体近い。
二足歩行の狼に似た魔物。
ウルフヘッドの群れだった。
「面倒だけど……見過ごすわけにもいかないか」
レイは小さく息を吐いた。
戦っている者たちの実力は低くない。
しかし、あの数を相手にして長期戦になれば、いずれ誰かが傷を負う。
レイは身体を包む風の密度を調整すると、ゆっくりと高度を下げていった。
『気をつけてね、レイ』
『俺も手を貸すぞ』
「うん。お願い」
街道では、銀髪の少女を背に庇った騎士たちが必死の防戦を繰り広げていた。
騎士たちの腕は確かだった。
無駄のない連携で魔物の鋭い爪を弾き、隙を見つけては一体ずつ確実に仕留めている。
怪我人もまだいない。
守られている少女――エルリアもまた、凛とした表情で杖を構え、光の弾を放っていた。
前衛の騎士たちが見落とした魔物を牽制し、仲間の死角を補う。
だが、それでも数の差は大きかった。
(このままじゃ、いずれ押し切られる……)
エルリアは心の中で唇を噛んだ。
ディルムード魔導国への大使としての任務を終え、アルカディアス皇国への帰路についた矢先の災難だった。
騎士たちの体力にも限界がある。
長期戦になれば、こちらが不利になるのは明らかだった。
しかも、魔物たちの動きには妙な統率がある。
まるで何者かに操られているかのように、執拗にこちらの隙を狙っていた。
その時だった。
戦場に、一陣の風が吹いた。
「――風?」
エルリアが顔を上げる。
突風ではない。
妙に鋭く、圧縮された風。
その風が街道の上空から一気に降下してきた。
「シルフ!」
レイの声が響く。
少年が地面へ降り立った瞬間、その周囲から無数の風の刃が放たれた。
「――っ!」
ヒュンッ!
数体のウルフヘッドが、風に弾き飛ばされる。
さらにレイ自身が踏み込んだ。
「そこ、どいて!」
風を足元へ集中させる。
一歩。
それだけでレイの身体が加速した。
「はあっ!」
木剣ではない。
今回は旅のために腰へ帯びていた、短めの実戦用の剣。
それを振り抜く。
一体。
二体。
三体。
レイは次々と魔物の懐へ入り込み、急所を狙って剣を叩き込んでいく。
だが――
「……っ!」
一体の爪が、レイの頬をかすめた。
「危なっ……!」
レイは慌てて身体を捻り、風を爆発させるようにして距離を取った。
(やっぱり実戦は訓練とは違うな……)
魔物の動きは予測しにくい。
一瞬でも判断を誤れば、こちらが怪我をする。
レイは息を整えながら、周囲を見渡した。
すでに騎士たちが状況を立て直している。
「右側、二体お願いします!」
「了解!」
「中央は俺たちが抑える!」
レイが魔物の群れを風で分断したことで、騎士たちの連携が容易になっていた。
「アグニ!」
『任せろ!』
レイの剣に赤い炎がまとわりつく。
「はああっ!」
横薙ぎ。
炎を纏った剣が魔物の身体を焼き、動きを止める。
その隙を逃さず、騎士が一気に斬り伏せた。
「助かった!」
「まだいます!」
レイは再び風を纏う。
一体。
二体。
三体。
先ほどまでのような勢い任せの戦いではない。
魔物の動きを見て、騎士たちが戦いやすい場所へ誘導し、自分は隙を突いて攻撃する。
それを繰り返す。
やがて――
最後の一体が、騎士の剣によって地面へ倒れた。
「――終わった……?」
誰かが呟いた。
周囲を見渡す。
もう魔物の姿はない。
三十体近くいたウルフヘッドの群れは、騎士たちの奮戦とレイの援護によって、すべて撃退されていた。
「――ふぅ」
レイは小さく息を吐いた。
剣を鞘へ戻す。
さすがに息は少し上がっていた。
「結構、魔力を使ったな……」
『だから言ったでしょ。最初から飛ばしすぎだって』
「うん。ちょっと反省」
『でも、前よりずっと上手くなったよ』
シルフの言葉に、レイは小さく笑った。
「そうかな?」
『そうそう』
その光景を、エルリアは呆然と見つめていた。
一人で三十体を倒したわけではない。
しかし――
少年が戦場へ入った瞬間、それまで拮抗していた戦況が明確に変わった。
風による高速移動。
精霊の力を利用した攻撃。
魔物の動きを読む判断力。
そして、騎士たちと即座に連携する対応力。
十三歳の少年として考えれば、十分すぎるほどの実力だった。
「……あ、あの」
沈黙を破ったのは、エルリアだった。
幼さの残る整った顔立ちを驚愕に染めながらも、皇女としての気品を保とうと背筋を伸ばす。
「助けていただき、感謝いたしますわ」
エルリアは一歩前へ出る。
「私はアルカディアス皇国第二皇女、エルリア・フォン・アルカディアスと申します。貴方のお力添えがなければ、もう少し苦しい戦いになっていたでしょう」
「ノヴァク辺境伯が嫡男、レイ・ノヴァクです。皇女殿下とは知らず、不躾な真似を失礼いたしました」
レイは少し慌てた様子で膝をついた。
エルリアはその名を聞いて、目を見開いた。
「ノヴァク辺境伯の……ご子息?」
「はい」
なるほど。
先ほどの戦いを見れば納得できる。
辺境伯領で育った少年なら、幼い頃から魔物との戦いを経験しているのかもしれない。
「そこまで畏まらないでください、レイ卿」
エルリアは微笑みながら、立ち上がるよう促した。
「貴方も皇都の学園へ向かう途中なのですか?」
「ええ、そうです」
「それなら、ちょうどよかったですわ!」
エルリアの表情が少し明るくなる。
「よろしければ、我が一団の馬車と同乗されませんか? 先ほどの戦いを拝見した限り、貴方のような方が同行してくだされば心強いですもの」
「それは……」
レイは困ったように頬を掻いた。
「お気持ちはありがたいのですが、実は僕、馬車は使っていなくて」
「……はい?」
「風の魔法で飛んできたんです」
「…………」
エルリアの表情が止まった。
背後にいた騎士たちも固まる。
「辺境から……飛んで?」
「はい。まあ、休憩しながらですけど」
「何日ほどで?」
「三日くらいですね。途中で何度か降りて休みました」
「……三日」
エルリアは目を瞬かせた。
通常なら半月近くかかる道程だ。
飛行術式を使える魔術師自体は珍しくない。
だが、長距離を一人で飛び続けるには、それ相応の技術と魔力が必要になる。
それを十三歳の少年が、まるで旅の手段の一つであるかのように語っている。
「……貴方、本当に面白い方ですわね」
エルリアは思わず笑ってしまった。
「ですが、ここから先は私の馬車をご利用くださいませ」
「どうしてですか?」
「皇族の馬車なら、貴方が一人で空を飛んでいるより目立ちませんもの」
「あ……」
レイは納得した。
「確かに」
これ以上目立つのは本意ではない。
「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
「ええ。そうしてくださいな」
エルリアは満足そうに微笑んだ。
「そう言えば、レイ卿。皇都へ直行する前に、一つ寄りたい場所がありますの」
「寄りたい場所?」
「ええ。この先のフローレンス領で、私の友人であるミリィと合流する手筈になっておりますの。彼女も一緒に皇都へ向かう予定ですわ」
「ミリィ嬢……フローレンス公爵家の?」
「ええ、ご存知でしたのね」
「昔、何度か会ったことがあります」
「まあ。それでは、ますますちょうどよいですわね」
エルリアは楽しそうに微笑んだ。
「では、まずはフローレンス領へ向かいましょう。出発いたしますわよ」
エルリアに促され、レイは苦笑しながら豪華な馬車へと足を踏み入れた。
◇
皇族の馬車の中は、驚くほど静かで快適だった。
外の街道の凹凸をほとんど感じさせない滑らかな乗り心地は、車体に施された精緻な職人技の賜物だろう。
内装は深い紺色のベルベットで統一され、金糸の刺繍が施されている。
レイは勧められるままにふかふかのシートへ腰掛けた。
そして、すぐにいつもの癖で上着のボタンをいくつか外し、少し背を崩して座る。
「レイ卿、ずいぶんと寛がれますのね」
対面に座るエルリアが、呆れたような、しかしどこか興味深そうな視線を送ってくる。
「すみません。どうにも、きっちりした格好というのは肩が凝ってしまって。学園でも怒られない程度には緩めるつもりです」
「ふふ。皇族の私の前で、それを堂々と言ってのけるなんて大した度胸ですわ」
エルリアは楽しそうに笑った。
「まあ、先ほど私たちを助けてくださった方ですもの。この馬車の中に限っては不問にして差し上げます」
「ありがとうございます」
エルリアは上品に微笑みながら、卓上に用意されていた温かい紅茶へ口をつけた。
ディルムード魔導国への大使としての激務から解放され、ようやく一息つける安堵感が、彼女の表情を少しだけ幼く見せている。
「レイ卿は、フローレンス公爵令嬢のミリィとは以前から面識が?」
「ええ」
レイは窓の外を流れる木々を眺めながら記憶を遡った。
「子供の頃、領地同士の付き合いや皇都での夜会なんかで、何度か一緒に遊んだことがあります。ずいぶん昔のことですけど」
「あら。幼馴染のようなものですのね」
「そんなに頻繁に会っていたわけじゃないですよ」
「それでも、ミリィはとても優秀で美しい方ですわ。今回の学園入学も、周囲から大変な期待を寄せられています」
「そうなんですね」
レイは素直に頷いた。
「昔から頭がよかったですからね。僕なんかより、ずっと勉強ができましたし、魔法も上手く使えてました」
「まあ」
エルリアが意外そうに目を丸くする。
「レイ卿は、ご自身をかなり低く評価されていますのね」
「そうですか?」
「ええ」
エルリアは少し考えてから尋ねた。
「先ほどの戦いを見ていて、私は貴方がかなりの実力者だと思いましたわ。少なくとも、同年代の中ではかなり上位に入るのでは?」
「……たぶん、そうだと思います」
レイは少し考えて答えた。
「父上にも、同年代の中では十分強いって言われていますから」
「では、やはり――」
「でも」
レイは苦笑した。
「上には上がいると思います」
「……」
「僕は風魔法が得意で、精霊にも力を借りられます。でも、剣術だけなら父上の足元にも及びません。魔法だって、僕より優れた人はきっといるでしょう」
レイは窓の外へ視線を向ける。
「だから、学園ではいろんな人と戦ってみたいんです。自分に何が足りないのか知りたいし」
「……意外ですわ」
「何がです?」
「先ほどまで、もっと自信のない方なのかと思っていました」
「僕、自信はありますよ」
レイは笑った。
「風魔法なら、かなり得意な方だと思っています」
「まあ」
「ただ、それだけで強くなれるほど甘くないって、父上に教えられてきましたから」
その言葉に、エルリアは少しだけ感心したような表情を浮かべた。
(自分の強さを理解した上で、それでもまだ足りないと思っている……)
十三歳。
それを考えれば、十分すぎるほど優秀だ。
だが、目の前の少年には、まだ伸びしろがある。
今の彼が完成形ではない。
そのことを、エルリアは直感的に理解していた。
(……皇立学園で、どこまで成長するのかしら)
少しだけ、楽しみになった。
馬車はそれからも、のどかな街道を進み続けた。
時折、遠くの森から魔物の咆哮らしきものが聞こえてくることもあったが、レイが同乗しているという事実は、馬車内の騎士たちにとっても大きな安心感をもたらしていた。
二人はそれから、他愛のない領地の話や、これから通うことになる学園の噂について言葉を交わした。
レイののんびりとした口調は、不思議とエルリアの張り詰めていた心を解きほぐしていく。
「それにしても、飛んでいくなんて本当に無茶をなさいますわね」
「だから、効率がいいんですよ。一ヶ月かかる道が七日くらいになるんですから」
「それでも普通は馬車を選びますわ」
「そうかな?」
「そうです」
「うーん……」
レイは真剣に考え込んだ。
「まあ、こうして殿下の馬車でお茶をいただくのも、悪くないですね」
「お上手ですこと」
エルリアは小さく笑った。
その笑顔には、出会った当初の硬さはもう残っていなかった。
◇
数日後。
馬車は広大な田園風景を抜け、美しく整えられた城下町へと入った。
ここがフローレンス領の中心地だ。
辺境のノヴァク領に比べると、穏やかで洗練された空気が漂っている。
街道を行き交う人々も多く、商店からは活気のある声が聞こえてくる。
馬車は町の人々の注目を集めながら進み、やがて町を見下ろす丘の上に建つ、白壁の壮麗な公爵邸へと到着した。
格式高い鉄製の正門が開かれ、馬車がゆっくりと敷地内へ滑り込んでいく。
「着きましたわね」
エルリアが窓の外を見やりながら、少し背筋を伸ばした。
皇女としての表情に戻る瞬間だった。
馬車が完全に停止し、御者が扉を開く。
レイが先に馬車を降り、差し出した手をエルリアが取る。
気品ある動作で地面へ降り立ったエルリアと共に、二人は公爵邸の正面玄関へと向かった。
そこにはすでに、出迎えのために整列した使用人たち。
そして――
「お待ちしておりました、エルリア殿下」
鈴を転がすような、しかしどこか落ち着いた凛とした声が響いた。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
艶やかな茶色の髪を美しくまとめ、同じ茶色の瞳には理知的な光を宿している。
十三歳とは思えないほど整った容姿。
まさに公爵令嬢と呼ぶに相応しい、気品に満ちた少女だった。
彼女こそが、フローレンス公爵家の長女。
ミリィ・フローレンス。
ミリィは完璧な所作で膝を折り、エルリアへ礼を捧げた。
「お久しぶりでございます、殿下」
「ええ、ミリィ。無事に戻りましたわ」
「お帰りなさいませ」
礼を終え、ミリィが顔を上げる。
その視線が、エルリアの少し後ろに立つ少年へ向いた。
着崩した制服。
特徴的な金髪。
緑色の瞳。
そして、どこかのんびりとした独特の空気感。
「――え?」
ミリィの瞳が、大きく見開かれた。
端正な顔立ちが、一瞬だけ完全に固まる。
「……レイ、様?」
レイは少し驚きつつも穏やかに答えた。
「久しぶり、ミリィ」
二人の視線が交差する。
幼い頃に別れて以来、長い時間が流れていた。
それでも――
互いの顔を見間違えることはなかった。
三人の少年少女は――
皇立学園へ向かう前に、フローレンス公爵邸で再会を果たしたのだった。




