第1話 プロローグ
「はあああっ!」
乾いた風を切り裂き、レイは地を蹴った。
手にする木剣が、淡い緑色の光を帯びる。大気から取り込んだマナが、少年の意志に従って不可視の術式を編み上げていく。
詠唱も、魔法陣の構築もない。
ただ、意識した瞬間に風が応える。
レイはその力を足元へ集中させ、一気に前へと踏み込んだ。
通常の人間では到底届かない速度。
だが、それでも――目の前に立つ巨大な男には届かない。
レイは一瞬で間合いを詰め、斜め十文字の斬撃を叩き込んだ。
キィィィン――ッ!
硬質で、鼓膜を震わせる高い衝撃音が特訓場に響き渡った。
「ほう。速度はかなり上がったな。踏み込みも悪くない」
レイの渾身の一撃を、身の丈ほどもある無骨な大木剣で受け止めたのは、ルイ・ノヴァクだった。
レイの父親であり、この辺境領を統べる領主。
その圧倒的な巨躯から放たれる威圧感だけでも、周囲の空気を重く感じさせる。
「……だが、まだ軽い」
「っ……!」
レイは歯を食いしばり、さらに木剣へ力を込める。
しかし、びくともしない。
(やっぱり、まともに受け止められる……)
レイは交差した木剣を見つめながら、父親の動きを必死に分析する。
(剣術だけじゃない。剣に風を纏わせて、僕の力を逃がしてる……?)
わずかな角度。
ほんの数センチの剣筋。
それだけで、レイの斬撃は威力を大きく削がれていた。
父親の技術は、単純な力比べではない。
レイが風によって速度を何倍にも高めても、その勢いを正面から受け止めるのではなく、最小限の動きで逸らしてしまう。
「まだまだだな」
「……はい」
レイが一度距離を取った。
息は上がっている。
風の補助によって身体への負担は減らしているが、それでも連続して高出力の身体強化を行えば魔力は確実に消耗する。
以前よりも長く戦えるようにはなった。
だが、父親と比べればまだ話にならない。
「次は俺から行くぞ、レイ!」
その瞬間。
ルイの身体から、爆発的な熱量が放たれた。
「――!」
ただの横薙ぎ。
それだけのはずだった。
だが、あまりの熱量に周囲の空気が陽炎のように揺らめく。
レイは即座に身体の周囲へ風の障壁を展開した。
大気中のマナを集め、風圧を幾重にも重ねて防壁を作る。
しかし――
「遅い!」
ルイの大木剣が、防壁へと叩き込まれる。
轟ッ!
風の壁が一瞬で吹き飛んだ。
(しまっ――!)
防御が間に合わない。
レイは咄嗟に身体を捻った。
しかし、それでも完全には避けきれない。
次の瞬間。
大木剣が、レイの首筋から数センチのところで停止した。
凄まじい風圧と熱風だけが、レイの金髪を激しくなびかせる。
「そこまでだな」
ルイはふう、と息を吐き、大木剣を肩に担ぎ上げた。
「……ありがとうございました」
レイは悔しそうに息を吐いた。
「惜しかったな」
「本当ですか?」
「ああ。以前なら、今の一撃で完全に動けなくなっていただろう。今日は最後まで自分で回避しようとした。少しずつだが、確実に成長している」
ルイはそう言って、自由になった左手でレイの頭を乱暴に撫で回した。
「だが、風に頼りすぎているのは相変わらずだな」
「……やっぱり、そこですか」
「お前の風魔法は確かに強力だ。十三歳の子供が使える技術としては、間違いなく一級品だろう。だが、魔力で身体を補助できなくなった時、お前自身の足腰や剣技だけでどこまで戦える?」
「……」
レイは答えられなかった。
「魔法が使えなくなれば、今のお前は一気に戦いにくくなる。それでは本当の意味で強いとは言えん」
「はい」
ルイの言葉に、レイは素直に頷いた。
「魔力に頼らなくても戦える身体を作れ。剣も、もっと基礎を磨け。お前には才能がある。だからこそ、基礎を疎かにするな」
「分かりました」
レイは自分の手を見つめた。
やはり、父上には遠く及ばない。
自分は風の力を借りれば、同年代の中ではかなり戦える。
それは分かっている。
だが、父親と戦えば、こうして簡単に止められてしまう。
まだ足りない。
もっと、もっと基礎から鍛え直さなければ。
「気にするな」
ルイは笑った。
「これから行く皇都の学園には、お前と同年代でも相当な実力者がいる。貴族の子弟だけじゃない。平民出身の天才や、魔法の名門に生まれた者、幼い頃から剣を叩き込まれてきた者もいるだろう」
「……僕より強い人も、たくさんいるでしょうね」
「当然だ」
即答だった。
「むしろ、そうでなくては面白くないだろう?」
「……それは、ちょっと楽しみです」
レイは小さく笑った。
「しっかりそこで揉まれて、さらに強くなって帰ってこい!」
「はい。次期領主として、恥ずかしくない知識と実力を身につけてきます」
レイは真っ直ぐな目で答えた。
のんびりとした性格のレイだが、将来的に領民を守るという責任感は人一倍強い。
彼にとって強さを求める理由は、名声を得るためではない。
ただ愛する自領の平穏を守るため。
そのために、自分はもっと強くならなければならない。
レイ・ノヴァク、十三歳。
本日、長年過ごした辺境の城を離れ、皇国の中央にある皇立学園へと旅立つ日がやってきた。
◇
模擬戦を終え、自室で旅支度の最終確認をしていたレイは、窓の外を流れる雲を眺めていた。
すると、視界の端でキラキラと輝く光の粒子が集まり始める。
『なーに黄昏れてるの、レイ? またおじさんに負けちゃったからって、落ち込んでるの?』
鈴を転がすような少女の声と共に姿を現したのは、透き通るような緑色の髪と羽を持つ小さな存在――風の精霊、シルフだった。
「落ち込んでなんかいないよ、シルフ。父上が強いのは今に始まったことじゃないしね。ただ、自分の未熟さを再確認しただけさ」
『ふーん、相変わらずストイックねぇ』
シルフはレイの周囲をくるくると飛び回る。
『あたしから見れば、レイはもう十分強いと思うんだけど?』
『そうだぞ、レイ。お前は少々、自分に厳しすぎる』
シルフの言葉に同調するように、今度は部屋の暖炉の炎が不自然に大きく爆ぜた。
そこから現れたのは、真っ赤な髪をした少年の姿をした精霊――火の精霊、アグニだった。
「アグニもか。でも、実際に父上には勝てないんだから、僕の認識が間違っているとは思わないよ」
『あの男と比べるな。あれは別格だ』
「それでも、学園ではもっと強い人たちと戦ってみたいな」
レイは少しだけ楽しそうに笑った。
「今まで僕が戦ってきた相手って、ほとんど父上や領内の騎士たちだからね。同年代の人間と本気で競った経験はほとんどないし」
『じゃあ、学園ではいっぱい友達を作らないとね!』
『フン。俺としては、強者と戦えるならそれでいい』
「二人とも、ありがとう。皇都でもよろしく頼むよ」
レイは小さく笑った。
その身体には、まだ鍛えきれていない部分が多い。
魔力の扱いも優れてはいるが、消耗すれば当然動けなくなる。
精霊との同調も高いとはいえ、まだ彼らの力を完全に引き出せているわけではない。
それでも、十三歳という年齢を考えれば、レイの実力は突出していた。
本人はそれを大したことだとは思っていなかったが――
少なくとも、同年代の中で上位に食い込めるだけの才能を、すでに彼は持っていた。
ただし、それだけだ。
まだ頂点ではない。
もっと強くなる余地は、いくらでも残されていた。
自分の目の届く範囲の平穏が第一。
でしゃばらず、無駄な争いは避け、将来は自領を豊かにする。
そのための学園生活になるはずだった。
◇
辺境伯城の広大な正門前には、レイの旅立ちを見送るために、家族や城の使用人たちがずらりと整列していた。
「レイ、本当に体には気をつけるのですよ。しっかり三食食べて、夜更かしは厳禁です。それから、悪いお友達に騙されないようにね」
母親が心配そうに、レイの着崩れた制服の襟元を直そうとする。
貴族としてきちんとした格好を教育されてはいるものの、本質的に堅苦しいのが大の苦手なレイは、隙を見つけてはすぐに服を緩めてしまう。
学園の制服も、すでに教師に怒られない絶妙なラインで着崩されていた。
「分かっています、母上。子供じゃないんですから」
「もう、お兄様ったらすぐにそうやって格好つけるんだから!」
服の裾をぐいぐいと引っ張られ、レイが見下ろす。
そこには、まだ幼い妹が大きな涙をためて立っていた。
「お兄様がいなくなったら寂しい、寂しいよぅ……」
「大丈夫だよ。長期の休みには必ず真っ先に帰ってくるから。いい子で母上のお手伝いをしていてね」
レイがしゃがみ込み、妹の頭を優しく撫でる。
妹は嬉しそうに表情を緩めた。
その様子を見守っていた老執事が、一歩前に出て恭しく一礼する。
「レイ坊ちゃま、道中の準備はすべて万端に整っております。こちらに手配いたしました特製の馬車と数名の護衛騎士が、坊ちゃまを皇都までお送りいたします。皇都までは約一ヶ月の長旅となりますが、快適に進めるよう手配いたしました」
「ああ、みんな本当にありがとう」
レイは用意された馬車へ視線を向けた。
そして、少し考える。
「……あ、でも、その馬車と護衛は使わないよ」
「「「……え?」」」
執事をはじめ、その場にいた全員の動きがピタリと止まった。
ルイだけが、怪訝そうに片眉を上げる。
「使わないとはどういうことだ、レイ? まさか徒歩で行くつもりか?」
「ううん、違うよ」
レイは足元に置いてあった、大きな旅行鞄を持ち上げた。
「風で飛んでいくよ」
「……飛ぶ?」
「うん。飛行術式を使えば、馬車よりずっと早いから」
ルイの表情が固まった。
「お前……皇都まで飛ぶつもりか?」
「そうだけど?」
「皇都まで何日かかると思っている?」
「休憩を挟みながらなら……一週間くらいかな」
「一週間……」
ルイは絶句した。
飛行術式は、魔術師にとっても難度の高い技術だ。
空中で身体を支えるだけならまだしも、長距離を飛行するには膨大な魔力を必要とする。
ただし――
「まあ、途中で魔力が尽きたら降りて休むつもりだよ」
レイはあっさりと言った。
「一日中飛び続けるわけじゃないから、大丈夫」
「……そういう問題ではないんだがな」
ルイは頭を抱えた。
とはいえ、レイが風魔法に関して並外れた才能を持っていることは知っている。
完全に不可能というわけではない。
問題は、それを本人が「ちょっと便利な移動手段」程度に考えていることだった。
「それじゃあ、シルフ。よろしく」
レイが心の中で呼びかける。
瞬時に、彼の身体の周囲へ風が集まり始めた。
淡い緑色の光が足元を包み込み、ゆっくりと身体が地面から浮き上がる。
同時に、手にした旅行鞄も風に支えられ、レイの周囲へ浮かび上がった。
「おお……!」
使用人たちから、思わず声が漏れる。
魔法陣はない。
詠唱もない。
ただ、レイの周囲に風が渦巻いている。
しかし、以前よりも慎重だった。
「……行ってきます!」
レイは一度だけ大きく息を吸った。
「父上、母上。みんなも元気で!」
「レイ! 途中で無理をするなよ!」
「はい!」
レイは笑顔で手を振った。
そして――
ドンッ!
低い衝撃音と共に、緑色の風が地面から舞い上がる。
一瞬で空高くまで上昇する。
しかし、そこからさらに加速しようとしたところで、レイは一度速度を落とした。
「……この速度で飛び続けると、思ったより魔力を使うな」
『だから言ったでしょ? 最初から飛ばしすぎなのよ』
「そうだった。じゃあ、もう少しゆっくり行こう」
『えー! せっかく飛べるのに!』
シルフの声を聞きながら、レイは苦笑する。
それでも、地上から見れば十分に速い。
風を操りながら、少しずつ高度を上げていく。
白い雲の向こう。
遥か彼方にある皇都を目指して、レイは飛び立った。
「……さて、どんな人たちがいるのかな」
本人にとっては、これから始まる学園生活への期待の方が大きかった。
自分より強い人間。
自分より優れた魔法使い。
自分にはない技術を持つ剣士。
そんな存在と出会えることを、レイは楽しみにしていた。
一方、地上では――
「……ガハハ」
ルイが豪快に笑った。
「相変わらず、あいつは妙なところで規格外だな」
「でも、大丈夫でしょうか?」
母親が心配そうに空を見上げる。
「まあ、途中で休めるだけの魔力はあるだろう。それに、あいつは無茶をする性格じゃない」
ルイはそう言って、遠ざかっていく息子の姿を見つめた。
「それに――」
わずかに目を細める。
「学園に行けば、きっと思い知らされるだろう」
「何をですか?」
「自分がまだまだ未熟だってことを、な」
その言葉に、ルイは満足そうに笑った。
皇立学園。
そこには、レイの知らない強者たちがいる。
同年代でありながら、すでにレイを上回る技術を持つ者。
魔法だけならレイより優れた者。
剣だけなら、レイなど相手にならない者。
そして――
自分と同じように、これから大きく成長していく者たち。
レイ・ノヴァクの学園生活は、こうして始まろうとしていた。




