第11話 放課後のカフェと、ふたつの気遣い
初日の全授業が終わった。
夕暮れの皇立学園。
正門へ向かう生徒たちの流れから少し外れた場所に、学園関係者と生徒が利用する小さなカフェがある。
木製のテーブル。
大きな窓。
柔らかな照明。
放課後の生徒たちが、友人と談笑する声が静かに響いていた。
レイは一人で席に座り、温かい紅茶を飲んでいた。
「ふぅ……」
今日一日の疲れが少しずつ抜けていく。
剣術。
魔法。
統治。
どれも刺激的だった。
ただし、一番頭に残っているのは最後の授業だった。
「政治と経済かぁ……」
レイがぼんやり呟いた、そのとき。
「お疲れさまですわね」
声がした。
振り向くと、エルリアがいた。
その後ろにはミリィ。
「……あれ?」
レイが目を丸くする。
「どうして二人が?」
「レイを誘いに来たのですわ」
エルリアは自然な笑みを浮かべた。
「少しお茶でもしませんこと?」
「いいけど……」
レイは二人を見た。
「何か用事でも?」
「ありませんわ」
「私も」
二人がほぼ同時に答える。
「……?」
レイは首を傾げた。
実際には二人とも、統治の授業が終わった後のレイの表情が少し気になっていた。
だが、それを本人に言うつもりはない。
三人で席につく。
しばらくして、エルリアが紅茶を一口飲んでから口を開いた。
「今日の統治学、いかがでした?」
「面白かったよ」
レイは素直に答えた。
「特に、領地のことだけじゃなくて、他国との交易まで考えないといけないっていうのが新鮮だった」
「……そうですわね」
「僕、治水とか農業政策とか、領地の中のことならそれなりに勉強してきたんだけど」
レイは少し考える。
「国と国との取引とか、通貨の流れとかになると、まだ全然知らないことが多いなって思った」
ミリィが少し意外そうに目を瞬かせた。
「もっと落ち込んでいると思ってた」
「え?」
「今日の授業、かなり難しかったでしょう?」
「うん。でも……」
レイは紅茶を眺める。
「知らないなら、知ればいいだけだから」
その言葉に、ミリィは一瞬黙った。
(……やっぱり、レイって)
彼女の中で、ぼんやりとした考えが浮かぶ。
この少年は、自分の知らないことを恥じる。
けれど、それを理由に他人を妬んだり、知ったふりをしたりしない。
分からなければ学ぶ。
分かる人間がいれば、その人に聞く。
そして、最終的には自分で責任を取ろうとする。
(こういう人が領主になったら……)
ミリィは紅茶に口をつける。
(案外、名君になるのかもしれない)
そんなことを、ぼんやりと思った。
その隣で、エルリアが微笑む。
「それなら、少しだけ私からお話ししましょうか」
「政治について?」
「ええ」
エルリアは楽しそうに指を一本立てた。
「政治というものは、実は『正しい答えを出すゲーム』ではありません」
「違うの?」
「ええ。むしろ、『全員が完全には満足しないけれど、誰も決定的には不満にならない場所を探すゲーム』ですわ」
レイは目を丸くした。
「……引き分けを作るゲーム?」
「その表現、面白いですわね」
エルリアはくすりと笑った。
「まさに、それです」
政治には必ず利害関係者がいる。
農民。
商人。
貴族。
軍。
隣国。
中央政府。
それぞれが別々の利益を求める。
だからこそ、誰か一人だけを完全に勝たせるのではなく、全体が許容できる落としどころを探す。
「それが政治なのですか」
「少なくとも、私はそう考えていますわ」
レイはしばらく考えた。
「……それなら、父上のやり方にも似てるかも」
「辺境伯が?」
「うん。父上って、領内の意見が割れたとき、最後は全員に少しずつ譲らせるんだ」
レイは笑った。
「その代わり、自分が一番大きく責任を取る」
エルリアとミリィは顔を見合わせた。
「……なるほど」
「確かに、あの方らしいわね」
二人とも納得した様子だった。
しばらくして。
「そういえば」
ミリィが鞄から一冊の薄い冊子を取り出した。
「これ、よかったら読んでみて」
「何?」
「兄の古い資料」
レイが受け取る。
表紙には、簡潔な題名が書かれていた。
『辺境領における交易路管理と税収安定化について』
「お兄さんの?」
「ええ。レオンハルト兄様が学生時代にまとめたもの」
「……僕が読んでいいの?」
「構わないわ」
ミリィは少しだけ視線を逸らした。
「今日の授業で興味を持ったみたいだから」
「ありがとう」
レイは嬉しそうに冊子を抱えた。
「二人とも、ありがとう。なんだか今日は、すごく勉強になったよ」
エルリアは微笑む。
「どういたしまして」
ミリィも小さく笑った。
「頑張ってね、未来の領主様」
「うん」
レイはいつもの穏やかな笑顔で答えた。
「頑張るよ」
夕暮れの光が、カフェの窓から三人を照らしていた。
その日。
レイ・ノヴァクは初めて、自分一人では知らない世界があることを知った。
そして同時に――。
自分には、それを教えてくれる人間がいる。
その事実が、思っていた以上に心強いものだということにも、少しずつ気づき始めていた。




