第91話 発令所の視線が一ヶ所に集まった
大和・発令所。
田村が口を開いた。
「藤林殿は——今頃、どの辺りでしょうか」
北沢は穏やかに答えた。
「もう岡崎辺りで、身を隠していると思う」
田村は苦笑した。
「織田殿の本陣を去ろうとした時、堀殿が見送りに来て——あの件を頼まれたのでしたな」
「ああ。徳姫は、岡崎城から浜松城に移されることになっている。浜松城への攻撃前に——できれば、救い出してほしいと。無理なお願いをしてくれたものだ」
「相当に危険な任務ですよ」
「海神衆ならと、期待されたのかもしれん。だが——藤林殿たちが、命を懸ける義理はないのだ。しかし——」
「藤林殿は、お引き受けになったのですね」
「我らと織田殿の間柄を、慮ってのことだろう。岡崎城から浜松城へ移送される途中で——救い出す、と言っていた」
「藤林殿らしいお答えですね」
「まあ——我らとしても、徳姫がおられる浜松城は、攻めにくいからな」
「では——潜望鏡深度で移動しながら、藤林殿からの連絡を待ちましょう」
「そうしてくれ」
北沢は発令所のモニターを見た。
夜の海が——広がっていた。
***
早朝の岡崎城下。
夜明けの靄が——城下に漂っていた。
藤林が物陰から城門を見つめていた。
配下の一人が音もなく近づいた。
「頭領——岡崎城から輿が出てまいりました。護衛は五十人ほどです」
藤林は目を細めた。
輿が——城門を出てきた。
徳川の旗を持つ兵が前後を固め、槍を持った護衛が左右に並んでいた。
輿の周囲には——侍女らしき者が数名、並んで歩いていた。
(あの輿か——)
藤林は素早く周囲を見渡した。
「見つからないように街道を先回りする。狙うのは——山道に入ってからだ」
「はっ」
海神衆が——音もなく移動を始めた。
朝の靄の中に——人影が忽然と消えていった。
***
岡崎から浜松に向かう山道。
藤林が通信機を取り出した。
「藤林です。北沢司令をお願いします」
北沢の声が届いた。
「北沢です。今どの辺りでしょうか」
「岡崎から浜松に向かう山道でございます。徳姫の行列が——まもなく通りかかります」
「もう一度、言っておきますが——危ないと判断したら逃げてください。無理をする必要はありませんから」
藤林は穏やかに笑った。
「大丈夫です。こちらは五十人。いただいた武器がありますから」
「わかりました。では——徳姫を助けた後は、そのまま南へ。目立たないよう海岸まで移動してください。大和から迎えの船を出します」
「お願いします」
「通信機で連絡を取りながら移動すれば——迷うことはありません。そのまま徳姫は船に乗ってもらいましょう」
「わかりました」
通信を切った。
「才蔵——配置につけ」
「はっ」
海神衆が——山道の両側に、音もなく散った。
木々の間から——遠くに行列の影が見え始めていた。
***
浜松に向かう山道。
木々が——朝の光の中に揺れていた。
山道の両脇に——海神衆が息を潜めていた。
遠くから——蹄の音と足音が聞こえてきた。
やがて——輿の行列が山道に入ってきた。
槍を持った兵たちが前後左右を固めていた。
侍女たちが輿の周囲を歩いていた。
藤林はじっと行列を見つめた。
(来た——)
銃身はすでに延長し、銃床もサイレンサーも取り付けている。
あとは——合図を待つだけだった。
輿が——目の前まで近づいてきた。
藤林は手を振り下ろした。
パス——パス——パス——。
乾いた小さい音が連続した。
槍を持った兵たちが——次々と倒れた。
「なんじゃ——!」
「敵はどこだ——!」
侍女たちは——四方に逃げ出した。
一人を除いて。
輿が——ゆっくり止まった。
輿丁たちも逃げ出した。
しばらくして——輿の扉が開いた。
中から——女性が出てきた。
歳の頃は十代後半か。
凛とした目をしていた。
藤林は近づき頭を下げた。
「徳姫でございますな。某——海神衆の頭領、藤林長門守保正でございます」
「海神衆とは、織田の手のものですか」
「織田様の依頼により——お救いに参りました。徳川殿が織田を裏切ったことは——お聞き及びでございますね」
徳姫は小さく頷いた。
「聞いております。妾は浜松に送られ——織田に攻撃をさせぬための、人質にされるところでした。助けていただいたこと——感謝いたします」
徳姫は輿の中を振り返った。
小さな子供が寝ていた。
「この子は登久姫でございます」
「まだ、幼いですな」
「この侍女は、妾が幼い頃からついてくれている者です。一緒に連れて行っていただけますか」
傍らに残った侍女が——大きく頭を下げた。
藤林は頷いた。
「もちろんでございます。急ぎましょう——南へ向かいます」
***
大和・艦内通路。
藤林に案内されながら——徳姫と、登久姫を抱いた侍女が艦内の通路を歩いていた。
徳姫は、一歩進むごとに、思わず立ち止まった。
光る壁。聞いたことのない音。
細い廊下に並ぶ、見たこともない扉の数々。
恐ろしいはずなのに——なぜか、目を離せなかった。
まるで童のように、あちこちに視線をさまよわせている自分に、徳姫は気づいていた。
「藤林殿——ここは、いったい」
「後ほど、ご説明いたします。まずは司令のもとへ」
***
大和・発令所。
発令所の扉が開いた。
隊員たちが振り返った。
その瞬間——発令所の視線が一ヶ所に集まった。
艦内の薄明かりの中でも——その顔立ちは際立っていた。
凛とした目。白い肌。乱れ一つない黒髪。
隊員の一人が——手に持った書類を落としそうになった。
別の隊員が——徳姫から目を離せなくなり、同僚に肘で突かれた。
桐山も平静を必死で保った。
(これが——信長殿の娘御か。美しい)
宮本も通信機の横で——動かなくなった。
北沢は小さく咳払いをした。
「皆さん——仕事に戻ってください」
発令所が——再び動き出した。
北沢は徳姫の前に歩み出た。
「お徳殿——このたびは大変でございました。私がこの船の司令、北沢でございます」
徳姫は丁寧に頭を下げた。
「助けていただき——忝ない」
北沢は続けた。
「これから——浜松城を叩きに参ります。こちらにお座りください。このモニターで——城の様子をご覧いただけます」
徳姫は椅子に座った。
侍女が登久姫を抱いたまま、傍らに寄り添った。
「北沢殿——このモニターというものは、何でございますか」
「この船の外の様子を映すものでございます」
徳姫は目を見開いた。
「船の外の様子が——この板に」
「そうです」
徳姫はしばらくモニターを見つめていた。
「この世に——こんなものが」
徳姫は発令所の中をきょろきょろと眺めていた。
目があった隊員たちが、うれしそうな表情になっていた。
北沢はもう一度、小さく咳払いをした。




