第86話 ここで引けば——終わりよ
摂津国。有岡城周辺。
夜明けの霧が——ゆっくりと晴れていった。
冷え込んだ大気の中、無数の旗指物が、朝日を浴びて色を取り戻していく。
広がる野には——鶴翼に構えた大軍が、互いを見据えるようにして布陣していた。
織田方の陣には——明智の桔梗紋、そして織田の永楽通宝の旗が、風にはためいていた。
その後方、中央に控えるひときわ大きな陣には——同じ永楽通宝の旗が、幾重にも連なっている。信長の本陣であった。
対する羽柴・毛利の陣には——羽柴の桐紋と、吉川の丸に三つ引両が並び立っていた。その後方——ゆったりと構えた本陣には、一文字に三つ星の旗が、悠然とはためいていた。毛利の陣であった。
その後方には、急ごしらえに修復された有岡城が、灰色の空を背に、黒々とした輪郭を晒していた。
馬のいななき。
具足の擦れる音。
誰かが小さく咳き込む音さえ、静寂の中で妙に響いた。
兵たちの吐く息が、白い靄となって立ち上り、朝の冷気に溶けていく。
ある者は槍を強く握りしめ、ある者は静かに数珠を繰り、ある者は虚空を見つめたまま、動かなかった。
二つの大軍が、無言で向かい合っていた。
やがて——霧はすっかり晴れた。
十三万に近い兵たちの視線が、敵の陣へと殺気をはらんで注がれていた。
***
羽柴・毛利連合軍。
ドン——。
羽柴・毛利連合軍の陣太鼓が、低く鳴り響いた。
前衛が動き始めた。
羽柴秀長が率いる羽柴軍——。
吉川元春・小早川隆景が率いる毛利軍——。
左右の雑賀衆も、旗をなびかせ、ゆっくりと前進を始めた。
足音が、大地に響いた。
無数の足音が、一つの波のように——じりじりと東へ向かって行った。
羽柴秀吉と毛利輝元は——動かなかった。
足利義昭は、有岡城の高みから戦場を見つめていた。
***
織田軍。
ドン——ドン——。
織田軍の陣太鼓も鳴り響いた。
丹羽長秀、明智光秀、織田信忠、神戸信孝——前衛の将たちが、それぞれの部隊を率い、旗をなびかせ、ゆっくりと前進した。
徳川家康と北畠信雄は——動かなかった。
信長本陣の左右に控えたまま、じっと前方を見つめていた。
***
戦場の中央部では、両軍の前衛が、鉄砲の射程に入った。
バン——バン——バン——。
雑賀衆の鉄砲が火を噴いた。
白い煙が、戦場に広がった。
織田軍も負けじと撃ち返した。
バン——バン——バン——バン——。
轟音が平野に響き渡った。
倒れる者、叫び声——。
煙の中で両軍が入り乱れた。
鉄砲の撃ち合いが収まると——今度は槍隊が前に出た。
ワアアアア——。
鬨の声が上がった。
槍と槍がぶつかり合う音——。
ガキン、ガキン——。
両軍の前衛が、少しずつ前進しながら激突した。
***
信長本陣。
信長は戦場を見渡した。
前衛の激突が続いていた。
「堀——前衛の数はこちらが少ない。徳川殿と信雄に前進せよと伝えよ。本陣からも一万ほど前進させよ。一気に勝負を決めてやる」
「はっ——ただちに」
堀が走った。
信長は腕を組んだ。
「これで——数ではこちらが有利だ。このまま押し込めば、儂の勝ちだ」
しかし——。
徳川家康は動かなかった。
北畠信雄も動かなかった。
信長は眉をひそめた。
「どうした——」
信長は、これまでの戦場の経験から危険な匂いを感じとっていた。
「堀——徳川殿と信雄にさっさと動けと催促してこい」
「はっ——」
堀が再び走った。
しかし——徳川の陣は、静かなままだった。
信雄の陣も——微動だにしなかった。
信長の目が細くなった。
(まさか、裏切るつもりか! なぜじゃ——)
その時——。
ボウ——。
有岡城から黒い煙が上がるのが見えた。
***
羽柴秀吉の陣。
秀吉は、生き物のような戦場の動きを目で追い続けた。
中央部の戦いが佳境となることで、信長の本陣と前衛の間が——じわじわと広がっていくのが見えた。
(ここだ、勝負時は!)
今頃は信長が堀に命じているはずだ。
「徳川殿と信雄に前進せよ」と。
(奴らは、動きはしませんぞ。無策で、有岡までやってくるはずがなかろう)
(罠にかかったな——信長よ)
秀吉は笑った。
「蜂須賀——有岡城に向けて合図を送れ」
蜂須賀正勝が素早く頷いた。
「はっ——ただちに」
***
有岡城の物見台。
秀吉の陣から、使者が息を切らして駆け上がって来るのが見えた。
「前野殿——殿からの合図でございます。狼煙を上げよとのことです」
前野長康は頷いた。
「狼煙を上げろ——」
「はっ——!」
ボウ——。
黒い煙が——空高く立ち上った。
前野長康は戦場を見渡した。
(殿——うまくいきましたな)
***
羽柴秀吉の陣。
秀吉は狼煙が上がるのを見上げた。
「勝ったぞ」
蜂須賀正勝も手を強く握って狼煙を見上げた。
秀吉はにやりと笑った。
「信雄には——織田家の当主の座と、将軍の位を。徳川殿には——関東一円を。信雄が信長本陣に兵を進めれば、それに合わせて攻め込む、という約定も交わしておる」
「欲深き者ほど——扱いやすいわ」
(いずれ——儂がすべてを取り上げるがな)
秀吉はゆっくりと腕を組んだ。
「さあ——信長。どうする」
***
北畠信雄の陣。
「殿、有岡城に狼煙が上がっておりますぞ。なんの合図でしょうな」
「兵に伝えろ。この戦をやめさせるため、上様の陣に兵を進ませる」
「今、そんなことをしたら、上様から裏切りと思われますぞ」
「構わぬ。兵を進ませろ。儂の命が聞けぬのなら切る!」
「はっ」
***
徳川家康の陣。
徳川家康は有岡城に上がる狼煙を見た。
「北畠信雄はどうなっている」
「上様の本陣に兵を進めています」
「羽柴の使者の言うことなど、半信半疑であったが、本当に信勝が動きおった」
(勝ち馬には乗らねばならぬ)
家康が将たちを見渡した。
「信長を討つ。兵を信長の本陣に向けて進めよ。信長の首を取ってくるのじゃ——さすれば、望むだけの恩賞を与える」
将たちから叫び声が上がった。
「おおーっ——!」
雄叫びを上げながら、徳川軍が——信長本陣右側から雪崩れ込んだ。




