第85話 猿などに負けるようでは、天下統一は叶うまい
数日後。
播磨・三木城を囲む羽柴秀吉の本陣。
「殿、甲賀の頭領——望月殿が参っております」
「通せ」
頭領が、平伏したまま口を開いた。
「殿——一大事にございます。上様が、甲賀を——伊賀の藤林の配下とするよう、お命じになりました」
「なんだと」
「殿が、我らに毒を盛らせたこと——それが、上様のお耳に入ってしまったのです。どこから漏れたのかは、わかりませぬ」
頭領は、悔しげに続けた。
「甲賀の者どもは、我が身可愛さに、みな怯えてしまい——藤林に膝を屈する道を選んでおりまする」
秀吉は、目を細めた。
「そうか——知られてしまったか」
「はっ」
「して——その方、一人でここへ参ったのか」
「我が一族すべてを連れて参りました。必ずや殿のお役に立ちまする。どうか——殿のもとに、置いていただけないでしょうか」
秀吉は、しばらく頭領を見つめていた。
「そうか。苦労をかけたな」
秀吉は、ふと思い出したように言った。
「この近くに、大きな寺があったはずだ」
「はい」
「そこで、ゆっくり休ませてやれ」
頭領は、ほっとしたように顔を上げた。
「ありがたき幸せ」
頭領は、深く頭を下げ、去っていった。
秀吉は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。
やがて——低く呟いた。
「誰かおるか」
前野長康がやってきた。
「殿、なんでございましょう」
秀吉は、表情を変えぬまま言った。
「甲賀の頭領たちが、逃げてまいった。この近くに、大きな寺があったであろう。そこで——ゆっくり休んでもらう。わかるな」
前野は、一瞬だけ目を伏せた。
「はい。ゆっくりと——旅立ってもらいましょう」
***
天正六年十二月。
摂津国。織田本陣。
篝火が、夜の野営地をいくつも照らしていた。
堀が地図を広げた。
「上様——現在の布陣をご説明いたします」
信長は地図を見つめた。
「まず——敵の本陣です」
「御覧の通り有岡城でございます。羽柴が三木を味方につけ、修復中の有岡城を急襲しました。丹羽長秀殿と人夫を追い出して——本陣としております」
「丹羽は無事だったか」
「無事でございます。羽柴の裏切りに怒り心頭でございました」
「丹羽の怒りはもっともじゃ——儂も同じじゃからな」
信長は続けた。
「有岡城と本願寺で我らを牽制か。猿め——駒の進め方がうまい。必死じゃのう」
「敵は——有岡城を背にして鶴翼の陣を敷いております」
「前衛は——吉川元春・小早川隆景が約二万五千、羽柴の武将が約一万五千。吉川元春は剛の者と聞こえております。その後ろに毛利輝元が約五千、羽柴秀吉が約五千、そして足利義昭殿と、別所長治殿が三千を率いて入城しております」
堀は説明を続けた。
「また、前衛の両翼には——雑賀衆の鉄砲隊が展開しております。我らが前進すれば、両翼から一斉射撃を加えるつもりです」
「雑賀衆は鉄砲の名手をそろえておるからのう。厄介なやつらよ」
「布陣は以上。合わせて——約五万五千でございます」
信長は顎に手をやって頷いた。
「本願寺の包囲はどうなっておる」
「石山本願寺には——佐久間信盛殿が約八千、細川藤孝殿・筒井順慶殿・中川清秀殿・高山右近殿が合わせて約九千で包囲を継続しております」
「そうか。やむをえぬな。こちらはどうだ」
「我らも鶴翼の陣で対しております」
堀は地図の東側を指で辿った。
「前衛に明智光秀殿が約一万——信忠殿が約一万で前方を固めます。その後ろ右側に徳川家康殿が約一万、中央は上様の本陣が約三万、左側に信雄殿が約五千、前衛の右翼に丹羽長秀殿が約五千。左翼に神戸信孝殿が約五千でございます」
「猿よりも兵は多いのだな」
「はっ、合わせて——約七万五千でございます」
堀は説明を続けた。
「それと——長宗我部元親殿についてですが、明智殿が説得し、四国の半国を条件に織田に臣従するとの話がまとまっております。しかし——四国から海を渡っての移動に時間がかかり、この決戦には間に合いそうにありません」
信長はしばらく黙っていた。
「敵に回らなかっただけで、上首尾よ。問題は雑賀衆の鉄砲と——吉川元春の精鋭ということじゃな」
「そのとおりでございます」
「北条、武田、上杉はどうなっておる」
「柴田勝家殿が越中富山方面まで展開して上杉を牽制。滝川一益殿が上野厩橋城から北条・武田を牽制しております。いずれの家も、今のところ動きはありません。結果、徳川殿にも参戦いただくことができました」
夜風が吹いた。
野営地の向こうに——有岡城の灯りが、暗闇の中に揺れていた。
信長は立ち上がった。
「猿などに負けるようでは、天下統一は叶うまい」
堀は深く頷いた。
「裏切り者の羽柴を叩こうと、すべての将兵の士気は高うございます」
「ところで——北条、武田、上杉が動き出した場合、海神衆が小田原城、躑躅ヶ崎館、春日山城を叩いてくれるのじゃな」
「そのとおりでございます。さすがに主城を叩かれれば——柴田殿や滝川殿と戦っている場合ではなくなり、兵を引かざるを得なくなるものと」
「であれば——我らがこの戦いに勝利すれば、あらかた片がつくということだな」
信長が続けた。
「羽柴と毛利さえ討てば——それだけで十分よ」
「といいますと」
「兵糧の道を断たれた本願寺。城を焼かれた北条、武田、上杉——いずれも、戦う気力など残るまい」
「そのとおりにございますな」
「この戦い——天下統一を大きく早めてくれることになるな」
「猿は最後に役に立ってくれたわけだな」




