第84話 儂の使者を、城内に入れた時点で負けよ
播磨・三木城を囲む羽柴秀吉の本陣。
暗がりの中、甲賀の忍びが——音もなく秀吉の前に膝をついた。
「ご報告申し上げます。織田様が堀殿とともに——堺の千宗易殿の屋敷に向かわれました」
「ふむ」
「しばらくして——光秀殿が安土城に呼ばれました」
秀吉の目が細くなった。
「それだけか」
「いえ——徳川、北条、武田、長宗我部に向けて、使者が送られた模様でございます」
忍びが去った。
秀吉はしばらく篝火を見つめ考えていた。
(千宗易の茶会——意味はわからぬ)
(光秀を呼び出し、四方の大名に使者を送る——儂を討伐するための下準備に間違いあるまい)
秀吉はすっと立ち上がって、低く声を漏らした。
「こうしてはおれぬ。瞬時の遅れが命取りじゃ」
三木城の黒い輪郭が、夜の闇に沈んでいた。
(儂にも手はあるぞ)
(もともと織田と縁切りになった時のために、手は打ってあるからの)
秀吉はにやりと笑った。
安国寺恵瓊という男を、秀吉は思い浮かべた。あやつは使える——。
毛利の外交僧として、足利将軍の名で各大名に使者を送ってもらっていたからな。
これまで表立って儂の名は出ないようにしてきた。
だが、露見したなら——しかたあるまい。儂からも、使者を送ろう。
徳川、北条、武田、長宗我部——信長がすでに手を回しておるならば、儂も負けてはおれぬ。
同じ相手に、儂からも声をかける。
どちらの誘いに乗るか——それは、あちらの判断次第よ。
だが、儂の存在を知らしめておくだけでも、迷いの種にはなろう。
(だが信長よ。儂の調略はそれだけではないぞ)
秀吉は腕を組んだ。
まずは——この足元を固めねばならぬ。三木城になど、いつまでも構っておれぬ。
三木城に恵瓊を行かせよう。
毛利の仲介で和睦としよう。
兵を退かせ、後顧の憂いを断つ。
それでこそ、存分に東へ兵を割ける。
夜の三木城が——無言で秀吉を見下ろしていた。
***
伊勢。田丸城・奥座敷。
秀吉の使者が、北畠信雄の目の前に平伏していた。
使者の前には、信雄への贈り物が山のように積まれている。
「羽柴殿は、播磨でご健在かな」
「三木の城を囲みながら、いつも信雄様のことをお話になられております。織田の跡を継ぐのは、信雄様しかおられぬと」
「おぉ——そうか。そのように」
「最近の上様ですが、我が主以外の織田家家臣たちも、上様が変わられたと嘆いておる様子。代替わりを求める声が、日に日に高くなっております」
「そうじゃな、儂もそう思う。褒められると思っておったのに、伊賀に攻め入ったことをずいぶんと怒られてな。やはりおかしくなられたと感じておる」
「織田家臣の中には、『嫡男の信忠様は頼りなし』という声が多いのも事実。我が主もその中の一人、『後継ぎは信雄様しかおられぬ』と、家臣たちの前で何度も申されております」
「そうか、そうか」
「『信雄様が、お望みであれば、織田家重臣たちの意見をまとめ上げる』——それゆえ、某が使者として参った次第でございます」
「ありがたいがのう。じゃが——そんなことをやっておると、上様に誅されると伝えておけ」
「それが——信雄様を推す声は、織田家の中だけではないのです」
「ほう」
「まずは毛利家。信雄様が当主となられるなら、毛利は信雄様に臣従すると申されております。それだけではございませぬ。北条、武田、上杉も同じでござる。なんと足利義昭様などは、将軍職を譲るとまで言われて……」
「そこまで儂を——だがもう一度言う、上様が知れば羽柴は危ういぞ」
「まさに、それでござる。羽柴家は危のうござる。もしそうなった際には、お味方いただけないでしょうか。このとおりでござる」
使者が、額を畳に擦りつけた。
「もちろんじゃ、上様にとりなしを行う」
使者の態度が改まった。
「信雄様、我が主をお助けくださいませ。今まさに、主が誅されようとされておるのです。上様は、我が主を討伐する兵を集めておられます」
「なんと」
信雄の顔が、青ざめた。
「もしもの際に、我が主から合図がありましたら——上様を、お引き止めいただけないでしょうか」
信雄は少し考えた。
(父上を、お止めするだけよ。それくらいなら——)
それに——万が一、兵を動かす仕儀になったとしても。
儂の兵が、父上の本陣に誤って攻めかかってしまったとしても——所詮は身内のこと。
頭を下げて詫びれば、それで済む話ではないか。
いや——待てよ。
もし、その混乱のどさくさで——父上が、万が一のことにでもなれば。
信雄は、思わず口の端を上げた。
(それはそれで——都合が良いのではないか)
「わかった。約束しよう」
「ありがたき幸せ」
使者は、深々と頭を下げた。
その顔には——安堵とも、してやったりとも取れる、複雑な色が浮かんでいた。
信雄は、それに気づくこともなく——積まれた贈り物を、満足げに眺めていた。
***
播磨・三木城を囲む羽柴秀吉の本陣。
伊勢の北畠から、前野長康が戻ってきた。
「殿、首尾は上々です」
「そうか、よくやった。信雄めはなんと申した」
「戦になり、殿からの合図があれば——上様に、戦をやめるよう諫言する、と」
「で——信雄の顔つきは、どうであった」
「殿の話に、疑いを持つ様子はまったくございませんでした。むしろ——この状況を、いかに利用してやろうかという顔つきに見えました」
秀吉は、ふんと鼻を鳴らした。
「使者ごときにそんな顔を見せるとはな。だからこそ——扱いやすいというものよ」
「殿、確証もなく——信雄殿を、そこまで信用してよいものでしょうか」
「儂の使者を、城内に入れた時点で負けよ」
秀吉は続けた。
「信雄は——ぎりぎりまで、儂との話を上様には黙っておるはずだ。動かねば動かぬで、噂だけ流してやればよい。それだけで、北畠の軍勢は——いなくなったも同然よ」
「徳川は、いかがでございましたか」
「そちらは——表情がまったく読めませなんだ」
秀吉はにやりと笑った。
「信雄よりは、ましというものよ。だが——使者と会った時点で、すでに信雄と同じ穴の狢じゃ」
「これで——北畠、徳川は、戦力にはなり申しませぬな」
秀吉は満足そうに頷いた。
「よくやったぞ」




