第83話 厄介で危険な男よな。敵となればなおさらだ
千宗易の屋敷・書院。
信長は口を開いた。
「天下を狙っておったつもりが、飼い猿に毒を盛られておったとは——情けなきことでござる」
一瞬、その目に、先ほどの茶室では見せなかった昏い光が過ぎった。
だが、それも束の間だった。
「教えていただかねば、二の矢、三の矢と仕掛けてきたでしょうな。助かり申した」
信長が深く頭を下げた。堀も頭を下げた。
連子窓から——風が入ってきた。
北沢は思わず恐縮した。
(つい先ほどまで、怒りに我を忘れかけていたはずだ。それが——もう、こうして素直に頭を下げられる)
(これが——信長という人物か。いや——)
北沢は、ふと思い直した。
(毒が抜け始めたことで——本来の人物に戻りつつあるのかもしれないな)
北沢は答えた。
「藤林殿のお陰です。それで、甲賀のことですが——」
「猿の悪事に加担した者は許せぬ。だが——猿を仕留めるまでは、無用な敵を増やすのは得策ではない。北沢殿、伊賀に加えて、甲賀も領地にしてくだされ」
冷徹な計算と、その場での度量の大きさが、同じ口から淀みなく出てくる。
北沢は、そのことに、あらためて舌を巻いた。
「わかりました。藤林殿に後始末をさせます」
「助かる」
***
北沢は信長に確かめた。
「それで——この後、どう動かれますか」
信長はしばらく考えた。
「理由を作って、猿を安土に呼び出そうかと思う」
「それで片付けば——問題ありませんが、相手は調略の名手、罠と気づいた瞬間——動くでしょう。その後は、かなり厄介ですぞ」
「続けてくれぬか」
「すでにお考えのことと存じますが——念のため、黒田殿の懸念をお伝えいたします」
北沢は続けた。
「羽柴が動けば——毛利家、武田家、長宗我部家、本願寺、雑賀衆。加えて、足利義昭様も名を連ねましょう。さらに——羽柴が北条家を口説き、北条家が上杉家のお家騒動を収める側に回れば、上杉家までもが加わる恐れがございます」
部屋に、しばらくの沈黙が訪れた。
堀がそっと口を開いた。
「たしかに——最悪の事態まで、想定しておくべきでしょうな」
信長は、確かめるように言った。
「北沢殿、そうなった場合の対応は——どう考えておられる」
「織田殿であれば——すでに対策をお考えではないかと思います。我らは、織田殿の動きを全面的に助力することをお約束します」
信長は、間を置かずに言った。
「上杉は柴田勝家に任せる。北条は滝川一益。本願寺と雑賀衆は佐久間信盛。武田は徳川家康。毛利、長宗我部、羽柴は——儂と明智光秀で当たる。信忠と信雄、信孝にも手伝わせる」
堀は、思わず息を呑んだ。
(この短いやり取りだけで——これほどの布陣を、即座に組み上げられるとは)
(やはり——上様でござるな)
北沢もまた、その采配の速さに感心していた。
「一つ——気になることがあります」
「なんでござろうか」
「羽柴殿は、砒霜を使って——織田殿の判断力を低下させるだけでなく、頭痛などで怒りっぽくさせ、重臣たちとの関係にひびを入れようとしていました」
北沢が続けた。
「そういった意味で——一つ、お伺いしてもよろしいですか。織田殿と接する機会の多い明智殿との——ご関係は、いかがでしょうか」
信長はしばらく考えていた。
やがて、絞り出すように言った。
「光秀の諫言に苛立って——打擲したこともあった……」
短く息を継いで、続けた。
「毒のせいとはいえ……情けない仕儀であった」
「羽柴が得意とする調略が、成功しつつあったということですね。ひょっとすると、明智殿に謀反を起こさせるつもりだったのかもしれません」
信長の表情が、さっと変わった。
「厄介で危険な男よな。敵となればなおさらだ」
「光秀殿に——急いでお会いになるべきだと思います。羽柴殿との決戦に、最も頼りとすべきお方ですから」
信長は、間を置かずに頷いた。
「そのとおりだ。すぐに使いを出そう」
非を認めるのも、決断するのも——一切の迷いがなかった。
「なんとかしよう。堀——段取りを頼む」
「はっ」
堀は頭を下げた。
北沢は懐から紙を取り出した。
「このようなものを描いてみました」
広げると——各大名の領地と城が、簡単に書き込まれていた。
武蔵のプリンターを使って作成した、手書き風の地図だった。
信長は身を乗り出した。
「これは——なんとわかりやすい」
「我らは有岡城でお見せしたように——海神衆を使って敵の主城を叩きます。どこをどう叩くか——織田殿のお考えをお聞きしたい」
信長は小さく笑った。
「面白い——ではこういうのはどうじゃ」
打ち合わせは——半刻続いた。
***
数日後。
安土城・対面所。
光秀は廊下を歩きながら考え続けていた。
(なぜ、堀殿が急に訪ねてこられたのか)
(安土城にて上様がお待ちだと——いったい何を言われるのか)
三ヶ月前。佐久間殿が、他の家臣の前で罵倒された。
「なんの工夫もせずただ囲むだけなら誰でもできるぞ」
——上様が、そのようにおっしゃったのだ。
意を決し諫言を申し上げた。
しかし、某まで打擲されてしまった。
昔と比べ——上様は変わってしまわれた。
常に苛立っておられる。
あれでは天下統一の覇業に影響が出る。
今日もそういうことになるかもしれぬ。
しかし——それでも諫言するのが某の役目というもの。
光秀は対面所の前に立った。
対面所に通されると、部屋の真ん中に、豪華な膳が——二つ、向かい合って並んでいた。
膳の向こう側には、信長が座っていた。
堀が部屋の隅に控えていた。
光秀は思わず身構えた。
信長が言った。
「堀——席をはずせ」
「はっ」
堀が音を立てず退出した。
扉が閉まった。
部屋に——二人だけが残った。
光秀はさらに身構えた。緊張が走った。
突然、信長が——深く頭を下げた。
光秀は思わず息を呑んだ。
(上様が、某に——頭を下げられたのか……)
「これまで——忠臣に対して、申し訳ないことをしてきた。許せ」
光秀はしばらく言葉が出なかった。
「上様——頭をお上げください」
「許してくれるか」
光秀の目が——わずかに潤んだ。
「もちろんでございます。すべては——某の至らなさゆえでございます」
信長はゆっくりと顔を上げた。
(光秀は——こういう男だ。信頼すべき忠臣なのだ)
***
「実は——秘密にすべき話がある」
「お聞きします」
「儂はある者から、長きにわたり——砒霜という毒を盛られていたのだ」
光秀は驚いたように目を見開いた。
「毒——でございますか」
「その毒は——儂を苛立たせ、判断を狂わせた。忠臣たちとの間に溝を作らせた。儂は気づかぬまま、家臣たちを傷つけてしまっていた」
光秀はしばらく黙って考えていた。
(上様の変わりようは——毒のせいだったのか)
光秀の手が、怒りで強く握りしめられていた。
「そのような……いったい——どこの敵でござるか」
「猿よ」
光秀は息を呑んだ。しばらく声がでなかった。
「なんと——羽柴殿が。ど、どうして」
信長はゆっくりと頷いた。
「猿なんぞに、毒を盛られるとは——情けない話よ」
光秀は言った。
「上様が情けないのではございません。上様の様子から、我ら家臣がいち早く気づくべきでした」
「儂を殺し、織田家を崩壊させる。猿も良く考えたものよ」
「それで——どうされますので」
「猿を生け捕りにせねばならぬ。だが——ずる賢い猿じゃ。すぐに気づいて、織田家に歯向ってくるはずじゃ」
「生け捕りは——難しゅうございましょうな」
「詳しいことは、後で堀に確認せよ。だが——他言無用じゃ。その方を、忠臣と信じて話しておるのじゃからの」
光秀は深く頭を下げた。
「織田家の一大事。決して口外いたしません」
信長は笑った。
「今日は、これまでの詫びじゃ。座ってくれ——酒も注ごうではないか」
光秀は静かに座り直した。
長い間——この日を、どれほど待っていたことか。




