第81話 某は、羽柴家とは縁を切りまする
藤林は半兵衛と官兵衛の方を見た。
「お二人には——知っていただかないといけないことがあります」
半兵衛が興味深そうに聞いた。
「いったい、なんでしょう」
「織田様は——長きにわたり、砒霜という毒を盛られておりました」
「砒霜——そのような毒があることは、昔に文献で読んだことがあります」
藤林は砒霜を盛られた場合の、手足のしびれ、頭痛、気性の変化——という症状を一通り説明した。
官兵衛は深く考えながら頷いた。
「荒木村重の謀反は——それが関係していたのでしょうか」
藤林は、思わず息を呑んだ。
(なぜ——そこまで、すぐに繋がる)
「どうして、そう思われるのですか」
「『村重が本願寺に通じている』という噂に対し、聡明であられる上様が、いともたやすく謀反と決めつけてしまわれた。本来であれば、噂の裏に潜む意図を、もっと深く探られるはずです。おかしいと思うておりました」
藤林と、隣に座っていた北沢は、思わず顔を見合わせた。
(わずかな話を聞いただけで——すでに、そこまで見抜いていたとは)
北沢は、感嘆したように言った。
「見事な推察です」
北沢は、少し間を置いて続けた。
「毒を盛った者の狙いは——織田殿の判断力を鈍らせ、気性を荒くすることで、家臣たちの心を離反させることにあります。おそらく村重殿の一件は、噂だけを流し、上様が本当に判断を誤るかどうかを——試したのでしょう」
藤林は、ゆっくりと口を開いた。
「織田様に毒を盛っていたのは——甲賀衆でした。それを命じていたのは、羽柴殿。甲賀に知り合いがおり、そこから打ち明けられました」
その話を聞いて、半兵衛たちは考え込んだ。
半兵衛にとって、秀吉は長きにわたり仕え、深く信を置いてきた主君である。
官兵衛もまた——その人柄に幾度となく心を動かされ、魅せられてきた身であった。
しばしの沈黙の後、半兵衛が言った。
「そういえば——羽柴家の小姓に、甲賀の頭領の息子がいるという噂を、耳にしたことがあります。万一、事が露見した時のために、その息子を人質に取っていた——ということになるのでしょうか」
半兵衛は、そこで一度言葉を切った。
「しかし——なぜ、そのようなことを」
官兵衛も、困惑した様子で続けた。
「某にも、わかりませぬ。なぜ——上様に、毒を盛らせたのでしょう。大名にまで、引き立てていただいた御恩は——」
北沢が言った。
「私の推測ですが——長浜城の城主になったとき、迷われたのではないでしょうか。織田家が天下を取った後、羽柴の家がどうなるのかと」
北沢は少し間を置いた。
「狡兎死して走狗烹らる——うさぎが狩り尽くされれば、猟犬も用済みとして捨てられる、という故事があります。ご自身が、その猟犬になると考えられたのかもしれません」
半兵衛はしばらく黙っていた。
「なるほど——判断を迷われたのですね。長浜城の城主になられる前は——家中が明るくなるような、陽気なお方でしたのに。残念です」
半兵衛は続けた。
「いずれにしても——」
半兵衛は、しばらく言葉を探すように黙り込んだ。
「あのお方には、確かに多くのものを頂戴いたしました。それは、生涯忘れませぬ。しかし——なにゆえ、その恩人に刃を向けられるのか。某には、そのお心が、まったくわかりませぬ」
半兵衛は、しばし瞑目した。
長年の恩義を、胸の内で断ち切るような間だった。
「もはや——某は、羽柴家とは縁を切りまする」
官兵衛は言った。
「戦国の世ならば、なんでもありとはいえ——自らを引き立て、大名にまでしてくれた恩人に、毒を盛るような人間とは。もはや、これまででございます」
松寿丸が、なにか言おうと口を開いた。
「某は——」
官兵衛は松寿丸の頭を撫でた。
「そちは——ここでしっかりと学ぶことだ」
松寿丸は小さく頷いた。
***
重くなった空気を変えるように、北沢が口を開いた。
「話は変わりますが——一つ、お伝えしたいことがあります」
半兵衛と官兵衛が、北沢に目を向けた。
「織田様の毒に気づき、治療にあたったのは——村上先生です」
半兵衛は目を見開いた。
「村上先生は——なんでも治せるのですな」
「津田宗伴殿の唐瘡も治しましたよ」
「なんと——あの唐瘡を治せるとは」
官兵衛も驚いて言った。
「治せぬ病気と聞いていたのですが——村上先生は、本当にすごい方なのですね」
半兵衛は北沢に尋ねた。
「北沢司令——この船に乗られておられる方々は、どのようなひとたちでござるか」
「私は軍人ですが。この船には、村上先生のような医者以外に、いろいろな分野の技術者が乗っています」
半兵衛の目が、みるみる輝きを増した。
「軍人に医者、技術者。技術者は、どのようなものが作れる方なのですか」
「船、飛行機、銃、大砲、それよりもっと進んだ兵器、通信機——それに、機械に指図を出すための、特別な文字を扱う者もいます。本当に、様々です。わからない言葉は、おいおい覚えてください」
半兵衛は、身を乗り出さんばかりだった。
「それは——それは、なんとも羨ましい。某も、いくつになっても、新しき知に触れることこそ、何よりの喜びでございましてな」
官兵衛が、思わず苦笑した。
「半兵衛殿——先ほどまでの浮かぬ顔は、どこへ行かれたのですか」
「いや——これは、これ。あれはあれ、これはこれでござるよ」
その様子に、藤林や北沢も、思わず頬を緩めた。
***
半兵衛は続けた。
「黒田殿も某も、羽柴家では軍師として、用兵を献策する仕事をしてまいりました。この船には——桐山殿たち軍人の方が参考にされておられるような用兵書はありませんか。療養中に学んでおきたいのです」
桐山は少し考えた。
「野外令というものがあります。孫子の兵法も踏まえながら——古今東西の戦史から導き出された戦いの原則をまとめたものです」
「それは——ぜひ学ばせていただきたい」
官兵衛が身を乗り出した。
「某もお願い申す」
松寿丸が遠慮がちに口を開いた。
「父上——某も学びとうございます」
官兵衛は松寿丸を見た。
「そちも読みたいか」
「はい。もちろんです」
桐山は北沢を見た。
「司令——よろしいですか」
北沢はうれしそうに頷いた。
「野外令は——この世の戦いの教訓から、九つの原則にまとめたものだ。孫子の兵法と共通するものも多い。そこから学べることは多いと思います。ぜひ学んでいただきたい」
半兵衛はうれしそうに言った。
「ありがたい。これで病気も早く治るというもの」
官兵衛が続けた。
「療養中に——これほど充実した学びができるとは」
松寿丸の目も輝いていた。
桐山は三人を見渡しながら考えた。
(黒田殿、竹中殿——この二人が海神衆に加わってくれれば、鬼に金棒になるな)




