第79話 調略とは、こうするものよ
播磨・三木城。
羽柴秀吉・本陣。
秀吉は一人、篝火の前にじっと座って考え続けた。
所領は、今より多少増えるかもしれぬ。
しかし——それだけのことだ。
胸躍る気持ちには、もうなれまい。
このままいけば——織田家は、遠からず天下を取るであろう。
だが、その先に求められる家臣は——戦上手の権六でも、調略上手の儂でもあるまい。忠義に篤く、実直に働くだけの官僚のような者だけだ。
調略に長けた男など——いずれ煙たがられ、疑われる。
そして最後には——消される。
その末路が、まざまざと見えるようだった。
儂は——どうすればよいのだ。
必死に、考えに考えた。
——その答えが、これだった。
織田には、天下を取らせぬ。
天下は——儂が取る。
だが——どうする。
信長には、人を引きつける魅力、天才的な頭脳、決断力、胆力、行動力が備わっている。それに——なによりも、強運だ。
すべてが、揃っておる。
間違いなく——英傑だ。
儂などいなくとも、天下はあの男の手に落ちよう。
やつのもとには、優れた人材が集まり続ける。
そうなれば、儂の力など——いずれ不要になる。
いっそ、子に後を継がせて隠居しようかとも思うたが——跡継ぎがおらぬ。
このまま、死ぬまでこき使われるだけか。
——うんざりだ。
諦めかけたその時、便利使いにしていた甲賀忍びの頭領が——呟いた。
儂の心の動きに気づいたのかもしれぬな。
油断ならんやつよ。
「忍びが使う毒に、砒霜という毒がありまして」
「それがどうしたというのだ」
「少しずつ食べ物に混ぜていけば——最初の一年で食欲がなくなり、気持ちも沈みます。やがて頭痛、手足のしびれ、怒りっぽくなり、判断力も低下、内臓もやられます」
頭領は表情を変えず続けた。
「そういう毒がございます——殿の得意な調略の、お役に立てればと思いまして」
(これを——うまく使えば)
そして——天正五年の暮れ頃から、その毒を使い始めた。
甲賀の忍びを使い、典医と女中に手を回させた。無論、ばれた時のことも考えてあった。
ばれた時は——信雄に頼まれたと白状させ、その首で幕引きとする。
頭領には、そう申し渡してある。
(お前が儂を唆したのだからな。責任は取ってもらうぞ)
その代わりとして、頭領の嫡男を、儂の小姓に取り立ててやった。
(子を人質に取られた親は——どこまでも従順になるものよ)
砒霜の効果を試すため、『村重が本願寺に通じている』という根も葉もない噂を流してみた。
今までの信長ならば——一度は使者を送り、真意を質し、あるいは許す道を探ったはずだ。だが、砒霜に蝕まれた信長は、疑いだけで頑なに動いた。
砒霜の効果は、抜群だった。
追い詰められた村重は——有岡城に立て籠もった。
織田の有力武将たちが、『織田様は——以前と変わられた』と、ひそひそと囁き始めた。
***
回想が終わり、秀吉はふっと目を細めた。
炎が、ゆらりと揺れた。
(英傑の能力を——少しずつ奪ってやった。信長よ、高転びに転ぶがいい)
(猿ごときの仕掛けとは——夢にも思うまい)
そして——あの、真面目な男。
せいぜい、儂の描いた筋書きどおりに踊ってくれればよい。
戦国の世で、真面目さなど——他人に利用されるための道具に過ぎぬわ。
秀吉はゆっくりと立ち上がった。
「まだ時間はある——焦ることはない」
***
陣幕の外で、足音がした。
「殿、戦況の報告に参りました」
「入れ」
蜂須賀正勝が、片膝をついて頭を下げた。
「三木城内の兵糧は、いまだ底をついておりませぬ。ただし——毛利からの後詰めは、九月の平田・大村での一戦以来、途絶えたままです」
秀吉は頷いた。
「宇喜多が寝返ったのが効いておるな。毛利の本国と、播磨・摂津の間が、すっぱり分断されておるわ」
「はっ。それゆえ——別所方には、もはや望みはないかと。あとは、干上がるのを待つのみです」
「降伏を勧めても、応じぬのであったな」
「はい。頑として拒んでおります」
秀吉は、ふんと鼻を鳴らした。
「意地だけは、大したものよ。まあよい——時が経てば、否応なく落ちる城じゃ」
武将は続けた。
「三木城さえ落ちれば——次は、いよいよ毛利本体との決着でございますな」
秀吉は、にやりと笑った。
「そういうことになるな。期待しておるぞ」
「はっ」
蜂須賀正勝が下がっていった。
***
秀吉は、一人になった陣幕の中で、再び腰を下ろした。
(毛利との決着——か。まあ、皆にはああ言っておくしかないな。裏の話までは、聞かせられぬ)
光秀、お主の姿が見えるようじゃ。
毒のせいで感情を抑えきれなくなった信長に、今も諫言を続けているのだろうな。
だがな——ひとには限界というものがある。
心とは弱いものだぞ。
そうなったとき、真面目な男は抑えが効かなくなる。
謀反に突き進め。
有能な男だ——動けば必ずや、信長を仕留めてくれるはずだ。
やつが動きさえすれば、事はなる。
もちろん、儂はさらに光秀の背中を押してやるがな。
公家でも、寺社でも、金で動くものはいくらでもおる。
所詮、あいつらは金と権力争いにしか興味がないのだ。簡単なものよ。
そいつらを使って、摂関家を、いや——一番よいのは親王を動かす。
それらしく取り入ったなら、頃合いを見て「上様は、いずれ朝廷すら軽んじられよう」と、耳元に囁いてやればよい。
やつら、震え上がるだろう。
我が身可愛さで動く公家など、扱いやすいことこの上ない。
光秀め——朝廷だ、帝だと、やたら畏まる律儀者よ。
あの生真面目さは、滑稽なほどだ。
だが——それでいい。
やんごとなき朝廷からの勅命が下れば、あの男は抗えまい。
偽の勅命をこしらえるくらい、公家どもにとっては、造作もなくやるであろう。
そうなれば光秀め、忠義との板挟みで、ますます心が病むことだろう。
それなれば、しめたものよ。
忍びに命じて謀反の噂を流し、光秀の退路を断つ。
これで決まりだ。
事が成った暁には、謀反人の光秀を——儂が討つ。
主君の仇を討った大忠臣として——天下は、儂に転がり込む。
ただし——信長が死んだ後は、一刻を争う。
一刻も早く光秀を討たねばならぬ。権六などに先を越されては、どうにもならん。
時間との勝負よ。
そのためには——今のうちに、毛利と内々の話をつけておかねばならぬ。
それゆえ、すでに手は打ってある。
ちょうど使い勝手のよい坊主がおったのだ。
毛利の外交僧として、それなりに知恵の回る男でな。
だが——所詮は、坊主よ。少し持ち上げてやれば、簡単に転がる。
安国寺は、小間使いにうってつけであったわ。
表向きは、毛利のために動く外交僧。
だが——その実、儂の掌の上で踊る駒としてやった。
(調略とは、こうするものよ。虚々実々——じゃ)
北条、武田、上杉、徳川、長宗我部。
安国寺には、あちこちの家に、足繁く通ってもらっておる。
あの坊主の腕は、たしかなものよ。
明言はせぬ。証文も残さぬ。ただ、それとなく匂わせるだけだ。
それだけで、相手は勝手に思案を巡らせ、都合よく解釈してくれる。
表向きは、毛利のための和議の道を探る使者として。
裏では——儂と毛利との、密やかな橋渡し役としてな。
秀吉は、暗闇の中で、静かに笑った。
「まだ時間はある——焦ることはない」
夜の三木城が、暗闇の中に沈んでいた。




