第78話 なにが起こるかわからぬものですな
武蔵・感染隔離室。
半兵衛がベッドに横になっていた。
扉が開いた。
マスクを付けた黒田官兵衛が——杖をつきながら、ゆっくりと入ってきた。
半兵衛は顔を上げた。
「黒田殿——」
官兵衛は半兵衛の前にゆっくりと座った。
膝の関節が、まだ十分には曲がらなかった。
「竹中殿——松寿丸を助けていただき、心から御礼を申し上げる」
深く頭を下げた。
半兵衛は穏やかに笑った。
「どうせ命がなくなるのなら——少し良いことをしようかと思っただけでござる」
「そんな——一つ間違えれば、竹中家は潰されていたはず。この御恩、生涯かけてお返しいたします」
「生涯かけて——ですか」
半兵衛は、しばらく黙っていた。
やがて、口元を緩めた。
「生涯をかけるも、なにも——お互い、こうしてよれよれの体ではありませんか」
官兵衛も、思わず笑った。
「まったくもって——そのとおりですな」
「ところで——この病気、治るそうです」
官兵衛は目を見開いた。
「労咳は——不治の病では」
「それが——村上先生から、当たり前のように治ると言われました。正直、驚きましたぞ」
「治って当たり前ですか——」
「それに——この船、見たこともないものばかりでござるな。村上先生が使っておられる道具も——どこで、どう造った物か見当もつきません」
「わからぬことばかりでござるな。ですが、松寿丸が戻ってきたら——北沢司令から説明いただけるそうです」
半兵衛は不思議そうな顔をした。
「司令とは——妙な呼び名ですな」
「はい。この時代には、聞いたことのない呼び方です」
半兵衛はしばらく天井を見つめた。
「しかし——面白きものですな。死を覚悟しておった身が、こうして未だ見たことなき場所に迷い込むとは。人の生涯というのは、最後の最後まで、何が起こるかわからぬものですな」
***
武蔵・黒田官兵衛の船室。
扉が開いた。
藤林に付き添われて——松寿丸が入ってきた。
官兵衛は思わず身を乗り出した。
松寿丸は、一歩足を踏み入れたところで、目を見開いた。
やつれ果てた父の姿に、一瞬言葉を失う。
だが——それでも、確かに父がそこにいる。
生きている。
「父上——!」
声が震えた。
松寿丸は、駆け出すように官兵衛の前に膝をついた。
「父上——ご無事でしたか」
目に、みるみる涙が盛り上がった。
こらえきれず、頬を伝った。
官兵衛はしばらく松寿丸を見つめていた。
「おまえこそ——どこも怪我はないか。大丈夫か」
松寿丸は、何度も頷いた。
言葉にならず、ただ頷き続けた。
ようやく、震える声で言った。
「このとおりです。竹中殿に助けていただき——ずっと隠れて暮らしておりました」
「どこに隠れておった」
松寿丸は答えた。
「美濃の垂井——五明という場所です。竹中殿の重臣、不破矢足殿の屋敷に匿っていただきました」
「不破殿が——」
「はい。女装して、於松と名乗っておりました」
官兵衛は思わず笑った。
「女装か、見てみたかったな」
「竹中殿から、女に化けているのが一番安全だと言われました。そこでは、幸徳という小坊主が遊び相手になってくれました」
「すべて竹中殿のお陰だ。この恩、生涯忘れるでないぞ」
松寿丸は頷いた。
「はい」
官兵衛はしばらく松寿丸を見つめていた。
(生きていてくれた——それだけで十分だ)
目が、わずかに潤んだ。
***
播磨・三木城。
羽柴秀吉・本陣。
秀吉は一人、篝火の前にじっと座っていた。
遠くに——三木城の輪郭が、暗闇の中に沈んでいた。
「さすがに三木城は、簡単には落ちそうにないな」
独り言だった。
(官兵衛は——有岡城に囚われたままだ)
(松寿丸は——もう死んでしまっただろう)
(半兵衛も——もう先はない)
秀吉はしばらく炎を見つめていた。
(それにしても——上様に仕えて、もう何年になるかの)
***
昔の記憶が、ゆっくりと流れ始めた。
まだ織田は、小大名じゃったな——あの頃は。
奇跡のような桶狭間。
義元の首を取り、尾張をまとめ、美濃を取った。
足利義昭を擁して、天下人を目指した。
振り返れば——まるで夢のような出来事の連続であった。
命がけの日々だった。
明日をも知れぬ戦に、幾度も身を投じた。
それでも——不思議と、心が躍った。
あの御方の天運に、我らは吸い寄せられるように付き従った。
勝てるはずのない戦に勝ち、開くはずのない道が開けていく。
それを間近で見続けることが——秀吉にとって、なによりの喜びであった。
命を懸けるに、値するお方だった。
百姓あがりの儂も、上様の下で、命がけで働いた。
初めて大名にしてもらった時——それは、うれしかった。
だが——あそこが、儂の人生の頂だったのかもしれないの。
そこからは——なぜか、つまらなくなった。
未だに、出自の低さを陰で嗤う者がいた。
昔は、そんなことなど——気にもならなかったのにな。
織田家が、日に日に大きゅうなっていく。
その渦の中に身を置いておるだけで、儂は満ち足りておった。
明日、この身がどうなるか。行く末が、どうなるか。
そんなことを、考える暇すらなかった。
だが——今は違う。
心の底で、気づいてしまったのだ。
儂には、これ以上——上はないと。




