第76話 労咳が、治るのですか
堺。千宗易の屋敷。
信長は少し安心したように微笑んだ。
「ところで——北沢殿、今後、織田家との縁を強くしていただきたいと考えますが、いかがですか」
北沢は首をかしげた。
「まさか——縁談とかですか」
「いかにも」
「ですが——私はもう六十九歳ですぞ」
信長は笑った。
「大丈夫でござる。儂の妹でどうでしょう。名はお市という。今は子供が三人おりますが——」
北沢は少し驚いた顔をした。
「お市殿——浅井長政殿の奥方だった方ですね」
「そうじゃ。長政が死んで——今は儂のもとにいる。北沢殿のもとに嫁がせたい」
北沢はしばらく黙っていた。
(記録では、お市の方をもらった柴田勝家殿は、秀吉に攻められ落命だったな)
(そうはならないと思うが——)
「こんな年寄りに嫁ぐのでは……お市様が悲しまれますよ」
信長はにやりと笑った。
「武家に生まれた女は弱くはない。遠慮は無用。頼む」
北沢は苦笑した。
「そこまで言われるのなら、お受けします。しかし、住んでいただくのは有岡城になると思います。話を進めるのは、その城を修復してからにしていただきたい」
「では、急がねばならぬな。丹羽長秀に命じよう。あいつなら城の修復など、すぐじゃ」
「ですが、かなり壊しましたぞ」
「安土城の普請を任した男だ。有岡城の修繕も手際よくやってくれるはずじゃ」
(これは——武蔵に戻ったら、みんなに何と言おう)
***
武蔵・大会議室。
北沢は全員を見渡した。
「織田殿に一筆書いていただいた。この——『許す』という文字について説明しておく」
黒田官兵衛殿、松寿丸殿、竹中半兵衛殿について、信長と話した内容を順に説明した。
「というわけで——黒田官兵衛殿、松寿丸殿、竹中半兵衛殿は我らが預かることになった。彼らは——海神衆として、この国のために働いてもらうことになる」
会議室が静まり返った。
「この一筆一枚には——そういう意味が込められている。まあ、織田殿らしいがな」
桐山が言った。
「三人とも——海神衆として、新しい人生を歩むわけですね」
「そういうことだ」
北沢は藤林を見た。
「藤林殿——京で療養中の竹中殿のもとへ行って、この一筆を見せ、事情をご説明してほしい。そして竹中殿と松寿丸殿を武蔵に連れてきてもらいたい。竹中殿は重病です——くれぐれも丁重に頼みます」
「承知しました」
北沢は村上を見た。
「村上先生——黒田殿に、松寿丸殿のご無事と、この一筆の意味をお伝えしてもらえますか」
村上は頷いた。
「生きている我が子と再会できると知れば——治りも早くなるでしょう。一番の薬ですよ」
「ちなみに竹中殿ですが——記録では結核を患っていたようです。この時代では労咳と呼ばれている病気です」
「それなら、ストレプトマイシンという薬が必要となりますね。運良く武蔵に積まれています。作ることもできますけどね」
藤林は思わず確認した。
「労咳が、治るのですか」
村上は答えた。
「治せますよ」
(労咳で死んでいった者をたくさん知っておる)
(才蔵の仲間にも、若くして逝った者がいた——そういう者たちがいなくなる……)
藤林の脳裏に、遠い記憶が浮かんだ。
幼い頃、可愛がってくれた叔父が、労咳で血を吐いた。
堺で評判の高額な薬を買って与えたが、何の役にも立たなかった。
結局、骨と皮になって、苦しんで死んでいくのを、ただ静かに看取るしかなかった。
誰もが「仕方のないこと」と諦めていたことが——治せると、いとも簡単に言う。
藤林は、込み上げるものを、そっと抑えた。
(先の世では、当たり前のことなのだろう。だが、我らにとっては——奇跡だ)
北沢が聞いた。
「さすがに、すぐに完治は無理でしょう」
「そうですね。竹中殿は半年程度の養生が必要です。黒田殿の方も——膝の関節のリハビリに、時間がかかるでしょう」
北沢は頷いた。
「両名とも、よろしく頼みます」
村上は腕まくりをした。
「医者本来の仕事ですからな。それに——患者がいないと、腕がなまりますよ」
美咲が苦笑した。
「先生——それ、何度目ですか」
「何度でも言いますよ。乗組員の皆さん、元気すぎて誰も病気になりませんからな」
どっと笑いが起きた。
笑いが収まったところで——村上は藤林の方を見た。
「藤林殿、京から竹中殿をこちらに連れてくるときは、これをつけてもらってください。こんな風に」
白いマスクを二つ取り出した。
「一つは竹中殿に。もう一つは——藤林殿が、竹中殿の近くにいる時につけてください」
藤林はマスクをしげしげと見つめた。
「これで——労咳が感染るのを防げるのですか」
(マスクというのは、ただの布ではないようだな)
「完全ではありませんが——かなり防げます。労咳は咳で人に感染します。竹中殿には口と鼻を覆うようにお伝えください」
藤林は深く頷いた。
「承知しました」
伊賀の村では、労咳に罹った家族を、マスクなしで看病していた。
労咳が、咳で人に感染するなどということを、誰も知らなかった。
(先の世では、当たり前に知られていることのようだ)
こんな簡単なことを知っているだけで——救えた命が、いったいどれほどあったのだろうか。




