第75話 その男——気骨があるな
堺。千宗易の屋敷。
茶室に——二人だけが残った。
信長はおもむろに口を開いた。
「北沢将軍公——有岡城のみならず、本願寺に兵糧を運び込もうとする毛利の企みを防いでくださったこと、感謝に耐えません。まこと、海の神の力はすごいものですな」
北沢は軽く頭を下げた。
「お役に立ててよかったです。ところで織田殿は——天下を統一された後のことをお考えですか」
信長はしばらく黙っていた。
「まだ、そこまで考えがおよびませぬ」
息を一つ吐いてから、続けた。
「だが——尾張で、元服前より抱いてきた志は変わらぬつもりです。この国から戦をなくし、民が苦しまぬ世を作る——それだけは」
信長は、静かに目を伏せた。
「されど——この先、何年かかることか。この身が、天下統一を見届けるまで生きておるかどうかも、わかりませぬ」
北沢は穏やかに言った。
「その気持ちにお変わりがないのであれば——我らが天下統一までの期間を短くして差し上げます。数年もかからず——天下は統一できるはずです」
信長の目が光った。
「それはまことであろうか。儂の夢が——生きているうちに叶うのですな」
信長はわずかに前のめりになった。
「北沢将軍公——織田家をお助けください」
北沢はゆっくりと頷いた。
「お約束いたします」
北沢は、少し表情を改めた。
「それと——一つ、お願いがございます」
「なんじゃ」
「私を『北沢将軍公』とお呼びになるのは、控えていただきたいのです」
信長は、意外そうな顔をした。
「なにゆえでござろうか。先の世の将軍であるならば問題ないのでは」
「この国には——足利将軍家がございますね。『北沢将軍公』という呼び方が広まれば——いらぬ誤解や、いらぬ諍いの種になりかねません」
北沢は続けた。
「今後は——ただ、北沢殿とお呼びいただければ、十分です。私も、織田殿と呼ばせていただきます」
信長はしばらく考えていた。
やがて、頷いた。
「なるほど——承知いたした」
信長は、手を固く握りしめた。
「とにかく——ご助力いただけること、ありがたき幸せにございます。これで、天下統一が叶い申した」
***
しばらく沈黙が続いた後、北沢が口を開いた。
「先ほど、話しかけられた茶道具の件ですが——いただけるのであれば、代わりに、忠臣の命を救っていただきたいのです」
信長が、目を大きく見開いた。
「忠臣の命とは——誰のことであろうか」
「実は——有岡城の土牢に、死にかけの男が捕らわれておりました。海神衆が、その者を助け出しております」
信長の顔から、すっと表情が消えた。
「まさか——官兵衛が……」
「そのとおりです。村上先生がいなければ死んでいました」
信長はしばらく黙っていた。
「実は——少々、問題がありまして」
「松寿丸ですな」
「そうでござる」
「黒田殿の命——我らにいただけませんか」
「それはかまわぬが、松寿丸は——」
北沢は穏やかに続けた。
「松寿丸殿も、一緒にいただけますか」
信長はしばらく黙っていた。
「——もう生きておらぬ……」
北沢は、落ち着いた声で言った。
「もしも生きていたら——我らにいただけますか」
「生きておるならば」
「では、約束しました」
信長は少し困った顔をした。
「儂が命じて殺させた。この時代は——情けは毒なのじゃ。甘きことをすれば——いずれ寝首をかかれてしまうのだ。ご理解いただきたい」
「先の世の記録によれば——」
北沢は続けた。
「松寿丸殿を、黒田殿の無実を信じ、命を懸けて匿った男がいた、と記されておりまして」
信長の目が細くなった。
「そういう記録が残っておるのですか」
「もちろん、すべての出来事が記録されているわけではありません。それに、有岡城が壊れ、村上水軍の船が沈んだことで——この先の出来事は、記録とは違ったものになっていくと思います」
「そうでしょうな」
信長は、少し考えるように言った。
「して——命を懸けて匿った男というのは、誰であろうか」
北沢は、静かに答えた。
「生きてはおりますが——今、病を得て、死にかけております」
信長は、はっとした顔をした。
「まさか——半兵衛か」
「はい」
信長はしばらく黙っていた。
「その男——気骨があるな。気に入った。村上殿なら、助けられるのであろうか」
「たぶん助けられます」
「お願いいたす」
北沢は続けた。
「では——黒田官兵衛殿、松寿丸殿、竹中半兵衛殿の命、貰い受けてもよろしいですな」
「約束しよう。半兵衛を助けてやってくれ」
「では、一筆書いていただけますか。それを見せ、彼らには——海神衆として、この国のために働いてもらうつもりです」
信長は頷いた。
「それでかまわぬ」
信長は、少し遠い目をした。
「竹中半兵衛という男は——羽柴の陣に仕え、幾度も秀吉の窮地を救っておる。我欲のない清廉な男だ。いずれ儂が側近として引き取るつもりであった。死なせるのは——惜しい」
「ずいぶんと、買っておられたのですね」
「無論じゃ。もっとも——本人は、飄々としておったがな」
信長は、ふっと笑った。
「あの男が、自分の後継ぎとして、教え鍛えていた官兵衛の子を、命がけで守ったというなら——さもありなん、という話よ」
北沢は静かに続けた。
「二人とも、しばらくは安静にして養生してもらいます」
信長は頷いた。
「村上殿に——よろしくお願いすると伝えていただきたい」




