第6話 静かな毒、枢要へ
熊野灘・KI海洋資源開発研究所 地下ドック。
大和と武蔵の建造がついに終わった。
しかしそれで、完成というわけではなかった。
まず地下ドックの中で、原子炉の臨界試験が行われた。
核燃料が初めて連鎖反応を起こした瞬間、立ち会った橘と松永は無言で顔を見合わせた。言葉は必要なかった。
続いて出力試験、各システムの動作確認、兵装システムの起動試験。
一つひとつのチェックリストを潰していくたびに、艦は少しずつ「生き物」になっていった。
***
熊野灘・日本近海。
試験航海は極秘に進められた。
最初の数回は夜間のみ、島の周辺海域だけを動いた。
浅い深度での潜航確認から始め、問題がないことを確認してから少しずつ深く潜っていった。設計限界深度まで潜ったときも、艦体はびくともしなかった。
速力試験では水中三十ノットを超えた。
橘は計器を見ながら拳を握った。
やがて行動範囲を広げ、日本近海での潜航試験を重ねた。
海上自衛隊の哨戒網には、何度か正体不明のソナー反応が記録されていた。
「所属不明の大型潜水艦らしき音紋あり」という報告が、海自の内部で小さな噂になった。
確証には至らなかった。
大和と武蔵はその都度、深く潜り、音もなく消えた。
***
都内・料亭。
正体不明のソナー反応の噂が、思わぬところに届いた。
現海上幕僚長の坂本隆(五十九歳)は、北沢の二期後輩だ。
北沢が海幕長だった頃、坂本は潜水艦隊司令として仕えてくれた。
公私ともに気心の知れた間柄だった。
坂本から連絡が入ったのは、噂が広まり始めてから一週間後のことだった。
「北沢先輩、お久しぶりです。少しお時間いただけませんか」
二人は都内の料亭で向き合った。
坂本は開口一番、探るように言った。
「先輩、なにかやっていませんか」
北沢は珈琲カップを置いた。
「なんの話かな」
「所属不明の潜水艦です。音紋を解析しました。通常動力では出せない静粛性です。しかも巨大だ。うちの潜水艦の三倍はある。先輩が顧問をやっているKI海洋資源開発研究所——熊野灘にあるその島が、なにか関係しているのでは」
北沢は坂本の目を見た。
昔から勘の鋭い男だった。
潜水艦乗りとして鍛えた直感は、現役を退いても衰えていない。
長い沈黙が続いた。
「口外するなよ」
北沢はそれだけ言ってから、話し始めた。
坂本は黙って聞いていた。
話が終わると、北沢の目をしっかりと見ながら言った。
「原子力潜水艦を、民間で作ったというんですか」
「ああ」
「核は積んでいないですよね!」
「もちろん積んでいない」
坂本は深いため息をついた。
「先輩、これは大変なことになりますよ」
「わかっている。だから口外するなと言った」
坂本は頷いた。
「分かりました。私の胸の内に収めます」
二人は料亭を出た。
北沢は坂本を心から信頼していた。
***
坂本は、料亭を出た後も足が重かった。
(先輩! この情報、一人で抱えるには、重すぎます)
職業軍人として三十年。どんな情報も独断で処理してきた。
しかしこれは違った。
民間企業が原潜を作った。核搭載の可能性もある。
もし本当なら、国家の安全保障に直結する。
自分一人の胸に収めて、何かあったときに責任が取れるのか。
(そうだ、田所なら信頼できる。あいつに相談するだけだ。漏らすわけじゃない)
***
防衛省・坂本の執務室。
その夜、坂本は腹心の部下、田所一佐を呼んだ。
「田所、少し相談がある。ただし、信頼するお前にだけ話すことだ。他の者には絶対に漏らすなよ」
「もちろんです。誓います。ご安心下さい」
田所は坂本が最も信頼する男だった。
長年行動をともにし、私生活まで知り合った仲だ。
坂本は北沢から聞いた話を、そっくりそのまま話した。
田所は神妙な顔で聞いていた。
「幕僚長、それは大変な話ではないですか。核兵器についても疑っておく必要がありますね」
「その通りかもな。で、どう思う」
「慎重に扱うべきかと」
田所は深々と頭を下げて、部屋を出た。
***
田所の自室。
自室に戻ると、田所は官給品ではない私用のスマートフォンを取り出した。
登録名義は、存在しない人間のものだ。
翻訳アプリを起動する。見た目は普通のアプリだった。
しかし特定の文字列を入力すると、暗号化された別回線に接続される仕組みになっている。
三年前、初めて接触してきた男から、大金とともに手渡されたものだ。
(罠だと、気づいていた。それでも受け取った。撮影されていた。その瞬間から、自分はスパイになってしまった)
田所の指が動いた。
その夜のうちに、暗号通信を送った。宛先は、某国の工作機関だった。
静かな毒は、気づかれないまま、この国の枢要にまで回っていた。
***
それから二週間後。
官邸・危機管理センター。
最初は外交ルートだった。
日本政府に一通の外交電文が届いた。
発信国は、四大ブロックの一つだった。
内容は簡潔だった。
「日本の民間企業が、政府の監督を欺いて原子力潜水艦を極秘裏に建造した事実を確認した。核兵器を搭載しているものと判断する。我が国に対する核攻撃の意思ありと見なさざるを得ない。
二十四時間以内に、当該原潜を我が国当局に引き渡すことを要求する。応じない場合、我が国は自国の判断でこれを無力化する」
官邸が対応を協議している最中に、今度はブロックの代表から直接、江崎総理に通信が入った。
「総理、返事はまだですか。二十四時間などと悠長なことを言っていられなくなりました。応じないなら、東京に対して核攻撃を行います。もう時間はありませんぞ」
電文と直接通告。二重の圧力だった。
江崎総理の顔から、血の気が引いた。
官邸は混乱に陥った。想定外の事態に、この国の政治は驚くほど脆い。
マニュアルのない危機に、誰も手を挙げられなかった。
***
ホットラインが切れた。
誰も口を開かなかった。
江崎総理がようやく言った。
声は別人のように小さかった。
「原子力潜水艦を……民間が作ったというのか。核まで積んで」
「失礼します」
西村防衛大臣がそう断ると、その場でスマートフォンを取り出した。
「坂本君か。緊急事態だ。単刀直入に聞く——熊野灘の無人島で、KI重工が何か作っていないか」
電話の向こうで、坂本が息を呑む気配が伝わった。
沈黙が、数秒続いた。
「……大臣。実は、元海上幕僚長の北沢から、内々に打ち明けられていたことがあります」
西村の表情が険しくなった。
「話せ。今すぐだ」
電話を切ると、西村は総理に向き直った。
「総理。海上幕僚長の坂本が、元海上幕僚長の北沢から打ち明けられていたそうです。熊野灘の無人島で、KI重工が原子力潜水艦を建造していたと」
「KI重工だと? 黒岩財閥がか!」
江崎総理の声が裏返った。
「なぜ坂本のやつは、もっと早く報告しなかった! 国家の重大事だろ」
「坂本は北沢個人への信義から、報告を控えていたようです……。しかしなぜ、あの国に情報が漏れたのでしょう」
誰も答えられなかった。
答えられる者が、この部屋にいなかった。
江崎総理は額に手を当てた。
「そこは後でいい。東京が核攻撃される。どうすればいい」
西村が答えた。
「核を持たない国に、核の脅しを止めさせる手段はありません」
一瞬の間があった。
「まずは関係者を拘束し、原潜を引き渡すことを、交渉材料にするしかないかと」
(これが、核を持たない国の現実なのか)
江崎総理は頷いた。
「黒岩を逮捕しろ。海上自衛隊を動かせ。原潜を拿捕しろ」
誰も「はい」と言わなかった。
だが、誰も、止めなかった。
沈黙だけが、命令への返事だった。




