第65話 この国の医者のようなものかのう
堺。伊賀忍びの拠点。
藤林から九鬼に返事を送ると——二日もしないうちに連絡が戻ってきた。
しかも——明日、堺に来るという。
藤林は思わず通信機を手に取った。
(織田家はなんでも早いと聞いたことがあるが——このことか)
(急いで北沢司令に連絡しなければ)
***
天正六年十月中旬。
津田宗伴の屋敷。
村上は袋の中のiPadを確かめた。
信長に真実を明かすための準備だった。
屋敷の外には、織田の騎馬隊百名が待機していた。
それを指揮するのは——信長の小姓・万見仙千代だった。
部屋の中に入ったのは、信長と堀の二名だった。
村上の側には美咲と桐山が控えていた。
屋敷の中と外には、伊賀の忍びが護衛として配置されていた。
信長は正座したまま、村上に深く頭を下げた。
「村上殿——命を失うところであった。礼を申す。このとおりだ」
部屋の空気が、凍りついた。
天下人が、一介の医師に頭を下げている。
村上は、その光景の異様さに、返す言葉を一瞬失った。
(このお方は——常に本気だ。冗談でも、形だけの礼もない)
少し後ろに控えた堀も、同様に頭を下げた。
堀の額には、うっすらと汗が浮いていた。
(上様が、これほど深く頭を下げられるところなど——某は見たことがない)
村上は恐縮しながら、慌てて言葉を継いだ。
「そ、そのようなことをなさらないでください。頭をお上げください」
「いや」
信長は、頭を上げなかった。
村上の背筋に、冷たいものが走った。
感謝されているはずなのに——なぜか、頭を下げられているこの瞬間の方が、恐ろしかった。
ようやく信長が顔を上げた。
その目に、まっすぐな光があった。
村上は、震える声で答えた。
「あ、あれだけの文字から、よく状況を把握され、素早く動かれたものですね」
信長は小さく笑った。
「そんなことができねば、この世界では生きてはいけぬ。戦国の世においては、弱き者、遅き者から死んでいくのだ」
「厳しい世界ですね」
村上は続けた。
「治療を始める前に——砒霜という毒について、簡単にご説明させていただきます」
信長は頷いた。
「砒霜というのか。それは、どのような毒なのだ」
「無味無臭——食べ物や、飲み物に混ぜられても気づけません。少量ずつ長期間盛られると——手足のしびれ、腹痛、頭痛、体重の減少が起きます。さらには——神経にも影響が出ます。気性が激しくなり、判断力が低下します」
信長はじっと聞いていた。
「そのまま毒を盛られ続ければ——肝臓と腎臓が障害を受け、最後は臓器不全で死に至ります」
村上は一度、信長の目を見た。
「現在の状態は——中期から後期の境目です。毒を食い止められる、ぎりぎりのところでした」
信長はしばらく黙っていた。
「……あのまま毒に気づけなければ、死んでおったということじゃな」
目に力が戻った。
「儂は死ねぬ! 天下を統一し——戦のない世を作るまでは、なんとしても生き抜かねばならぬ」
「毒が入ってこなくなった今——神経への影響は徐々に和らいでいきます。気性が激しくなり、判断力が落ちる——それらはすべて、砒霜が神経を蝕むことで起きていた症状です。一週間もすれば——ご自身の変化を実感していただけるはずです」
村上は続けた。
「治療の方ですが——今日の点滴で、体に溜まった砒霜を尿として体外に出します。点滴というのは、少しずつ体に薬を入れていく治療になります」
「砒霜という毒は、体の中でどうなっているのだ」
「砒霜は体の中に入ると——血や臓器に広がります。ただし——砒霜は体内での滞留時間が比較的短い毒です。毒を止め、治療を始めれば、一回の点滴で相当量を体外に出せます」
村上は続けた。
「ただし——一度に全部は出せません。体の隅々に広がった砒霜を完全に排出するには——三回から四回繰り返す必要があります。回を重ねるごとに、腹の痛み、手足のしびれ、頭痛が楽になっていきます」
信長は納得したように言った。
「儂自身、感情を抑えきれず——どうかしていると思うことが、少なからずあった」
「それも——砒霜の仕業です。治療が進むごとに——体も心も、本来の状態に戻られます」
信長は、しばらく黙っていた。
「わかった。そなたに任せる。治療にかかってもらえるか」
村上は頷いた。
「お任せください」
美咲が素早く道具を並べた。
点滴の器具——細い管と、薬液の入った袋が、手際よくトレーに並んだ。
信長が道具を見た。
「また——妙な道具が並んでおるな」
「点滴の道具です。細い針を腕の血管に刺して——薬をゆっくりと体の中に入れるのです」
「どれくらいかかる」
「一回に——半刻ほどです」
「半刻か」
「はい。横になっていただいた方が——お体への負担が少のうございます」
信長は横になった。
美咲が針を刺した。
「……む」
「すぐに慣れます」
薬液が、ゆっくりと流れ始めた。
時間がゆっくりと過ぎていった。
横になったまま、信長がおもむろに口を開いた。
「こうしていると、暇を持て余すな。村上殿——誰が毒を仕組んだと思う」
村上は慎重に言葉を選んだ。
「政のことはわかりません。ただ——砒霜が体をどう蝕むかを知り、長きにわたり気づかれぬよう毒を盛り続けるには、医者の知識が要るはずです」
信長が頷いた。
「そのとおりじゃ。典医が関わっておった」
信長は、少し間を置いて話を続けた。
「それにしても——医者というのも、いろいろおるものよな」
村上が答えた。
「医者という者は——病や怪我に苦しむ人を救う。ただそれだけのために、一生を費やす者だと思っております」
信長はしばらく天井を見つめていた。
やがて、ぽつりと呟いた。
「戦をなくし、民を苦しみから救おうとするなら——その者は、この国の医者のようなものかのう」
村上は大きく頷いた。
「まさに——そうだと思います」
しばらくして——点滴が終わった。
***
村上が穏やかに言った。
「お体の具合はいかがですか」
信長は、しばらく体の感覚を確かめてから言った。
「少し体が温かくなった気がする」
「それは薬が体の中で、懸命に働いている証拠です。まもなく——尿意を感じると思います。砒霜が尿として体外に出ていきます」
信長は少しだけ驚いた顔をした。
「なるほど——薬が毒を追い出しているというわけじゃな」
「そのとおりです。点滴後は少し体がだるくなることもありますが——明日には、楽になってくるはずです」
信長は頷いた。
「まだ、やることが多く残っている——早く元に戻らなければならぬ」




