第64話 始末せよ
安土城。天主内の御座所。
御座所には信長と堀秀政の二人だけ——廊下の警護もいったん遠ざけてあった。
信長が、堀にだけ伝わるような小さな声で言った。
「儂を亡き者にしようとしている者がいる」
堀が顔を上げた。
「そ、それは、どういうことでしょうか」
「毒が盛られているようだ。すぐに死なぬよう——少しずつな」
堀の顔色が変わった。
「それは——一大事ではないですか」
「声が大きい」
「申し訳ありません」
堀は素早く頭の中を整理した。
「まず、上様の膳を運ぶ者が一番怪しいことになります。次は——日頃から上様を診ている典医。料理を作る者や台所に出入りする者もすべて疑わしゅうございます」
「頼む」
「はっ」
信長はそれだけ言って、目を閉じた。
堀は急いで部屋を出た。
(相変わらずだ——短い命令だ)
(上様は、自分に使えるなら、詳しく説明しなくてもわかるだろう——そう思われているふしがある)
御座所を退出した堀は足を速めた。
(まず——子飼いの美濃・忍びを呼ぼう)
(上様の命令は短いが、某の説明は、細かく丁寧にしなければならない)
***
堀の屋敷。
堀は、忍びを軒先に呼び寄せた。
「よく聞け。上様に——少しずつ毒を盛っているやつがいる」
忍びが息を呑んだ。
「上様の膳を運ぶ者、典医、台所に出入りする者——すべてを洗え。誰が、いつから、どうやって毒を盛っているか——それを掴め。急ぐのだぞ。このことは——証拠を掴むまで、誰にも知られるでないぞ」
「はっ」
忍びの頭は深く平伏した。
(上様の一言を、凡人が動けるように訳する——それが某の役目というわけだ)
***
典医・安田玄哲の屋敷。
権蔵は天井裏に張り付いていた。
配下二名が、左右に気配を消し、周囲を警戒していた。
下の部屋に、二人の人影があった。
典医の玄哲と——女中らしき者だった。
玄哲が低い声で言った。
「志津、ここには来るなと命じていたはずだぞ」
志津が震える声で言った。
「もう勘弁していただけませんでしょうか」
玄哲は冷たく言った。
「断れば——お前の家族に刺客が送り込まれるが、構わないか」
「家族に手を出すのは——おやめください」
「それに——ただでとは、言っておらん。ほれ、受け取るがよい」
銀の粒が入った小さい袋が、畳の上に投げられた。
志津はしばらく黙っていた。
やがて——震える手で、それを拾った。
権蔵は天井裏で確信した。
(これで——尻尾は掴んだ)
(後は——裏で糸を引いている者を探るだけだ)
権蔵は配下に目配せした——引き上げの合図だ。
三人は音もなく屋敷を出た。
その瞬間——。
「待て」
暗闇の中から、六つの人影が現れた。
一人が低い声で言った。
「ご同業を傷つけたくはないのだが——これも仕事なんでな」
配下の一人が権蔵を見た。
「頭——逃げてくだされ。ここは我らが」
「馬鹿野郎——」
権蔵が言い終わる前に、配下二名が踏み込んだ。
権蔵は全力で走った。
背中に風を感じた。
鋭い痛みが走った。
(切られたか——)
権蔵は暗闇の中を走り続けた。
川が見えた。
そのまま——落ちた。
「やったか」
追手の忍びが川面を見下ろした。
「背中を深く切った。生きてはいないだろう」
暗い川面に、波紋だけが広がっていた。
***
深夜——。
堀の屋敷。
門番が異変に気づいた。
よろめきながら、男が門に寄りかかっていた。
門番が大急ぎで堀を呼びに走った。
「権蔵——!」
堀が駆けつけた。
権蔵は血まみれだった。
それでも——堀をまっすぐ見た。
「典医の玄哲と……女中の志津が毒を……」
「わかった。よくやったぞ」
「裏で糸を引いている者は……わかりませんでした……申し訳——」
権蔵はそのまま動かなくなった。
堀は権蔵の瞼を閉じてやった。
「誰かいるか——この者を、ねんごろに弔ってやってくれ」
堀は立ち上がった。
(裏で糸を引いている者はわからなかったか。だが——典医と女中は確定した)
「者ども、出会え」
***
典医・安田玄哲の屋敷。
兵二十名を率いた堀が、典医の屋敷に踏み込んだ。
玄哲が叫んだ。
「何者だ——!」
護衛の忍びが飛び出してきた。
堀の兵が忍びを斬り捨てた。
玄哲は取り押さえられ——そのまま縛られた。
「な、なにをする! いきなり乱暴ではないか! 上様は、このことをご存知なのか!」
堀は玄哲を冷たく見下ろした。
「上様のご命令だ」
「馬鹿な——そんなはずはない!」
玄哲はなおも喚いた。
「某は、九条様のご紹介で典医を務めておる身ぞ! こんなことをされて、九条様が黙っておられるはずがないぞ!」
堀は無言だった。
玄哲は縛られたまま、なおも喚き続けた。
「これは、某を陥れようとする者の仕業に違いない! 誰かが儂を妬み、讒言したのだ!」
堀は、その様子を冷めた目で見ていた。
(見苦しいものよ)
「連れて行け」
兵たちが、玄哲を引きずるようにして屋敷の外へ連れ出した。
玄哲の声は、遠ざかりながらも、まだ何かをわめき続けていた。
***
堀はそのまま、大急ぎで城の台所に向かった。
お志津は逃げる間もなく、捕縛された。
「な、なにをするのですか——!」
お志津は縄をかけられながら、必死に訴えた。
「違います、違うのです! 私は……私は、脅されていたのです!」
兵の一人が、お志津を無視して引き立てようとした。
「お聞きください——お願いです!」
お志津は、なおも叫んだ。
「玄哲様に——家族を殺すと、何度も脅されておりました! 従わねば、家の者を皆殺しにすると!」
堀が足を止めた。
お志津は、涙を流しながら続けた。
「先だっても——城を抜け出し、玄哲様のもとへ参りました。もうやめてくださいと、お願いに上がったのです。それでも——聞き入れてはいただけませんでした」
堀はお志津をしばらく見つめていた。
「その話——後で、詳しく聞かせてもらう」
お志津は、崩れ落ちるように泣き崩れた。
***
玄哲には、拷問が行われた。
しかし——裏で糸を引いている者については、最後まで口を割らなかった。知らされていなかったのかもしれない。
***
安土城。天主内の御座所。
堀は信長に報告した。
「典医と女中を捕縛しました。しかし——黒幕については、わかりませんでした」
信長は一言だけ言った。
「始末せよ」
信長は続けた。
「堺のあの医者に連絡しろ。治療をしてもらう」
堀は頭を下げた。
(また短い命令だ)
(しかし——毒は食い止めることができた)
***
堺。伊賀忍びの拠点。
藤林が通信機を取り出した。
「北沢司令、報告があります」
「北沢です。どうしましたか」
「安土から——九鬼嘉隆殿を通じて、薬屋に連絡がまいりました」
「織田殿からですね」
「村上先生に、織田様の治療を頼みたいとのことです」
藤林は話を続けた。
「それと、『いろいろ片付けておいた』という伝言つきでございました」
北沢はしばらく黙っていた。
(動いたか——しかも早い)
「どうされますか」
北沢は言った。
「『薬は遠くまで運ぶと——薬効が落ちてしまう。堺で治療させていただけないでしょうか』と、答えてほしい」
「なるほど——そのようにお返事いたします」
通信が切れた。
藤林はしばらく通信機を見つめていた。
(素早いことよ)




