第61話 伊賀の人々に危険が及ぶかもしれない
津田宗伴の屋敷。
その時——。
信長の顔色が、わずかに変わった。
眉間に深い皺が寄り——右手をそっと腹に当てた。
村上はすぐに気づいた。
「よろしければ——症状を見させていただけますか」
嘉隆が、慌てて口を開いた。
「いや、待て——しばし、動いてはならんぞ」
その声に、隣室の空気が変わった。
衣擦れの音。抜き足で近づいてくる、複数の気配。
隣の部屋に控えていた堀の、低い声が届いた。
「なにかあったようだ——行くぞ」
障子の向こうに、影が立った。
「——動くな」
信長の声が、部屋の空気を切った。
一言だけだった。それだけで、隣室の気配が、ぴたりと止まった。
「よい。村上殿に見てもらう。堀たちは控えておれ」
障子の向こうの影が、しばし迷うように揺れた。
やがて——静かに、気配が引いていった。
村上は、詰めていた息をそっと吐いた。
「では——失礼します」
村上は、ゆっくりと信長の前に膝をついた。
まず目を見た。
白目がわずかに黄みがかっていた。
「目に黄みがありますね。このような症状はいつ頃からですか」
「……だいぶ前からじゃ」
次に口の周りを確かめた。
唇の端に、わずかに黒ずんだ色素沈着があった。
「口の中に——焼けるような感覚があることはありますか」
「ある。食うた後——口の中が、妙に熱くなる」
「手を見せていただけますか」
信長が無言で手を差し出した。
手のひらに——点々と黒ずんだ色素沈着があった。
爪の横に、白い細い線が走っていた。
(これは——ミース線だ)
(間違いない——慢性砒素中毒だ)
「手や足にしびれを感じることはありますか」
「ある。近頃、力が入らぬことがある」
「腹痛は。突き刺さるような痛みが起きることは」
「ある。腹の具合も、近頃悪い」
「頭痛は」
「毎日のようにある」
「体重が——最近、減ってきたとお感じになりますか」
信長はしばらく間を置いた。
「そんな気がする」
村上は問診を続けた。
「最後に——一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか」
「申せ」
「以前と比べて——お気持ちが、乱れやすくなったと感じることはございますか」
信長はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「そう申す者はおる」
信長は言葉を切った。
「儂自身、そう思うこともないとは言えぬ」
村上は静かに顔を上げた。
(間違いない——慢性的な砒素中毒だ)
(しかも——かなり進んでいる)
村上は内心で素早く考え続けた。
この場で毒を盛られていると話せば——織田殿を廃そうとする勢力から、自分たちのことをいろいろ探られるだろう。
場合によっては、伊賀の人々に危険が及ぶかもしれない。
(とにかく——砒素中毒の話を、この場でするのはまずい)
この場には、九鬼殿も清兵衛殿もいる。隣の部屋には護衛の武士もいる。
どこから、どう漏れるかわからない。
(織田殿だけに見えるようにして、紙に書いた文字で伝えるしかない)
村上は内心を顔に出さず言った。
「疲れが溜まっておられるようにお見受けします」
信長の目が、わずかに動いた。
(疲れ、とな——)
唐瘡を、注射一つであっという間に治す腕を見せておきながら、いま口にしたのは、市井のどこにでもいる医者と同じ、ありふれた見立てだった。
(この者、なぜ急に——並の医者のような物言いをする)
あの神業のごとき治療をした男が、今さら「お疲れのようで」などと、当たり障りのないことを言う道理がない。
(何かを——隠しておるな)
信長は、村上の顔から一切の情報を読み取ろうとするように、じっと見据えた。
「であるか」
短い返答だった。
だが、その裏に「他に何を知っている」という問いが、はっきりと滲んでいた。
村上は、その視線を、力を込めて受け止めた。
「疲れの取れる対処法を、紙にお書きしてお渡しします」
信長はわずかに目を細めた。
(紙に書く、か。この場で言えぬ理由が、あるということだな)
しかし——何も言わなかった。
沈黙もまた、探りの一つだった。
「九鬼、紙と筆を用意してくれ」
「少々お待ちください。津田殿にもらってまいります」
***
嘉隆が急いで部屋を出た。
しばらくして——紙と筆が運ばれてきた。
村上は筆を取った。
「毒、調査」とだけ書いた。
墨が乾くのを待つ間も、心臓が鳴っていた。
(これで——伝わるだろうか。まさか、こやつを捕まえろとか、言わないですよね)
村上は、紙を折りたたむこともせず、そのまま信長に差し出した。
手が、わずかに震えていないか——自分でも気になった。
信長は紙を受け取った。
一瞬——目が鋭くなった。
しかし次の瞬間、何事もなかったように、紙を折りたたんだ。
(わざわざ紙に書いて渡した意味——わかってくれたようですね)
村上は、詰めていた息を、そっと吐いた。
肩に、いつの間にか力が入っていたことに——今さらながら気づいた。
無駄に強張っていた体が、ゆっくりとほどけていく。
それでようやく、自分がどれほど緊張していたかを、村上は思い知った。
信長は、なんでもなかったように言った。
「そうか。では——どうすべきかの」
村上は信長の目をまっすぐ見ながら、ゆっくりと言った。
「すぐに大事にはいたりません。ただし——食べ物、飲み物には、特にご留意ください」
信長は、表情ひとつ変えなかった。
だが、その目の奥に、これまでとは違う光が宿った。
(やはり、か)
「相わかった。心得ておこう」
しばし、沈黙が流れた。
「疲れがとれないときには、また診察してもらえるかの」
「いつでもお声がけください」
信長はしばらく黙っていた。
「わかった。安土にいったん戻ろう。また連絡をする。いろいろ助かる」
「お待ちしております」
信長は、ゆったりと立ち上がった。
その表情は——何も変わっていなかった。
村上は頭を下げた。
(信長という男——恐ろしいほど頭の切れる男だったな)
桐山も頭を下げながら、内心で考えていた。
(村上先生の機転で、次に繋げそうだ。北沢司令に——報告しなければ)




