第50話 遅効性の毒
伊勢。田丸城・天井裏。
城の一室に、蝋燭の光が揺れていた。
源次は天井の隙間に張り付いていた。下を覗き込む。
配下二名は気配を消し、周囲に散っていた。
三人とも——息一つ立てなかった。
(あいつか——伊賀に攻め込んだ馬鹿野郎は)
信雄が、行灯の前で胡座をかいていた。
その顔は、不満と怒りに歪んでいた。
「父上に認めてもらおうと、伊賀に攻め込んだのに——勝手なことをするなと怒られた。伊賀攻めは、おまえたちも賛成したではないか。どうしてくれる」
側近の津川義冬が頭を下げた。
「殿は悪くありません。伊賀攻めは——成功しました。村を半分以上焼き、逃げ散った者たちを山の中まで追い詰めました。本来なら殿の軍才を認めていただけるはずです。上様は、たまたまご機嫌が悪かっただけでございましょう」
「そちが言うとおりかもしれぬ。機嫌が悪かったのだろうな。伊賀の者どもを、もっと殺しておけば良かったのかもしれぬ」
信雄は続けた。
「逃げた者どもは、まだ山に潜んでいるのか」
「数百人は生き残っているかと思われます。しかし——食料もなく、冬を越えるのは難しいでしょう」
「伊賀の者どもが、儂に負けた理由がわかるか」
信雄は、にやりと笑った。
津川は答えられなかった。
「女子供を、先に押さえたからよ。最初の村でな」
「はい。それは存じておりますが——」
「伊賀国は忍びの国よ。忍びというのはな——下賤なくせに、仲間の結束が強い。獣みたいなものよ。ゆえに、人質の壁を作れば、手出しはできぬ。奴らの得意な——林や闇に隠れての罠仕掛けも、毒仕掛けも、人質が殺されるとなれば、迂闊に使えぬ」
信雄は続けた。
「儂は、死んだ人質を取り替えながら、次の村、また次の村へと攻め込んだ。伊賀者どもは、指をくわえて見ているしか、なかったというわけよ」
源次は天井の隙間から、その様子を見下ろしていた。
握りしめたクロスボウの柄に、知らず知らず力がこもっていた。
(人質を——盾に。それも、死ねば次の人質に取り替えながらだと……)
(おまえは、ただの人殺し野郎だ)
(こいつの歪んだ顔を見ていると、飛びかかって殺してやりたくなる)
「そうか。放っておけば死ぬか」
信雄は髪をかき上げた。
「戦は勝てばいい。強い者に、皆は頭を垂れる。なあ、そうであろう津川よ」
津川の背筋が、冷たくなった。
(確かに、その戦い方は強い。だが——恥を知る武士は、絶対にやらぬ戦い方だ。こういうところを、上様は嫌っておられるのかもしれぬ)
津川は、何も言えなかった。
「それにしても——上様は信雄様に少々冷たうございますな。羽柴様も、同じことをおっしゃっておられましたぞ」
信雄の目が光った。
「そうか、秀吉が、そう言っておったか」
「はい。信忠様より、殿の方がずっとご優秀だと」
「そうだろう! わかる者にはわかるはずよ」
信雄は腕を組んだ。
「そう言えば羽柴は——父上はお病気かもしれないとも言っていたな。何の病気だろうか。ここ最近、特に機嫌が悪い気がするが、病気のせいなのか」
津川は答えた。
「詳しくはわかりませんが——確かに、ここ最近のお振る舞いは、以前とは違うと聞いております」
「そうか——」
信雄は少し間を置いた。
「そういえば——伊賀で捕まえてきた娘はどうした」
津川の表情が曇った。
「舌を噛んで死んでしまいました。殿、あまり無体なことはお止めください」
「なんだ、つまらぬ」
信雄は欠伸をした。
天井の隙間で——源次の手が、クロスボウに伸びた。
(この距離なら——一発で射抜ける)
しかし――。
(北沢司令から、命は大事にしろと言われたからな)
源次はクロスボウから手を引いた。
(今は——情報収集が優先だ)
(しかし——こんな男に、間違っても精強な織田軍団の当主を継がせてはならない)
***
安土城・台所。
甚兵衛は梁の上に張り付いていた。
左右に散った配下二名も、すでに気配を消している。
三人とも——息一つ立てなかった。
(やれやれ——警備が厳しいこと)
安土城の警備は並ではなかった。
しかし——台所だけは、料理人たちの出入りが多く、比較的警備が緩かった。
下では料理人たちが、慌ただしく夕餉の支度をしていた。
かまどの火が燃え、湯気が立ち上っていた。
出来上がった料理から順に、膳に盛り付けられていく。
御次の女房衆が、次々と膳を運び出していった。
(台所なんかに忍び込んでも、得るものはないか)
甚兵衛は目を凝らした。
その時——一人の女に目が止まった。
(あいつ――)
甚兵衛はすぐにわかった。
(忍びだ)
動き方が違う。足音の消し方が違う。
一見すると普通の女中に見えるが——体の重心の置き方が、まるで違う。
(なぜ忍びが、こんなところに)
甚兵衛は全神経を集中させた。
(気配を消せ——こいつに気づかれたら、生きては帰れない)
(北沢司令から——命は大事にしろと……)
(それにしても、今まで一度も言われたことのない言葉だった。うれしかった)
甚兵衛は息を殺した。
忍びらしき女中は、誰にも気づかれないように——懐から小さな袋を取り出した。
上品そうな若い女中に近寄り、そっと手渡した。
(毒か——)
甚兵衛は目を細めた。
(だが、即効性の毒なら——その場で盛られた相手が倒れる。あの女中はその場で斬り殺されるだろう。そんな危ないことはしないはずだ)
(ならば——遅効性の毒か。少しずつ、時間をかけて体を蝕む毒——)
上品な女中は何事もなかったように、膳の前にしゃがんだ。
(誰の膳だろう。ずいぶん立派な器を使っている——身分の高い者の膳だな)
女は周りを気にしつつ、袖に隠しながら袋の中身を椀物の一つに入れた。
その時、女中頭が小声で言った。
「お志津、それは上様の御膳です。くれぐれも粗相のないようにね。首が飛ぶのはあなただけではないのですから」
(お志津——)
甚兵衛は名前を頭に刻んだ。
(織田様の御膳に——遅効性の毒が盛られている)
(これは——北沢司令に急ぎ報告しなければならない)
***
堺港。
弥助は見物人の群れに紛れ込んでいた。
(篝火に九鬼の船が照らされて、これはこれで中々の風景だな)
堺港に、大小の船が並んでいた。
篝火の光が、水面に揺れていた。
弥助は目立たぬように、港を歩き回った。
(鉄板を張った船は——一隻も見当たらないな)
安宅船、関船——どれも普通に木造だった。
(では、少し耳を澄ませるか)
弥助は気配を消し、桟橋の陰に腰を下ろした。
配下二名は、荷運びの人足に紛れて、さりげなく周囲を見張っていた。
篝火の揺れる中——近くの船の甲板から、海賊衆たちの会話が聞こえてきた。
「おい、鉄甲船は間に合わなかったそうだぞ」
「やっぱりか。前回の村上との海戦では——一方的にやられたんだよな」
「大将が上様に、鉄甲船を作りますから、次回は絶対に負けませんと大口叩いたんだろ。莫大な銭を使っておいて、肝心な時に間に合わないなんて——」
「そうなんだ。大丈夫なのか、九鬼は」
「大丈夫なわけないだろ。負けたら殿は切腹だ」
「殿の切腹で済めばいいが。一族郎党まで打首になりかねんぞ」
しばらく沈黙があった。
「なあ、逃げるか」
「馬鹿言え。下っ端は大丈夫だろ。上の連中だけだよ、死ぬのは」
「そうか——そうだよな」
「そうだよ。俺たちゃ関係ない」
弥助は静かに立ち上がった。
(なんだこの会話は——)
思わず笑いそうになるのをこらえた。
(しかし——これは急ぎ報告しなければならない)
(九鬼水軍に鉄甲船はない。そして士気は——相当に低い)




