第41話 両方が敵になって、日本は勝てるのですか
連合艦隊・司令部。
伊藤から報告を受けた豊田の顔が、みるみる赤くなっていった。
「総理が、官邸が——北沢司令を売ったというのか」
こめかみに、青筋が浮いていた。
「拘束した伊四百型と伊四百一型の艦長の話では、アメリカと非公式な取引があったようです。アメリカの資源提供と、東アジアの盟主の地位と引き換えに——わだつみ独立艦隊をアメリカに引き渡すことになったと」
豊田は、拳をテーブルに叩きつけた。
「恩を仇で返すとは、このことだ!」
荒い息を、一つ吐いた。それから、絞り出すように言った。
「北沢司令たちが、なにをしてくれたか、わかっているのか」
豊田は、語気を強めて続けた。
「東京を守り、戦艦大和を救い、原爆を止めてくれた。どうにもならない状況の日本を、アメリカとの交渉の場まで、連れてきてくれたのだ。その大恩人を——アメリカに売り渡すとは」
「米内大臣はご存知だったのでしょうか」
豊田は少し間を置いた。
「米内大臣が知っていたとは思えん。まず直接確認する」
伊藤が強く言った。
「豊田司令長官——海軍の有志は、少なくとも私は、北沢司令を見捨てません。ご判断をお待ちしています」
豊田は窓の外を見た。
(北沢司令——申し訳ない)
***
霞が関。海軍省。
豊田は、日吉から大急ぎで霞が関の海軍省に向かった。
米内の執務室に入るなり、豊田は言った。
「米内大臣、わだつみ独立艦隊をアメリカに引き渡すという話をご存知でしたか」
米内は穏やかに答えた。
「閣議には、私も参加していた」
豊田は一瞬、言葉を失った。
「参加されていて——なぜ抗議されなかったのですか」
米内は窓の外を見た。
「落ち着け、豊田。話を聞け」
「アメリカの提案した資源提供や、東アジアの盟主の地位など——私も信じてはおらん」
米内は話を続けた。
「しかし——アメリカが停戦してくれるというなら、乗るしかない。わだつみ独立艦隊は日本の恩人だ。だが——瀕死の日本を救うために、犠牲になってもらうしかないと判断した」
豊田は拳を握りしめた。
「貴様だって、わかっているはずだ。わだつみ独立艦隊が一緒に戦ってくれたとしても——資源のない日本が、あのアメリカの物量に勝てるとは思っていないだろう」
「そ、それは——」
豊田は歯を食いしばった。
「我らは軍人です。武人は受けた恩を仇で返すことはできません」
「豊田、日本国民のためだぞ」
しばらく沈黙があった。
「話の筋はわかります。しかし——アメリカに引き渡された北沢司令たちはどうなりますか。身の保証は」
米内は一瞬、黙った。
それから、苦しげに言った。
「だがな——すでに、わだつみ独立艦隊は、伊四百と伊四百一によって拘束されているはずだ」
「いいえ」
伊藤が答えた。
「拘束されたのは、艦長の方です。乗員たちが、艦長の命令を拒み、逆に取り押さえました」
「なんだって」
「わだつみ独立艦隊は今、伊藤中将のいる戦艦大和に向かっています」
「では——伊藤に拘束命令を出せ」
豊田は首を振った。
「再び、海軍を信じてくれた彼らを——また裏切るのですか。そんなことはできません」
米内は豊田を見た。
「できないとは——」
「私は辞職します。伊藤も辞職するでしょう。有賀も、梶原も——みんなそうするはずです」
米内は立ち上がった。
「待て。そんなことをされたら海軍は——」
「それでも——できないものは、できません。それに——北沢司令たちが、二度も同じ手にひっかかってくれるとは思えません。このままでは、日本は、わだつみ独立艦隊とアメリカの、両方を敵に回すことになります」
米内はしばらく黙っていた。
やがて言った。
「わかった。早まるな。もう一度、総理と話し合う」
豊田は頷いた。
(米内大臣は、本当に動いてくれるのだろうか——)
***
総理官邸・閣議室。
豊田から話を聞いた米内は、翌朝、総理に閣議の緊急開催を求めた。
鈴木は渋い顔をしたが——断れなかった。
閣議室に閣僚たちが揃うと、鈴木が米内の方を見て口を開いた。
「米内君、アメリカからの提案——資源の提供、東アジアの盟主の地位。これは日本にとって千載一遇の好機だ。一体何が問題だというのだ」
石渡大蔵大臣が続いた。
「その通りです。戦費はすでに底をついています。一刻も早く停戦を実現していただかなければ——」
阿南陸軍大臣が身を乗り出した。
「東アジアの盟主の地位を約束されるのであれば——あとは陸軍にお任せください。アジアの安定は陸軍が担います」
米内海軍大臣が静かに言った。
「一つ確認させてください。わだつみ独立艦隊をアメリカに引き渡すとして——彼らの身の保証はどうなりますか」
鈴木は少し間を置いた。
「申し訳ないが——日本国のために犠牲になっていただくしかない。それは前の閣議で述べたとおりだ。北沢も軍人だ。日本のために身を投げ出す覚悟はあるはずだ」
米内は、はっきりと答えた。
「総理——伊四百と伊四百一によるわだつみ独立艦隊の拘束は、失敗しています」
閣議室が静まり返った。
「なんだと」
「乗員たちが艦長の命令を拒否しました。わだつみ独立艦隊は今——伊藤中将のいる戦艦大和に向かっています」
「彼らは、我らに敵対するのだろうか」
「敵対はしていません。しかし——警戒はしているかもしれませんが」
阿南が口を挟んだ。
「であれば伊藤中将に拘束命令を出せばいいではないか。うまく拘束してくれるだろう」
米内は首を振った。
「そんなことを命令すれば——海軍の主要な者が辞職してしまいます。豊田司令長官、梶原長官、伊藤中将——彼らにとってわだつみ独立艦隊は恩人なのですから。いえ——日本国にとっての恩人ではないですか」
「米内大臣——」
「東京大空襲を止めてくれたのも、戦艦大和を救ってくれたのも、原爆をテニアン島に持ち込もうとするのを阻止してくれたのも——わだつみ独立艦隊です。それに、アメリカは、停戦交渉の裏側で、原爆計画を継続していたのですよ」
鈴木は声を荒げて言った。
「だからこそ——彼らをアメリカに早く引き渡さなければならないんだよ。アメリカが停戦に応じてくれるのは今だけかもしれない」
米内は重い口調で言った。
「一つ聞かせてください。彼らも、今回のことで警戒しています。もし、こちらが次に何か仕掛けようものなら——前回のような手は、通用しないはずです。その結果——わだつみ独立艦隊とアメリカ軍、両方を敵に回すことになりますが、日本は勝てるのですか」
閣議室が静まり返った。
阿南が低い声で言った。
「それは——」
鈴木は頭を抱えた。
「じゃあ——どうするんだ」
東郷が言った。
「停戦交渉は続けるべきです。しかしわだつみ独立艦隊を引き渡すかどうかは——もう少し時間をかけて判断しては」
「先送りする時間はないのだよ、東郷君」
「それでも——性急な判断が、取り返しのつかない事態を招くこともあります」
しばらく沈黙があった。
結論は出なかった。
翌日も、同じような会議が開かれた。
その次の日も——。
無意味な議論が、続いた。
時間だけが、過ぎていった。




