第3話 静かな怒り
黒岩邸・書斎。
葬儀の翌日から、黒岩は書斎に閉じこもっていた。
三日間、誰とも会わなかった。食事も取らなかった。
ただ窓の外の曇り空を眺め続けた。
最初の一日は、ただ泣いていた。
六歳のさくら。義明。千恵子。三人の顔が、交互に浮かんでは消えた。
二日目から、涙が止まった。
代わりに、重い何かが胃の底に沈んでいった。
十一月十九日の夜、黒岩は初めて立ち上がり、書斎の窓を開けた。
冷たい雨が降っていた。
(政府は、何もしなかった)
いや、違う。
黒岩は首を振った。
(国民も、何もしなかった。選挙のたびに同じ顔を選び、同じ言葉を聞かされ、何も変わらなくても許し続けた)
そこまで考えて、黒岩は自分を嗤った。
他人事のように語っている自分に、気づいたからだった。
(一番ダメなのは、自分だ)
黒岩鉄太郎。KIホールディングス会長。日本有数の財閥を率いる男。
政界にも官界にも顔が利く。資金力もある。人脈もある。
ロビー活動だってできた。
資金を投入すれば、自分の息のかかった政党が作れたかもしれない。
与党の政策グループを動かすことだって、できたかもしれない。
それをしなかった。
面倒だったからではない。
リスクを恐れたからでもない。
(どこかで、他の誰かがやってくれると思っていたからだ)
その「誰か」は、ついに現れなかった。
(当たり前だ。自分がその誰かに一番近い人間だったじゃないか!)
「今日は仕事があるからな」
十月に交わした、さくらとの何気ない会話が、耳の奥で蘇った。
たった一晩、泊まってやればよかった。
たった一度、仕事を後回しにすればよかった。
だがそんな後悔は、もう何の意味も持たない。
時間はもう、戻らない。
その間に、さくらが死んだ。義明が死んだ。千恵子が死んだ。
(自分が動けばよかったのだ。もっと早く)
怒りは政府に向いていた。しかし最後には、必ず自分に戻ってきた。
それが三日間、繰り返された。
***
書斎の壁には一枚の地図が掛かっていた。
日本列島。そのすぐ南、紀伊半島の先端からさらに沖へ視線を移すと、小さな点がある。KI重工の研究所がある無人島だった。
黒岩はその小さな島をじっと見つめた。
やはり、あの地下ドックだ。
資金はある。技術者も集められる。
北沢に声をかければ、乗組員の目処も立つ。
深海探査事業を隠れ蓑として、誰にも気づかれずにことを進めることができる。
さくらの顔が浮かんだ。義明の顔が浮かんだ。千恵子の顔が浮かんだ。
黒岩は立ち上がった。
誰かがやるのを待つのは、もう終わりだ。
自分が動けばいい。
***
十一月二十日の朝。
黒岩邸・書斎。
秘書の江川が恐る恐る扉を開けると、老人は机に向かって何かを書いていた。
「総帥、少しお食事を——」
「ああ」
黒岩は振り返りもせずに言った。
声に生気が戻っていた。
表情が変わっていた。
怒りでも悲しみでもない。
もっと硬質な何かが、老人の顔に刻まれていた。
「パンと珈琲を頼む。それから財務の鶴田と、重工の橘も呼んでくれ」
「はい」
「それと——」
黒岩は振り返った。眼光が鋭かった。
「北沢も呼んでくれるか」
江川は何も言わず、頭を下げた。
声のトーンだけで、何かが変わったことがわかった。
***
十一月二十三日。
黒岩邸・書斎。
黒岩邸の書斎に四人の男が集まった。
一人は鶴田英二、六十一歳。黒岩が会長職を継いだとき、まだ若手の経理マンだった。黒岩の経営者人生と、ほぼ同じ長さを共に歩んできた男だ。
黒岩が無茶な経営判断を下すたびに、鶴田は眉一つ動かさず、数字を組み直した。
一度だけ「総帥、これは無謀です」と言ったことがある。
黒岩が押し切ると、その夜から黙って計算し始めた。
そういう男だった。
一人は橘一郎、五十八歳。派手さとは無縁の男だった。
KI重工に入社後は開発畑を歩み、コツコツと技術を積み上げてきた。
温和で大きな声を出さない。
ただ、誰よりも早く現場に来て、誰よりも遅く帰る。
いつの間にか、そういう背中にひとが集まっていた。
不可能と言われた深海探査船の建造を、三度も成し遂げた。
「できません」という言葉を、黒岩はこの男から一度も聞いたことがなかった。
そして北沢孝雄、六十二歳。
元海上幕僚長。
黒岩は単刀直入に言った。
「原子力潜水艦を二隻、作れないだろうか」
三人が黙った。
「場所は熊野灘のあの島だ。地下ドックはすでにある。深海資源探査の精製プラントとして三年前に掘った。今すぐ転用できるはずだ。表向きは今まで通り資源探査の研究所だ。原潜の建造には、誰も気づかないはずだ」
北沢がすかさず確認する。
「総帥、それは——国を通さずに、ということですか」
「それは後で説明する」
再び三人が黙った。
総帥の意図を、誰も測りかねていた。




