第2話 地下ドック
熊野灘の無人島。
KIホールディングス傘下・KI重工のビジネスとして三年前に取得した土地だった。
紀伊半島の南端から沖へ十数キロ。リアス式海岸が刻む入り組んだ岩礁の中に、その島はひっそりと浮かんでいた。
黒潮が運ぶ水は青黒く、透明度が高い。
晴れた日には海底の岩肌まで見通せるほどだ。周囲には人影がない。
漁船すら滅多に近づかない。島を囲む岩礁が、天然の障壁になっていた。
人目を避けるには、これ以上ない場所だった。
日本の排他的経済水域には、海底熱水鉱床やレアアース泥など、三百兆円とも言われる資源が眠っている。
それを採掘・回収するための技術開発——深海資源探査事業は、エネルギー安全保障の観点からも国が力を入れている分野だった。
島には白い研究棟が建ち並び、深海探査船が岸壁に係留されていた。
本物の事業だった。
だがこの島には、政府も視察団も知らない、もう一つの目的があった。
島には地下ドックが掘ってある。表向きは、採取したレアアース泥を化学処理し、金属として抽出するための精製プラントだった。
政府の視察団も、そう説明を受けて帰っていった。
補助金も毎年入ってきた。誰も疑わなかった。
しかしその規模は、精製プラントとしては明らかにおかしかった。
天井高は三十メートル。横幅は百メートルを超える。
反応槽も薬液タンクも、その広さに見合うものではない。
巨大な空洞が、島の地下にひっそりと口を開けていた。
深海探査艇を収容するためだと説明してある。
それでも深海探査艇など、その十分の一のスペースがあれば十分だ。
海底トンネルが外海に続いている。
深海探査艇は、水中から出入りできる構造になっている。
(ここならできる)
黒岩はその空洞を初めて見たとき、そう確信した。
設計図はまだ、精製プラントのものだった。
だが黒岩は、その段階からすでに、別の用途を思い描いて掘らせていた。
言葉にすれば、自分が何者であるかを認めることになる。
だから、黙っていた。
地下ドックを掘ることも。海底トンネルを通すことも。
島の底に巨大な空洞を作ることも——深海探査の施設として、法的には何の問題もない。
視察団が来れば案内するし、補助金の報告書も出す。
普通の経営者として、普通の事業をしているだけだ。
そこまでは、まだ引き返せる。
その先には、一線があった。
そこから先に進むには、黒岩自身の口で、自分の意志として、誰かに告げなければならないことがあった。
黒岩はまだ、それを飲み込んでいた。
(言えば、もう戻れない)
しかし——その日が来ることを、この老人はどこかで知っていた。
不安ではなかった。予感だった。
小さく、しかし消えることのない、確かな予感が。
***
東京・長男・義明の自宅。
十月の終わり、黒岩は長男・義明の家を訪れた。
六歳になったさくらが、玄関まで走って出てきた。
「おじいちゃん!」
黒岩は思わず顔を緩めた。
この子の前でだけ、自分は会長でも経営者でもなく、ただの祖父になれる気がした。
「さくら、また大きくなったな」
「うん! おじいちゃん、今日は泊まっていくの?」
「今日は仕事があるからな」
さくらは少し唇を尖らせた。
それからすぐに笑って、黒岩の手を引いた。
居間では、息子の義明と妻の千恵子が夕食の準備をしていた。
穏やかな匂いがした。醤油と出汁の、日本の家庭の匂いだった。
帰り際、玄関でさくらがまた駆けてきた。
「おじいちゃん、またね」
「ああ、またな」
黒岩は車に乗りながら、その小さな手を振る姿を見ていた。
(この子が生きていく国を、ちゃんと残してやらなければならない)
***
それから三週間が経った。
十一月十六日、土曜日。朝。
黒岩は経営者仲間との定例ゴルフに出ていた。
三ヶ月に一度、気心の知れた仲間内で続けている集まりだった。
ラウンドを終えて、クラブハウスでビジネスの話で盛り上がっていた。
クラブハウスの客がざわざわしている。
「ショッピングセンターで爆発だって——こんなのが多いな」
なぜか気になり、黒岩はテレビの方を向いた。
大型テレビが、現場の映像を映し出していた。
白煙の中、救急隊員が走っていた。担架が次々と運ばれていく。
カメラが寄った。
アスファルトの上に、若い母親が座り込んでいた。
膝の上に、小さな子供を抱えている。
子供の額から血が流れていた。
母親は子供の名前を呼び続けていた。
何度も、何度も。子供は、動かなかった。
母親の口が動いているのはわかった。
テレビの音声は、アナウンサーの声にかき消されていた。
「死者は現時点で十二名。負傷者は五十名を超えるとみられ——犯人グループは国籍不明の——」
黒岩はテレビに釘付けになっていた。
母親の口の動きだけが、目に焼きついて離れなかった。
今日は義明の家族が、来春小学校に上がるさくらのランドセルを買いに、三人でショッピングセンターに出かけると言っていた。
(まさか)
考えたくない考えが、頭をよぎった。
スマートフォンが震えた。
知らない番号だった。
「黒岩さんですか。警察の者です。義明さんのお名前で登録されていたご連絡先に——」
そこから先は、よく聞こえなかった。
耳の奥で、さくらの声だけが響いていた。
おじいちゃん、またね——。




