第1話 静かな毒
二〇XX年。
世界はかつて経験したことのない奇妙な静けさの中にあった。
戦争と呼べる規模の衝突はない。しかし平和でもない。
火薬の匂いと怒声の代わりに、見えない毒が空気に満ちていた。
フェイクニュース、ハッキング、経済封鎖、代理武装勢力への資金供与——それらを人々は「認知戦」と呼んだ。
弾丸は飛ばないが、ひとの心が撃ち抜かれていく。
国が内側から溶けていく。
世界は四つの巨大な軍事・経済ブロックに割れていた。
アメリカがモンロー主義を復活させ、カナダから南米まで囲い込んだ。
西半球共同体の誕生だった。
NATOが形骸化した後、ロシアのエネルギーとドイツの工業力が結びついたユーラシア同盟が生まれた。
中国は一帯一路を完成させ、東南アジアを経済的に飲み込み、アジア共同体の盟主に収まった。
原油・レアメタル・人口の三つを武器に、中東・アフリカ・インドが連携した南方資源共同体が台頭した。
日本はどこまでもアメリカに追従しようとした。しかし捨てられた。
結果、どこにも属せなかった。
四つのブロックはそれぞれ、日本の技術力だけを欲しがった。
日本が真の軍事力を持つことは、誰も望まなかった。
飼い犬が牙を持つことを、主人は好まない。
地政学的な宙吊り状態。それが、この国の現実だった。
そして日本は、内側から静かに壊れ始めていた。
急激な人口流入。行政サービスの逼迫。
言語の壁がもたらす隣人との軋轢。
外国人比率が二十パーセントを超えた都市から、順番に何かが失われていった。
治安の悪化だけではない。
もっと根深い何かが——かつて日本の強さの源泉だった「均質性」が、ゆっくりと崩れていった。
見知らぬ他人に財布を届けてもらえる国。互いを信頼できる社会。
学者たちは「社会的信頼」と呼んでいた。
その信頼が、音もなく、しかし確実に溶けていった。
後から振り返れば、それは偶然ではなかった。
日本の均質性を壊すことで、強力な国家意志を持てなくさせる——そのような意図が存在していた。
***
黒岩鉄太郎・会長室。
黒岩鉄太郎は窓の外を見ていた。
東京・KIホールディングス本社。最上階の会長室。
眼下に広がる東京の夜景は、相変わらず美しかった。
しかしこの光の一つひとつの下で、なにかが少しずつ壊れていることを、この老人は知っていた。
六十六歳。KIホールディングスの会長として二十五年。
日本の産業を支え、雇用を守り、技術を磨いてきた。
だがこの国は、このままで本当に大丈夫なのか。
黒岩は感傷的な人間ではなかった。数字で考え、現実で動く。
それが、これまで身につけた経営者の習性だった。
しかし最近、数字では測れない、なにかが胃の底に重く沈んでいた。
扉がノックされた。
「北沢さんがお見えです」
秘書の江川が告げた。
「通してくれ」
北沢孝雄が入ってきた。六十二歳。元海上幕僚長。
一年前に制服を脱いだ今も、その立ち姿には軍人の芯が残っていた。
KIホールディングスの顧問という肩書きこそ形式的なものだったが、黒岩が最も信頼を置く男の一人だった。
「総帥、例の件ですが」
北沢はソファに腰を下ろすことなく、立ったまま言った。
昔からそういう男だった。
座って話すより、立って話す方が、考えが整理できると言っていた。
「先週、横須賀の居酒屋で刺傷事件がありました。被害者は二十代の自衛官です。加害者は国籍不明の外国人グループ。動機は些細なトラブルだったようです」
「ニュースにはなっていないですね」
「そうです。自衛官が被害者だからでしょう。報道が萎縮している」
黒岩は黙って夜景を見た。
(また、か)
ここ一年で、似たような話を何度聞いたことか。
駅のホームでの暴行。
公園での集団窃盗。
住宅街での夜間騒音トラブルが発展した傷害事件。
どれもニュースになった頃には、加害者の国籍が曖昧にぼかされていた。
「その自衛官は、今どうしている」
「軽傷で済みました。ただ——」
北沢は少し間を置いた。
「その若者は、もう辞めると言っていたそうです」
北沢は言葉を選びながら続けた。
「自衛官は狙いやすい標的になっています。職務外では丸腰だし、反撃すれば今度は自分が叩かれる。加害者側はそれを知っている。あるいは——知らされている」
「知らされている——ですか」
「偶発的なトラブルにしては、似たような事案が多すぎます。自衛官、警察官、教員——この国の背骨になる人間が、じわじわと削られています。守るべき国が、守ってくれなかったと、その若者は言っていました」
黒岩は目を細めた。
(守るべき国が、守ってくれない。か)
「北沢、お前はどう思う」
北沢はまっすぐ黒岩を見た。
「このままでは、自衛隊から人が逃げます。優秀な人間ほど、先に見切りをつける。国を守る意志のある人間が報われなければ、守る意志のない人間だけが残る国になる。それが一番怖い」
二人はしばらく黙っていた。
窓の外の光が、いつもより少し遠く見えた。




