第117話 信忠——お前がやりたいようにやれ
安土城・信長を監禁中の部屋。
光秀は静かに頭を下げた。
「上様——考えを改めていただきましたでしょうか」
信長は窓の外を見たまま答えた。
「何回も同じことを言いに来るな。それに——もう上様でもなかろう」
「いえ——某にとって上様であることに変わりはありません。ですので、見張りは付けておりますが——決して粗略になど扱っておりません」
信長は振り返った。
「信忠はどうした」
「すっかり回復されておられます。ご安心ください」
信長はしばらく黙っていた。
「光秀よ、お前はこの国をどうしたいのだ」
光秀は口を開いた。
「武をもって、この国を統一し、戦のない世を作る——それを上様が実現されました。まことに、すばらしき偉業でございます。ですが、その後のなさり様には——某、どうしてもついていけぬのです」
「聞こう」
「上様から南蛮の脅威についてお聞きし——某も、まさにそのとおりだと存じました。ですが——信忠様を新たな権力の中枢に据えるためだけに、この国の仕組みをすべて改める必要が、本当にございましょうか。今の仕組みのまま、征夷大将軍になっていただき、織田幕府を開かれれば、それでよろしいのではございませんか」
光秀の声が——わずかに震えた。
「古くから、そういう形にて、この国は続いてきたのです。なぜ、これまで続いてきた伝統を、いとも簡単に捨て去ろうとされるのですか」
光秀は続けた。
「南蛮の脅威に備えるのは理解できますが——いきなり宣教師を追い出したり、大きな軍船を作ったり。不用意に南蛮を刺激するのは、いかがかと思います。堺や博多の商人衆からも苦情が届いております」
「続けよ」
「某のもとには——公家衆、旧幕臣衆、臣従された有力大名衆から、上様のなさり様を心配する声が、毎日のように届いております」
信長は小さく笑った。
「そんな奴らの言葉に引きずられたのか——情けなきことよ」
光秀は頭を下げた。
「決してそうではありません——このままでは、再び天下が乱れることを心配しておるのです」
光秀は続けた。
「織田幕府をお作りなさいませ。古きより続く仕組みを、壊されるのはおやめください。さすれば——不安を抱く者たちも安心するはずです」
「それだけか」
「そうしていただけるのであれば——この身、いかような処罰も受けましょう」
「信忠にも同じようなことを言っておるのだな」
「もちろんでございます」
「信忠はなんと」
「聡明なる信忠様は、某の考えに賛同いただいております。すでに朝廷には征夷大将軍の内諾を得ております。上様には、太政大臣はいかがかと——」
部屋が静かになった。
信長はしばらく天井を見上げていた。
「信忠をここに連れてきてくれぬか」
「しばらくお待ちください」
***
光秀が部屋から出ていった。
しばらくして、光秀とともに信忠が部屋に入ってきた。
「上様、ご無事でしたか」
「見てのとおりじゃ」
「そちの傷の具合はどうじゃ」
「すっかり治りましてございます」
「そうか。肝心なことを確認するぞ。その方は征夷大将軍になりたいのか」
「なりたいわけではありません。上様の偉業をもちまして、この国のすべての大名は、織田家の武力にひれ伏し臣従しました。しかし、未だに、公家や寺社といった勢力は健在。また、織田家の武将たちでさえ、古き体制を望むものが多く——」
信忠は続けた。
「上様の目指す新しき世を作ろうとすれば、これから先、何度も戦を繰り返すことになるでしょう。この国の民が望むものは、戦のない世です」
「それが光秀と話して決めた結論というわけか」
しばしの間を置いて、信長は重い口調で告げた。
「わかった。信忠——お前がやりたいようにやれ」
二人は目を見開いた。
「上様——よろしいのですか」
「だが約束しろ。天下統一の大恩人である北沢殿たちには手を出すな」
「その点については、一つお詫び申し上げなければなりません」
信長の表情が険しくなった。
「どういうことじゃ」
「上様が安土城に幽閉されたことを聞きつけ、有岡城の戦いで負けた者たちが、徒党を組んで伊賀に攻め込んでしまいました。しかし今後は、二度とこのようなことがないようにいたします。伊賀の者どもには迷惑料も払いまする」
(こんな二人で、この国をまとめていけるのか)
「伊賀も、有岡城も、由良湊も儂が北沢殿に渡したものだぞ」
「わかっておりまする。以後このようなことは誓ってさせませぬ」
「そうか」
「それと、報告がございます。海神丸が戻ってきました。揉め事が起きぬよう、九鬼水軍に命じて、由良湊から紀州沖に出ていっていただきました」
「攻撃させたのか」
「いいえ、そのようなことは——いかがするべきか、上様のお考えを」
信長は二人を見据えて言った。
「信忠、光秀——こうせぬか」
「はっ」
「儂は隠居する。隠居場所は由良湊とする。隠居料として紀伊、伊勢、志摩、伊賀と堺をよこせ。そしてその地は永代、どの大名にも手出しをさせないことを、幕府が約束させよ」
「わかりました。この信忠、将軍としてお約束いたします」
「それと、北沢殿が作ろうとする新たな国と、由良湊とで交易することを認めよ。また、北沢殿がお作りになった大型船は由良湊に戻せ」
「もちろん認めます。また、大型船もお戻しします。北沢殿はこの国の恩人ですから」
「儂からは、それだけじゃ」
信忠と光秀は、同じことを思っていた——あんなに苦労して統一された天下を、なぜあっさりと手放されるのか、と。
やがて——二人は頭を下げた。
「上様の仰せのとおりにいたします」
「信忠、幕府はどうするのじゃ」
「幕府の本拠地は、本願寺跡地に難攻不落な巨城を作ります。南蛮との交易は、九州の平戸のみを窓口として、幕府の監視のもと再開します。それ以外の場所については、宣教師も含め外国人の出入りは禁止とします」
「そうか」
(旧体制を抱えたまま、この国を作り変えることなどできるはずがない)
(新たなる仕組みは、破壊の上にしか存在しないことがわからないのか)
信忠と光秀は顔を見合わせ、安心したような表情を浮かべた。
二人が出ていった。
部屋が——静かになった。
信長は窓の外を見た。
(この国は——どうなるのだろうか。足利幕府の二の舞にならなければいいが)
(弱き国が、生きていけるほど、世界は甘くはないぞ)




