第10話 引き金を引かなかった
官邸・執務室。
江崎総理は閣僚たちを見渡した。声が震えていた。
「西村君、海上自衛隊に命令してくれ。原潜を魚雷で撃沈せよ、と」
執務室が凍りついた。
西村防衛大臣が立ち上がった。
「総理、正気ですか。あの原潜は——日本の希望ではないですか」
桐島外務大臣の声が震えていた。
「命を懸けて立ち上がってくれた人たちを、我々が沈める。外務大臣として、世界にそれをどう説明しろと。私にはできません——」
佐伯経産大臣が冷静に続けた。
「総理、一度この決断をすれば、前例ができます。日本は核で脅せば言いなりになる国だと、世界中が学ぶ。次の要求は、もっと理不尽なものになります」
永田国交大臣が言った。
「総理——本当にそれが、国民を守ることになるのですか」
江崎総理は目を閉じた。
(そんなことは、わかっている。しかし——核のボタンに手をかけた国を相手に、私にできることなど何もない)
「国民を守るためだ——やるしかない」
絞り出した声は小さかった。
総理の声というより、追い詰められた一人の人間の声だった。
「坂本に命令を出してくれ」
***
相模湾沖・海自艦艇。
潜水艦を含む海自艦艇が、大和と武蔵を完全に包囲していた。
坂本海上幕僚長からの命令文が、潜水艦各艦に向けて発せられた。
「官邸からの命令だ。大和と武蔵に対し、魚雷攻撃を実施することが決定した。攻撃合図を待て。これより、最後の投降勧告行う」
大和の発令所に、坂本からの通信が入った。
「北沢先輩、最後の勧告となります。今すぐ投降してください。応じない場合、五分後に魚雷攻撃を開始します」
北沢は静かに答えた。
「坂本、お前も分かっているはずだ。今ここで投降すれば、この原潜はあの国に渡るのだぞ。この国の未来はないぞ。それでいいのか」
「……総理の命令です、先輩」
坂本の声が、わずかに揺れていた。
「五分、待ちます。お願いします」
通信が切れた。
***
相模湾沖・大和発令所。
田村が北沢を見た。
「どうしますか」
「待つ。五分間、日本を信じる」
発令所に、重い沈黙が落ちた。
(包囲を突破できなくはない)
(レールガンで包囲艦を無力化し、CIWSで魚雷を迎撃する。技術的には、できる)
(しかし——)
北沢は、発令所から全員を見渡した。
田村。橘。松永。早川。鶴田。そして全乗組員たち。
みんな、黙って北沢を見ていた。
(この者たちは、自分の判断一つで死ぬことになる。すでに自分の覚悟は決まっている。だが、この命たちを道連れにしていいのか)
北沢は目を閉じた。
田村が近づいてきた。
「司令」
「……田村」
「みんな——覚悟は、できています」
北沢は田村を見た。
「この艦に乗り込んだ日から、全員わかっていました。命を懸けてやっている。それは最初から同じです。司令が気にすることは何もありません」
「しかし、お前たちを——」
「司令」
田村はそっと遮った。
「我々は、覚悟してここにいます。だから、司令の決断がどうであれ、我々は従います。ただ——」
田村は少し間を置いた。
「私は、同じ海自の仲間に砲を向けることは、できません」
北沢はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「わかった。応戦はしない」
***
五分が経過した。
坂本の声が届いた。
「北沢さん。済まない」
通信が切れた。
坂本は、魚雷攻撃命令を発した。
職務として、正しい行動だった。
しかし——。
「済まない、先輩」
誰にも聞こえない声で、もう一度呟いた。
(私には、先輩のような生き方はできない)
坂本は拳を握った。
海面に、大和と武蔵の艦体が浮かんでいた。
***
相模湾沖・海自艦艇。
潜水艦隊指揮官、河野一佐は命令文を読み終えた後、しばらく黙っていた。
副長が聞いた。
「司令、どうされますか」
河野は魚雷発射管の方向を見た。
(あの艦に乗っているのは、我ら自衛官の同僚だ。国を守ってきた仲間だ)
「全艦に通達する」
河野はマイクを手に取った。
「坂本幕僚長より、大和と武蔵への魚雷攻撃命令が下された。しかし、私はこの命令には従わない。我が艦は魚雷を発射しない」
河野は続けた。
「各艦の判断は、各艦の艦長に委ねる。ただ——あの艦に乗っているのは、我ら自衛官の仲間だ。それだけは忘れないでほしい」
通信が切れた。
発令所が静まり返った。
しばらくして、各艦から応答が届き始めた。
『第二艦、魚雷攻撃を実施しない』
『第三艦、同じく』
『第四艦、発射しません』
河野は目を閉じた。
(みんな、同じ気持ちだったか)
胸が熱くなった。
どの潜水艦も、引き金を引かなかった。
河野の艦を含め四人の艦長たちは、それぞれの艦で、同じ海を見ていた。
***
大和の発令所。
「司令、モニターを確認しました。海自の艦艇に動きはありません。ソナーにも魚雷発射の兆候はありません」
北沢は目を閉じた。
(海自の連中が、命令を拒否してくれたのか)
田村を見た。
唇を噛んで、正面を向いていた。
「命令違反を選んでくれた」
北沢は言った。
「海自は、まだ生きている」
しかし安堵している暇はなかった。
海自が動かなければ、某国は次の手を打つ。
それは分かっていた。
北沢は衛星電話を手に取った。
「総理、北沢です。海自は魚雷を撃ちませんでした。しかし某国は衛星で見ている。次は核ミサイルのボタンを押すでしょう」
北沢は声を一段落とした。
「総理、よく聞いてください。相模湾で核が炸裂すれば、風向き次第で東京・横浜・千葉——首都圏三千万人以上が放射性降下物に晒されます。海水が蒸発して放射性の雨が降る。人が住めなくなる地域が出ますよ」
江崎総理は黙っていた。
「総理、今すぐ某国にこう通告してください。『日本は報復核を保有している。核攻撃を行えば、報復する』と。それだけでいい。その一言で、三千万人の被害が防げるのです」
長い沈黙があった。
「北沢君」
江崎総理の声が震えていた。
「私には――できない」
北沢は受話器を握りしめた。
(なぜだ。なぜ、その一言が言えない)




