第9話 軍は止まらない
官邸・執務室。
通信を切った江崎総理の手は震えていた。
そこへ、某国のブロック代表から直接通信が入った。
「総理、そちらの海はずいぶん賑やかなようですな。衛星でよく見えますよ。ところで、原潜との交渉は進んでいるのですか」
江崎は一瞬、背筋が冷えた。
(なぜ交渉していることを知っている。誰が漏らしているんだ)
「彼らは、まもなく投降します」
「結構。原潜二隻。我が国に引き渡していただけるでしょうな。貴国にそんなものを持たれると、我が国の脅威になりますので」
江崎の表情が変わった。
(引き渡せだと。あの原潜が、あの国に渡ったらどうなる。我が国の防衛企業であるKI重工の技術が、すべて抜き取られてしまう。それこそ、我が国の脅威ではないか)
「その件については、少しお時間をいただけないでしょうか」
「いいだろう。四時間待とう」
通信が切れた。
西村防衛大臣が言った。
「総理、核で脅され、原潜を渡せと命じられ、四時間の猶予しかもらえない。これが独立国に対する態度なのですか。我が国には、何のために防衛省があるのですか」
桐島外務大臣が続いた。
「北沢の話に乗りましょう。日本は真の独立国になるべきです。核を持った今なら、四つのブロックと対等に渡り合える。いや、技術力がある分、立場は上です」
経済産業大臣の佐伯が口を開いた。
「桐島大臣に賛成します。今日は原潜を渡せと言っていますが、明日は技術者を渡せと言うでしょう。その次は領土になりますよ。核で脅せば何でも手に入るとわかった国が、止まってくれると思いますか」
国土交通大臣の永田が、落ち着いた口調で言った。
「過激なことを申し上げるつもりはありません。ただ、考えていただきたいのです。核の傘を自前で持てば、どの国とも対等に話し合える。戦うためではなく、話し合うために持つ。それなら、平和憲法の精神にも反しないのではないでしょうか」
閣僚たちの声が重なり始めた。
江崎総理は手を挙げた。
「少し待ってくれ。三十分でいい。私を一人にさせてくれ」
大臣たちが執務室を出ていった。
江崎総理は一人になった。
窓の外に、東京の街が広がっていた。
あの灯りの一つひとつの下に、国民がいる。
北沢の言葉が、耳の奥で響いていた。
(核を持たないまま、核の脅しに怯え続けること。それこそが、国民を最も危険な状態に追い込んでいるのではないですか)
しかし、決断がつかない。
三十分という時間は、この男にとって永遠のように長かった。
***
官邸・廊下のトイレ。
廊下で、一人の閣僚がトイレに入った。
個室の鍵を閉め、スマートフォンを取り出した。
登録名義は偽名だ。
暗号化されたメッセージアプリを開き、短く打ち込んだ。
『閣僚の大半が、北沢の提案に傾いている。総理が決断すれば、原潜は日本の核戦力として正式に認知される可能性あり』
返信は三十秒で来た。
『そうならないよう動くのが、君の仕事だ』
『期限を、もう少し延ばせませんか』
『決定は覆らない。総理を動かせ。それが君の存在理由だ』
存在理由。閣僚はその言葉を、個室の暗がりの中で反芻した。
やがてスマートフォンをポケットに戻し、廊下に出た。
***
某国・首都 ブロック代表執務室。
メッセージは、駐日大使を経由して本国に届いていた。
ブロック代表の執務室に、軍のトップが呼ばれた。
「原潜二隻の位置は、衛星で捕捉しておるな」
「はい。もちろんです」
ブロック代表はしばらく地図を見つめていた。
「日本の総理が北沢に同調すれば、あの原潜は日本の核戦力になる。そうなれば、我が国の立場は、日本に対して弱くなる」
軍のトップが黙って頷いた。
ブロック代表が続けた。
「原潜に向けて、いつでも核ミサイルを発射できるよう準備しておけ」
軍のトップは一瞬だけ間を置いた。
「よろしいのですね」
「原潜さえ沈めてしまえば、日本はこれまで通り、押せば引く、いかようにも料理できる。危険な芽は小さいうちに摘む。それが我が国の流儀だ」
「了解しました」
「日本に繋げ」
***
官邸・執務室。
三十分が経過した。
閣僚たちが執務室に戻ってきた。
その顔を見るだけでわかった。
全員が、北沢の側に傾いている。
江崎総理は窓の外を見た。
(誰かが決めてくれれば、どれほど楽か)
(しかし——それが総理大臣というもの。誰かが代わりに決めてくれるはずがない)
その時、江崎総理の執務室に、再びブロック代表からの通信が入った。
「総理、困ったことになりました」
声は穏やかだった。それが、かえって不気味だった。
「軍部が独自の判断で動こうとしています。原潜に向けて核ミサイルを発射する準備が進んでいるようです。発射されれば、着弾までは僅かだ」
江崎総理の顔が凍りついた。
「待ってください。原潜の周囲には海上自衛隊の艦艇がいます。それに、相模湾沖で核が炸裂すれば、首都圏に放射能が——国民の命が——」
声が震えていた。
「原潜は、必ずお渡しします。ですからお約束の四時間だけ待っていただきたい。どうか、お願いします」
ブロック代表は少し間を置いてから言った。
「お気持ちはわかります。ですが軍というものは、一度動き始めると私の言葉より銃声の方がよく聞こえるようになる。それが、軍というものの本質なのです」
江崎総理は目を閉じた。
(もう、選択肢がないのか)
「わかりました。海上自衛隊に、原潜を撃沈するよう命令します」
「衛星で監視しておりますよ」
ブロック代表の声は、最後まで穏やかだった。
「よろしくお願いしますね、総理」
通信が切れた。
江崎総理は受話器を握ったまま、動けなかった。
(これが、核を持たない国というものなのか)




