第102話 この船に来てから——楽しいことばかりじゃ
武蔵・大会議室。
今日は、女たちだけの寄合だった。
お市、徳姫のほか、伊賀衆や織田家臣の縁者から嫁いだ女性たちも、丸く輪になって座っていた。
お市が、ふと思い出したように口を開いた。
「早川殿——化粧は、どうしておられるのじゃ」
早川は少し驚いた顔をした。
「私は——あまり凝ったことはしていませんが……」
そこへ、美咲が身を乗り出した。
「私でよければ——お答えしますよ」
美咲は、自分の部屋から小さな袋を持ってきた。
「これが化粧水、こちらが乳液——両方とも、肌に潤いを与えるものです。こちらのクリームは、乾燥がひどい時や、夜寝る前に使います。それから、これが口紅、こちらが頬紅……」
並べられた品々を、女性たちが興味深そうに覗き込んだ。
小さな瓶、丸い容器、細い筒——見たこともない形の道具ばかりだった。
お市が目を丸くした。
「そんなに、たくさんあるのですか」
「はい。先の世では——これくらいは、当たり前でしたので」
お市は、少し得意げに立ち上がった。
「では——妾のものも、お見せしよう」
侍女が、漆塗りの小箱を持ってきた。
中には、紅を溶いた小皿と、白粉の入った袋、そして眉墨が一つ、収められていた。
「妾は——これだけじゃ。肌を整えるのは、米のとぎ汁かのう」
美咲は、その品数の少なさに、思わず驚いた。
「これだけで、済ませておられるのですか」
「これで十分。あとは——工夫次第じゃ」
藤林の親戚の娘が、遠慮がちに口を開いた。
「お市様——わたくしは、そのようなもの、一つも持っておりませぬ」
もう一人が、恥ずかしそうに続いた。
「伊賀では——化粧など、縁のないものでございました。日々の暮らしで、精一杯でしたので」
お市は、優しく微笑んだ。
「気にすることはない。妾とて——長政殿が亡くなられてからは、化粧など、久しくしておらなんだ」
堀の親戚の娘も、小さく頷いた。
「わたくしの家でも——白粉は、特別な日にしか使いませぬ」
美咲は、少し考えてから言った。
「では——せっかくですから、皆さんも少し、試してみますか」
伊賀の娘たちの顔が、ぱっと明るくなった。
「よろしいのですか」
「もちろんです。少しだけですけどね」
美咲は、悪戯っぽく笑った。
女性たちは、慣れない手つきで口紅を塗っては、互いの顔を見て、きゃっきゃと声を上げた。
徳姫が、美咲の小瓶を手に取り、しげしげと眺めた。
「肌を整えるとはどういうことじゃ」
「化粧水は、肌に潤いを与え、荒れを防ぎます。この、乳液というものも、あわせて使うと——肌がしっとりするのです」
「不思議な匂いがするのう」
「花の香りを、少し加えているのです」
徳姫は、恐る恐る、手の甲に少しだけ化粧水をつけてみた。
「おお——すっと、染み込むようじゃ」
それを見て、伊賀の娘たちも、恐る恐る手を伸ばした。
一人が、頬を撫でながら声を上げた。
「これは——わたくしの肌が、わたくしの肌でないような」
周りから、どっと笑いが起きた。
ひとしきり盛り上がったところで、美咲がふと、表情を曇らせた。
「ですが——」
「なんじゃ」
「先の世から、こちらに来てしまいましたので……。この化粧品も、いずれは、使い切ってしまいます。なくなったら、どうしようかと」
部屋に、しばし静かな空気が流れた。
早川が、ぽんと手を打った。
「それなら——村上先生に、作っていただきましょう」
「村上先生に、でございますか」
「はい。武蔵には、薬を作る設備がありますから。化粧水くらいなら、案外できてしまうかもしれません」
お市が、興味津々に身を乗り出した。
「妾の白粉も——もっと肌に優しいものにしていただけるであろうか」
「白粉には、鉛が使われていることが多いです。鉛は——体に良くありません。米の粉や、白い土——カオリンというものを使えば、同じように白く見せながら、体への害は少なくできるはずです」
お市が、少し驚いた顔をした。
「白粉は——体に悪いのですか」
「長く使い続けると、肌が荒れたり、時には体調を崩すこともあります。せっかくですから——安全なものに替えた方がいいです」
美咲がうれしそうに言った。
「お市様、村上先生のところに——お願いに行きましょう」
徳姫が笑った。
「美咲殿は——本当に、化粧がお好きなのですね」
「好き、というより——これは、女の嗜みですから」
お市も、うれしそうに頷いた。
「この船に来てから——楽しいことばかりじゃ」
女たちの笑い声が、大会議室に、いつまでも響いていた。
***
武蔵・医務室。
美咲とお市が、村上先生を訪ねた。
お市が村上に頼んだ。
「先生、女性たちが使う化粧品を——作っていただくことはできませんか」
村上は、少し考え込んだ。
「化粧品、ですか……。専門ではありませんが、怪我人も病人もおらず暇なのでやってみましょうかね」
美咲が続けた。
「化粧水や乳液のもとになる、グリセリンというものなら——石鹸を作る過程でも採れると聞いたことがあります」
村上は頷いた。
「そうですね。植物の油を使えば——不可能ではないでしょう。ワセリンのようなものも——精製の手間はかかりますが、武蔵の設備なら作れるかもしれません」
「花の香りとかつけれますか」
「香りですか——それも、できないことはありません。花びらを蒸留すれば、香りのもとになる油分——精油が採れます。武蔵の設備を使えば、この時代の道具よりも、ずっと効率よく抽出できるはずです」
お市が身を乗り出した。
「では——桜や梅の香りも」
「花の種類さえ集めていただければ、試してみましょう。ただ、花によっては、思うように香りが取れないものもあります」
美咲が、うれしそうに言った。
「桜の化粧水なんて——素敵ですね」
村上は苦笑した。
「まずは——試作からですね。あまり期待しすぎないでください。サンフランシスコ湾についたら、花摘みとかしてみてはいかがでしょう」
お市の目が、ぱっと輝いた。
「それは、よい思いつきじゃ。向こうに着いたら——さっそく、皆で花を摘みに参りましょうぞ」
「先住民の方々にも、教えていただけるかもしれません。あちらにも——きっと、良い香りの花があるはずです」
美咲も頷いた。
「きっと新しい香りが見つかります——楽しみですね」
お市は、うきうきとした様子で言った。
「新天地に着いて早々、花摘みとは——なんとも、浮き立つ話じゃ」
ふと、お市は思い出したように言った。
「そういえば——先ほど、早川様から聞いたのですが。白粉は、体に悪いそうですね。安全な白粉も、作っていただけないでしょうか」
村上は頷いた。
「今使っておられる白粉には——早川くんが言うように、鉛が使われていますので、使わない方がいいでしょう」
「やはり体に良くないのですね」
「代わりに——米の粉や、カオリンという白い土を使えば、同じように白く仕上がりながら、体への害はずっと少なくなります。武蔵の設備なら、細かく、なめらかに仕上げることもできるはずです」
「作るには——なにか、材料を集めねばなりませんか」
「米の粉は——武蔵に米が積んでありますし、細かく挽く加工もできます。カオリンは、白い粘土のようなものです。こちらは——少し調べてみる必要がありますね」
お市の顔が、ぱっと明るくなった。
「それは、ぜひお願いしたい」




