第90話 幸福な朝と、意地っ張りな決意表明
ローゼルが頭を抱え、どうしようかと茫然とし始めた頃、ルシアン・クレインバールは目を醒ました。
恍惚とした心地よさからの深い眠り、そこからの目覚めはとても充足感に満ちていた。
身体の底から新たな力が湧いてくるようだ。
実に爽やかで幸福に満ち足りた朝だ。
ちらっと気配のする方を見ると、愛おしい彼女の華奢な後ろ姿がある。
ぼんやりと窓の外を見つめるローゼル。
その彼女の背中には昨夜つけたいくつものキスマークがあって、ルシアンは細く微笑んだ。
昨晩はかつてないほど最高の夜だった。
初心な乙女らしく、男女の情事では見たことがない官能的な恥じらいを見せてくれた。
頑なだった体が徐々に弛緩していき、やがてちゃんと“女”の顔を見せた。
そうなったら、もはや理性はあってないようなもの。
胸踊らせ、より一層キスも愛撫もじっくり時間をかけて念入りにした。
ローゼルから漏れる甘美で淫靡な吐息と嬌声。
ローゼルの柔らかく惚ける表情は狂おしいほど、気持ちが高揚する。
自分自身も官能の渦に引き込まれ、彼女の身体を貪る。
気づけば無心でむしゃぶりついて、腰を振っていた。
男として好きな女を抱く。
ましてや、初めてをもらうとは——まさに感無量である。
順序は少々異なるが――この際、仕方あるまい。
とはいえ、本音は結婚まで一線を越える気はなかった。
大事に、大事にしてみんなに祝福されて、その日を迎える予定だった。
――あの……! 単刀直入に言います。ローゼルが思った以上に危険なところにいるんです。
ひゅっと息が詰まった。
昨日の昼下がり。
エレナ・ヴァービナスから聞いた衝撃の事実。
その話がルシアンの頭の中で蘇ったからだ。
快楽の余韻に浸りつつも、ルシアンはシーツを強く握った。
阻止せねばならない。決して、奴らに渡してはいけない――。
必死に自分に言い聞かせる。
俺が守るんだ。
何が何でも。
「ローゼ」
ルシアンが甘い声で呼んだ。
ローゼルは驚いたように肩を震わせ、恐る恐るこちらを振り返った。
「ルシ様、あの、私……」
今にも泣き出しそうな顔つきだ。
「お店を出て悪者退治した後、ルシ様と……」
そんな表情ですら、ルシアンの庇護欲をそそる。
「ああ、見てのとおりだ。
おはよう、ローゼ。
素敵な朝だな」
ルシアンは満たされた気分で微笑んで、ローゼルを抱きしめようとした。
「ひゃん! やっぱり」
けれど、ローゼルはルシアンの腕から逃れるように、身を縮こませた。
何か思い詰めた眼差しで視線を泳がせている。
とてつもなく困惑している様子だった。
みるみる顔色も青ざめ、しまいには頭を抱えてだんだん丸くなっていった。
「私、しばらくお酒控えよう……。
今日お仕事休みでよかった……」
ブツブツとローゼルが呟いた。
ルシアンはぎょっとした。
(おいおい、仕事休みでよかったって……。
初夜を迎えた翌日に仕事に行こうとしていたのかよ)
らしいといえば、らしいけど……どこまで社畜なんだろうか。
ルシアンは苦笑し、改めて華奢なローゼルの肩を抱き寄せた。
「ローゼ、昨日の晩のこと、ちゃんと憶えてる?」
ローゼルはこくりと、ものすごく重々しく頷いた。
「憶えてます。
私、これじゃあお嫁にいけません……」
「嫁? 何を言っているんだ?
当然、俺のところに来るんだろ?」
潤んだローゼルの瞳がルシアンを見上げた。
「でも、私は子爵令嬢です……。
次期辺境伯のところにお嫁なんて恐れ多い」
「全然恐れ多くないって。
もう忘れたのか?
今日からローゼは伯爵令嬢だ」
ローゼルは一瞬ぽかんとし、「そういえばそうだった」と思い出したように呟いた。
ルシアンはそんなローゼルの手を握って、キスをした。
「ほら、もう身分なんて気にならないだろ?
それよりも、こうやって俺の屋敷で一緒に朝を迎えたんだ。
改めて、おはよう」
清々しいほど爽やかな笑顔を浮かべたルシアンに、ローゼルは頬を僅かに赤く染め上げた。
「おはようございます」
その仕草すらも可愛くて、ルシアンはローゼルの額にキスをした。
瞼に耳に頬に首筋にキスの雨を降らす。
あぁ、駄目だ。
一度触れてしまえば、男としての劣情が湧き起る。
「ルシ様――」
ルシアンは身を乗り出して、ローゼルの唇を奪う。
舌を入れて、濃厚なキスを繰り返す。
両手を繋ぎ、顔の角度を変え、掛け布団を引き剥がしてそのまま押し倒した。
「ん……っ、ルシ様っ」
ルシアンがようやく顔を離したその時、ローゼルがぐっとルシアンの厚い胸板を押して抵抗した。
ルシアンの動きが止まる。
「どうした?」
「朝から、こんな破廉恥な……結婚もしていない男女なのに――」
たじたじになりながら、赤面したローゼルが言い返した。
「そうだな。
結婚はしていない。けど」
ルシアンはローゼルの双眸をぐっと覗き込む。
「こんな関係になったからこそ、俺はちゃんと純潔を頂いた責任をとる。結婚しよ……」
「結構です」
ルシアンの言葉をローゼルは遮った。
「え?」
ルシアンは言葉を失う。
何度も目を瞬く。
彼女の落ち着き払った静かな顔。
意を決した蜂蜜色の双眸。
「確かに、お酒に溺れて成り行きで初夜を迎えました。
ですが、自分のしたことにはちゃんと自分で責任をとります。
ルシ様のお手を煩わせません。
ルシ様も昨夜のことは事故だと思っていただければ幸いです」
ローゼルの毅然とした声に、ルシアンは一瞬呆気に取られた。
だが、そんなルシアンを真剣な顔つきで射抜くように見ながら、ローゼルは続ける。
「物事には順序というものがあります。
それを私は欲望のまま逸脱しました。
これはよくありません。
私自身に問題があります。
これに対して責任をとってもらおうだなんて言語道断です」
ルシアンはこめかみを押さえた。
寝起きのせいか、うまく思考がまとまらない。
私自身に問題? 何が?
いやいや、こういう場合、ふつう男が責任を取るべきだろう。
男女の睦み合いに合意があったとしても、やはり最終的に何かあれば傷がつくのは女性だ。
ローゼルに責任はない。
ルシアンが必死で頭を回転させている間に、ローゼルは彼の腕からすり抜けて、掛け布団を身にまとい、床に立ち上がろうとした。
次の瞬間。
「ひゃん!」
小さな悲鳴と共に、ルシアンの視界から姿を消した。
ルシアンがベッド下を覗き込んでみると、ローゼルは絨毯の上にぺたんとしゃがみ込んで茫然としている。
「おいっ、大丈夫か?」
ルシアンは慌ててローゼルを抱きかかえ、ベッドに再び座らせて掛け布団を肩からかけ直した。
「何で? 何でこんなにも足腰がガクガクしているの?」
混乱しながら、ローゼルは小さな声で自問自答する。
この状況がつかめないようだ。
「あー、すまない。俺のせいだ」
「ルシ様の?」
ローゼルは、きょとんとした。
「えー、あー、うん」
ルシアンは頬を掻いた。
ハッキリ言えば、昨晩ルシアンの理性は崩壊し、いろいろ我慢が出来なかった。
恋慕の念を抱いた彼女だ。
一線を越えてしまったからには彼女を貪り愛し、何度も求め続けた。
それはもう一晩中。
強烈な快楽。抗うことなんてできなかった。
そんな野獣のような欲望に、小さな身体で健気にも応えようと、必死で大きな自分を受け入れたローゼル。
そんな彼女をルシアンは、この先も深く愛することを誓った。
「とりあえず、身体は?
体調とか悪くないか?」
「えっと……下半身がダル重いぐらいで、全然。
むしろ、元気です」
「そうか。よかった」
ルシアンは安堵して、ローゼルを抱き締めた。
(《《アレ》》の効果は功を奏していた、ということか――)
ほっとすると同時に、胸が甘くときめく。
これからも《《アレ》》を試すべきだな。
ローゼルの身体が慣れてきたら、いっそのこと愛し合う回数を増やして……。
「あの、ルシ様?」
考え込むルシアンにローゼルがそっと声を掛けた。
「ごめん。優しくしたかったんだけど、ついローゼが可愛すぎて、やりすぎちまった」
我に返ったルシアンがさらりと言うと、言葉の意味が分かったのか、ローゼルの身体がぼわっと真っ赤に染まった。
その素直な反応がルシアンの煩悩をさらに刺激した。
不埒な気持ちがゆらゆらと込み上げる。
「ローゼもちゃんと夜のこと覚えているんだな」
ルシアンが目を細め、わざとローゼルが弱い耳元で囁いた。
ローゼルの背筋がぞくっと震えた。
驚いたような表情をするくせに、頬を染め、視線を逸らす。
そんな仕草がすべてが愛らしく、そして、やけに妖艶で魅力的に映る。
「昨晩はいつも以上に可愛かったよ。
すぐにでもローゼとまた一つになりたいところだ」
「え?」
ルシアンの艶然とした流し目に、ローゼルはたじろぐ。
「だが、さすがに初夜翌朝は控えるよ。
ローゼの体に負担がかかるのは嫌だからな」
ローゼルは分かりやすく安堵を滲ませた。
やはり身体に負担が大きかったか。
ローゼルの魔力は漲っているし、顔色もいい。
とは言え、疲労の色が見える。
(求めすぎたか……)
ルシアンは昨晩の自分の野獣っぷりを反省する。
こんな小柄な彼女が受け入れてくれただけでも僥倖なのに、これ以上無理をさせてはいけない。
大丈夫だ、我慢することには慣れている。
けれど、これでやっと俺のものだ――。
「あっ、あの……それでも駄目です」
ローゼルは首を振った。
「なにが駄目なんだ?」
ルシアンはぎょっとした。
「だって、こんなの、良くないです。
ルシ様が悪者になっちゃう」
ローゼルは涙をためて呟いた。
「何を言っている?」
ますますルシアンは戸惑って、首を捻った。
「あの、ルシ様」
「ん?」
「私、決意しました」
「なにを?」
ルシアンは真顔になるローゼルに、何か嫌な予感がした。
それでも、吸い込まれそうな強いまなざしに釘付けになる。
綺麗だ。
ルシアンは、改めてそう思った。
無邪気な愛らしさとは異なり、大人びた美しさ。
「いいですか、ルシ様。
聞いてください」
見惚れている自分に気づき、ルシアンは思わず照れ隠しに笑ってみせた。
しかし、ローゼルは笑わなかった。
まだじっとルシアンを見つめている。
やがて、思い切ったように言葉を紡ぐ。
「私はこの先、結婚することなくキャリアの道を目指そうと思います。
だから純潔を失ったところで大したことありません。
なので、私のことは気にせず、むしろご堪能いただき、それから忘れてください」
ルシアンは何度も目を瞬いた。
ローゼルの言っている内容を理解するのに、少々時間を要したからだ。
「はい?」
「ですから、どうか私のことは忘れてください」
重ねて言うローゼルに、ルシアンは脱力し、頭がどんと重たくなった。
(おいおい、何を言っている?)
狼狽と、自分の腕をすり抜けて、どこかへ行ってしまうローゼルに怒り、その半々が襲ってきた。
それは、苦い屈辱感だった。
なぜだ。
ルシアンの顔はみるみるうちに険しくなった。
*
どうしたんだろう、すっかり黙り込んで。
(私、何か変なこと言ったかしら?)
ローゼルはじわじわ不安になった。
私は確かに、ルシアン・クレインバールからプロポーズされた。けど、現実的に考えると次期辺境伯と、子爵からの伯爵になりたての令嬢が嫁ぐにはいささか世間の目は厳しい。
それだけ辺境伯が治める領土は国として重要な場所だからだ。
(それに、私はまだ婚約中の身。
——ルシ様が間男扱いされてしまうよ)
口が悪い貴族たちに、「寝取り軍師」なんて下衆なあだ名でもつられようもんなら、こっちが怒りで気がどうにかなってしまう。
そんな輩に謝罪文を要求するために、きっと乗り込んでしまうだろう。
だけど、倫理観は置いておき、初めてを捧げる相手はルシアンでよかったと思う。
(ううん、これで良かったんだよ)
初めは何事も怖い。
いくら巷で流行っている少々内容が過激な恋愛小説を読んで、手順やどういうことをするのか、閨のマメ知識は頭の中にあったとしても、なかなか恐怖心は消せない。
けど、ルシアンは全てにおいて優しかった。
(そりゃあ、最初、貫かれる時は、とにかく痛かったよ)
それでもお酒の浮遊感や陶酔感も相まって、そんな痛みすら帳消しにするぐらい甘くて蕩けそうなひとときで——間違いなく幸せだった。
初めての恐怖や不安が、いつの間にか澱のようにどこかに沈み、もう水底に溜まっていてぴくりとも動かない。
たぶん、相手がルシアンだったからこそ拒否感なく、むしろこの人と深く繋がりたい、すべてを捧げたいなんて大胆にも思えたんだろう。
もし、これが初夜の相手がレオーネだったら、自分本位な行為をしただろうし、きっと嫌な思い出になっていただろう。
(そう、これは私の人生最大のすごくいい想い出だ)
最早、思い残すことはない。
ローゼルはひどく醒めた気持ちで考えていた。
「あの、ルシ様」
ローゼルはそっとルシアンの顔を覗き込んだ。
「——そうか」
突如、がしっとローゼルの手をルシアンが力強く握った。
ローゼルは跳び上がりそうなほど驚いた。
「せっかくの決意だが、悪い。
俺はローゼルの純潔を奪った時点で結婚するしかないと決めたんだ」
ルシアンの眼差しが鋭くなり、目が据わった。
ローゼルは背筋がひんやりとしていた。
「いいか、ローゼ。
これは絶対に譲れない」
強い決意表明に、ローゼルは慌てた。
「けどけど」
「けども、糞もない。
俺は責任をとるって決めたんだ」
完全に目が据わっている。
その凄味と圧迫感。
思いつめた鋭い眼差しと完膚なきまでの決意。
どうやら私は彼に責任をとってもらわないといけないらしい。




