第9話 空虚な謝罪手紙と、初めての単独出張命令
『悪かったよ、この前は。
僕が強く握った手首はもう大丈夫かい?
僕はしばらく領地に赴き、父上の代理で執務を行う予定だ』
ソフィアとの騒動から数日後、レオーネから謝罪の手紙が届いた。
ローゼルは唖然として便箋と花束を見つめた。
あり得ない。
レオーネから謝罪するなんて。
美しい文字は相変わらずだが、便箋は安っぽく、折り目も乱雑で封蠟さえ曲がっている。
(う~ん、まったく反省の色が見えない)
なんだろう、早くさっさと終わらせたい。
そんな気持ちが滲み出ている。
その美しい筆跡さえ、心がこもっていない。空虚に見えた。
ローゼルは胸が重く沈んで、思わずため息をついた。
噂では聞いていたけれど、結局、レオーネは父親のウルーム伯爵と懇意にしているグロウディーナ公爵家からの力添えもあって、ソフィアの訴えは半ば強引に取り下げられ、お咎めなしですぐさま保釈されていたらしい。
大方、保釈に手を貸したグロウディーナ公爵から「形だけでも婚約者に謝罪しておけ」と釘を刺されたのだろう。
渋々筆を取るレオーネの不貞腐れた顔が脳裏に浮かぶ。
グロウディーナ公爵家は皇族を外戚に持ち、隣国王妃や皇太子妃候補を輩出することで外戚政治を盤石にしようとしている家柄だ。
ウルーム伯爵がグロウディーナ家と懇意なのは知っていた。
けど、その公爵家が、利益にもならぬレオーネの保釈に手を貸したことは、ローゼルにとって驚きだった。
(レオーネの保釈に公爵家は何も利益を生まないのに……)
首を捻りながらローゼルは、法務省大臣ジョージ・ライアナース伯爵の執務室に向かっていた。
「おっ、噂のイースティリア女官じゃないか。
その後、クレインバール卿からの求婚はあったか?」
途中の廊下でも、同僚たちがすれ違う度にちらちら好奇の視線を向けて、わざとらしく茶化す。
「もう、あれは違うんですって」
ローゼルが顔を真っ赤にして否定すると、みんな声を上げて笑う。
(まったく。しつこいんだからっ)
ローゼルは恥ずかしさと苛立ちを抑え、法務大臣の執務室の扉の前に立つ。
息を整え、扉をノックした。
「ローゼル・イースティリアです」
「入れ」と部屋の中から返事があってから、「失礼します」と部屋に入った。
法務大臣ライアナースの執務室は、広い窓から光が差し込み、重厚な机と天井まで届く本棚が並ぶ。
分厚い法律書や書類の山が積み上げられ、空気は張り詰めていた。
「ああ、イースティリア女官、来てくれたか」
窓から入る日差しで逆光になったライアナースは、眼鏡を外して、ローゼルを見た。
彼が座る執務席に近づいてようやく彼の渋く整った顔が見える。
「君に頼みたいことがあってね、いいかな?」
「はい、構いません。
あっ、ひょっとして皇室への書類提出手続き申請ですか?
そろそろ宮内式典に関しての第一草案書の回答を提出する時期でしたよね?」
「まあ、それもそろそろ取り掛からねばならないんだが、それとは別件だ」
「別件?」
ローゼルは首を捻った。
はて、皇室関係でないなら、この前魔法省へ突き返した文言訂修正依頼についてのことかしら。
それとも財税省と打ち合わせをした平民富裕層の相続税についての法案、複式貸借計算法式が間違っていたのだろうか?
数々の案件に思いを巡らせた。
けど、どれもこれも、まだ審議に時間はかかるはずだ。
「そう身構えるな。
日帰り出張に行ってきてほしい」
「え、私がですか?
いいんですか?」
ローゼルは驚きつつも、声が弾んだ。
なにせ、今までは「まだまだ新人だから」とか「危なっかしくて任せられない」とか、しまいには「女官の割には小柄で華奢すぎて迫力がなくて、強盗にでも襲われたらひとたまりもないから」など王都外への一人出張は許されなかった。
ライアナースは、テーブルに両肘をつき、にんまりと微笑む。
「ああ、そうだ。君が法務省所属になって早三年。
そろそろお遣いぐらい一人で出来るだろ?」
「はい、もちろん出来ます!」
ローゼルは元気よく返事をした。
「よろしい」
ライアナースは鷹揚に頷いた。
ローゼルは胸が熱くなり、頬が綻んだ。
(えへへ、ようやく一人前と認められたぁ!)
「では、イースティリア女官に託したい任務は二つ」
ライアナースが改まった声を出す。
「一つはこのユーモネア領地法草案を領主のエヴァン・ゴルマン伯爵に返却すること」
「え? ユーモネア領地……ですか?」
思わずローゼルの顔が強張った。
「そうだ。その際、『皇帝まで承認済』であることを伝えるのを忘れるなよ」
ライアナース卿は分厚い封筒をローゼルに手渡す。
封蠟で封じられたその中にはユーモネア領地草案書と審議結果票が収められていた。
渡された封筒の重みに、ローゼルの胃が少しキリリと痛んだ。
このアイルナバロー連合帝国では、領主は領地の特性に合わせて独自の法規を設計できる領地法がある。
とはいえ、絶対の原則がいくつかある。
帝国憲法より下位であること、そして施行前には必ず王宮へ提出し審査を受けること。
提出された草案はいろんな法曹幹部官僚、さらに貴族院の有識者によって精査される。
問題がなければ皇帝に最終判断が委ねられ、承認が下りる。
(承認までこぎつけるのに、あの不機嫌な法務官たちをどれだけ説得して、修正案を何回書き直したことか)
審議結果票には審査に関わった貴族と裁判官の署名、そして皇帝の署名と玉璽が並ぶ。
それは領地にとって、何より重い証書だった。
「二つ目だ。
先日の大雨でユーモネア領地は大規模な水害に遭い、予算を大幅に変更せざるを得なくなった。
ゴルマン伯爵は前伯爵の爵位を継いだばかりで、君より二つ年上の若輩領主だ。
財務計算にまだ不慣れでね。
そこで、半年間財税省経理局で予算編成チームを手伝っていたイースティリア女官に、財務補佐として手解きをしてほしいと直々の指名があった」
ローゼルは困惑した。
「あの……手解きと申しましても、私は財税省の皆様に比べればまだまだ未熟者です。
知識が足りず、対応できないかもしれません」
さっきまでの高揚感にたちまち潮が引いてきた。足元を波がさらい、あっという間に追い越していくひんやりする感覚がする。
「心配はいらない。君ほどのレベルなら、領主になりたての伯爵に教えるには十分だ。
もし解決できないほどの難題が出れば、それは財税省の官僚が担うべきだ。
改めて伯爵から依頼を出してもらえばいい」
「はあ……」
ローゼルは不安に思い、視線を床に落とした。
(なんで、よりによって私なの?)
新任の領主とはいえ相手は伯爵だ。
女官になって数年しか経っていない自分が手解きだなんておこがましいだろう。
ましてや、その伯爵は――エヴァン・ゴルマン。
うんざりするような、げんなりするような胸中になった。
「イースティリア女官はもう少し自分に自信を持っていいんだぞ」
顔を歪めるローゼルに気づいたライアナースは、深々とため息をついた。
どうやら、ローゼルが不安に思って黙り込んでいるのだと勘違いしているようだ。
「大丈夫だ。
君は君の御父上の下、基礎的な財務管理を兄と共に行った実践経験があるんだろ?」
ライアナースの後押しに、いささか複雑な心境を抱きつつ、ローゼルは顔を上げた。
「そうですけど。
兄の方が断然できてました。
私は、兄に比べたら全然劣っています」
「それは比べる相手が悪い。
君の兄が突出して優秀すぎるんだ。
だからこそ子爵家の子息でありながら、皇太子殿下の留学に随行するメンバーに抜擢されたんだ」
兄アルバートは優秀で有能だ。
客観的に見ても魔力量も桁外れで、王宮魔術師に遜色ないレベルの繊細な魔力操作もこなす。
その上、頭がいい。
どれだけローゼルが頑張っても追いつけない存在だ。
「君ならできる。
なにせ伯爵から直々のご指名、申し出があったぐらいだ」
「でも」
その伯爵とあまりお近づきになりたくない。
それが本音だ。
「領地基本運営法に不動産法、租税特別救済措置法と帝国税徴収施行規則法、金融商品取引法、財務諸表等規則。
これらの法改正の審議メンバーの補佐についていたのは君だよな?」
「はあ、そうですが。
それが何か?」
ローゼルは訝しげに表情を曇らす。
ライアナースが何を言おうとしているのか、意味を測りかねたのだ。
「君が立ち会った改正案は、領土を治める上で欠かせないものだ。
補佐する以上、内容は熟知しているはずだ」
「ですが、私はただ審議補佐として立ち会っただけで、業務内容も、立案の意図が法文に正しく表現されているかを確認していたに過ぎません」
「不適切な文言を正しく直せたということは、内容を理解していた証拠だ。
まったく問題ない。
ましてユーモネア領地は『魔力漂う地』として有名だ。
治療院は老朽化し、今回の水害も重なって新設が必要だ。
その際に必要な魔法基礎学、魔力学、治癒学、術式学、魔術書中級まで修めている君なら十分対応できる」
「魔力漂う地」――。
この国には、魔力の霧が発生する場所がある。
凝固すると魔素となり魔物を生む。王都近郊は結界で浄化され強力な魔物は出ないが、時々弱小魔物は発生する。
魔素の霧は人に毒で、領民の体調を害する危険物。
その魔素に当てられたり、魔物のせいで怪我をした帝国民を治療する治療院が、正常に運営できないのは由々しき事態だ。
(でもあの霧、服が湿っぽくなるし化粧ノリが悪くなるから嫌なんだよね。
それに、魔素が溜まった治療院の計算なんて、数字がチカチカして頭痛がするし、その上、ゴルマン卿も一緒……)
考えただけで気が重くなる。
ローゼルが露骨に嫌な顔をした。
どちらかといえば、王宮魔術師か魔法省の管轄だ。
なぜ、自分なのか。どうも腑に落ちない。
「確かに、治療院は、国が助成金を支給しています。
だからこそ、治療院の利用履歴や魔素量から、発生予測を算出し、費用も複合計算式で概算する。
現地確認には魔術師初級程度を扱える役人の同伴が必須です。
とはいえ、それは法務省の私の役目ではないです」
「ははは、だからこそ魔術書中級を持つ君が必要なんだよ。
君も弱小魔物なら退治できるだろ?」
「そうですけど……」
ローゼルは語尾を弱めた。
魔法は滅多に使わない。
魔術書中級を取得したのも、五年ほど前になる。
それに、ユーモネア領地のゴルマン伯爵は元魔法騎士だ。
私程度の魔法使いの同伴は不要な気もする。
公平に判断する役人、という観点では必要かもしれないが……。
(う〜ん、ますます行きたくない)
というか、ゴルマン伯爵に会いたくない。
「最近はその魔術師中級を取得している官僚が少ないんだと」
ライアナースがぼやく。
「そのせいで、この前もイースティリア女官の異動の話があった。
しかも魔法省と財税省からだ」
ローゼルは耳を疑った。
確かに、魔法省には何度か応援要員として赴いたことがある。
同期のエレナも所属しているし、任される仕事内容も、魔力量が少なくても対応できる庶務業務や書類整理ばかり。
それなのに何かと感謝され、そこの上官から「うちに異動してこない?」なんて冗談っぽく言われたことはあった。
けれど、財税省には――。
「魔法省はともかく、財税省からのお誘いですか?」
ローゼルは思わずぎゅっと封筒を抱きしめた。
(あそこは嫌だ)
特に男尊女卑が酷く、女に計算業務は無理だと罵られ、小間使いのような仕事ばかり押し付けられた。
上官の目を盗んでは、先輩文官たちが「女官だから」と小間使いのようなお茶出しや給仕を命じてきて、挙げ句の果てには仕事合間のマッサージまでさせられた。
それだけじゃない。
反論すれば何されるか分からないと思って大人しくしていれば、そのうち、面倒な雑務を押し付けてきた。
そうかと思うと、ベテラン役人でも頭を悩ますという超難関の計算書までやるよう命令された。
いつかこれは何かの役に立つ、経験値を貰うんだ。
そう自分に言い聞かせ、夜通し小難しい専門書を開いて計算式をすべて解読した。
けど、結局その手柄もすべて先輩文官が持って行った。
あそこにいて唯一良かったと思うことは、忙しすぎてなかなか家に帰れない一方、驚くほど残業代でがっぽり稼げたことぐらい。
だからこそ、あの部署での正式所属はありえない。
絶対に嫌だ。
――俺の妾になれ。
不意に、財税省の官僚のあの脂ぎった声が蘇った。
グロウディーナ公爵子息の三男。
彼のことを思い出すだけで、指先が氷のように冷たくなる。
人目憚る回廊の脇に立たされ、耳元で囁かれた。
あの時、割り入ってきたエヴァンの背中だけが、暗闇の中の光だった。
(あのままあそこにいたら、乱暴されていたかもしれない)
まさに貞操の危機。
ローゼルは思わず腕をさすった。
眉間にしわを寄せるローゼルにライアナースは豪快に笑い飛ばした。
「大丈夫だ、財税省はとっくの昔に断ってあるよ」
ライアナース卿は気を取り直すように笑いかけた。
ローゼルはほっと胸をなでおろした。それでも心臓はまだ早鐘を打っていた。
「それこそ君が異動希望を出さない限り、異動を受け入れる気はないよ。
うちのエースを引き抜かれたらうちが困る。
もちろん魔法省がいいなら話を通すけど、できれば私の部下のままでいて欲しいかな」
法務省は小難しい法律専門用語ばかり並ぶ部署だ。
同僚たちは皆とにかく頭が良くて、時々何を言っているのかローゼルの脳ミソではさっぱり分からない、ちんぷんかんぷんだ。
けれど「教えて欲しい」と素直に言えば、ちゃんと理解できるまで噛み砕いて丁寧に教えてくれる。
この国は絶対君主制ではあるが、法治国家でもある。
国の方針を決める法律を司る部署だからこそ、皇帝や皇太子などの政務に携わる皇族たちと関わることも多い。
その分、法務省の人たちは礼儀正しく、性格も温厚で穏和だ。
(ここは、仕事をきちんとこなせば、女だからと馬鹿にもされないし、八つ当たりのように怒鳴ってくることもない)
とても居心地のいい職場――。
「私はここがいいです。異動したくないです」
「そうか。だったらここらで新しい一歩を踏み出すために、ユーモネア領地へ行って来なさい。
なぁに、新任領主にちょっと財務計算の手助けをするだけだ。
ゴルマン伯爵は元魔法騎士団員で、その上かなり二枚目で紳士的な男だぞ。
財税省所属の親の威を借るバカ息子とは全然違う。安心しなさい」
ライアナースはケラケラと朗らかに笑った。
確かに一理ある。
考えようによっては、全然知らない人よりはいいか。
「わかりました。
初めての一人出張、行って参ります」
ローゼルは気を取り直して答え、ライアナースの執務室を後にした。




