第87話 甘い敗北宣言と、路地裏に響く不穏な影
「ローゼはウィスキー飲める?」
ルシアンがローゼルの手に指を絡め、熱心に見つめる。
酒場のざわめきはあるはずなのに、ローゼルにはもう聞こえていなかった。
耳に届くのはルシアンの低くて甘い声と、グラスの触れ合う小さな音だけだ。
「ウィスキーですか?
そんなに量は飲めませんけど、すごく好きです」
「じゃあ、この後、飲みに来る?
俺の部屋にめちゃくちゃ美味しいウィスキーがあるんだ。……な~んて……」
「行きたいです!」
ローゼルは声を上げた。
「本気で?」
ルシアンは驚き、何度も目を瞬かせる。
何に驚いているんだろう。ご自分から提案しておいて。
そう思うものの、ローゼルの口の中にはすでにウィスキーの味が広がっていた。
*
目を輝かせるローゼルに、ルシアンは大きくため息をついた。
潤む蜂蜜色の双眸に、アルコールで上気する薔薇色の肌。
長い睫毛を伏せれば、そこには素面にはなかった妖艶な色気が漂っている。
ルシアンは自分が酒豪であると自負している。
ローゼルもそれなりに酒に強いようだが、さすがにルシアンのペースにはついてこられなかったようだ。
(これは、完全に酔っぱらっているぞ)
そりゃあそうだ。俺とほぼ同じペースでワインを飲んでいたんだ。
ふつうの令嬢だったら、すでに酔いつぶれて、今頃急性アルコール中毒だ。
しまったな、と後悔を滲ませる一方、酔ったローゼルはなかなかに可愛い。
無邪気ににこにこ笑う顔、明るい声。
けど、時折どこかぽーっとして、その危うさがルシアンの庇護欲をそそる。
(あ~、このままお持ち帰りしたい……)
ルシアンは頬杖をつきながら悶える。
それから、そっとご機嫌なローゼルの顔を覗き込むと、その視線に気づいたローゼルがにこっと可愛く笑う。
ルシアンはどぎまぎした。
(くそぉ、可愛すぎだろ。
俺の理性、持つかなぁ)
時々、若い騎士で酒の席で意気投合した女性と、そのまま勢い込んで宿屋へ出向き、既成事実を作ってしまう者がいる。
もちろん、魔法騎士団たるもの相手との合意があってこその行為。
一方的な性的欲求を押し付けるのは犯罪だ。
大抵そういうのは結婚願望が強く、けれど婚約者のいない独り身だ。
稀に欲望に抗えない既婚者もいるようだが、そんなふうに欲望に呑まれるようなことは、自分とは断じて無関係だ。
そう思っていた。
けれど、こんなに愛らしいローゼルを目の前にすると、自分の決意は揺らぐ。
彼らの気持ちが分からないでもない。
(まったく、分かってるのかねぇ、この子は)
ルシアンはワインを飲む。
騎士たちが彼女を子リス女官なんて呼んでいるのは、皆彼女とお近づきになりたいから。
容姿もだが、その仕事を頑張るひたむきさが、毎日地道な鍛錬を続ける騎士たちには共感を呼び、婚姻したい相手として名が上がっているのだろう。
——イースティリア女官のこと、本気なんですか?
ローゼルの同期ネイト・ファーヴァ書記官の挑みかかるような眼差しを思い出す。
——辺境伯嫡男のあなた様と子爵令嬢では身分差がある。
このままでは彼女が周囲から攻撃されてしまいます。
中途半端なのは止めてください。
ああ、そのとおりだ。中途半端はよくない。
だからこそ、保険をかけた。
リックランス公爵家。第2魔法騎士団長のアラン・リックランスの父親、魔法省大臣ピーテル・リックランスと、ローゼルを養女にできないかと内々に話を進めている。
あの家はこの国の四大公爵家の一つで、代々優秀な魔法使いを生み出すことで有名な血統だ。
このことは彼女の父、イースティリア子爵にはまだ話していない。
万が一の保険として、リックランス卿の協力を仰げるようにしただけ。
あちらとしては、我がクレインバール家との結びつきを強めたいし、陛下のお気に入りのイースティリア家とも仲良くなりたがっていて、要は、棚から牡丹餅のような話。
やぶさかではないということだ。
とはいえ、リックランス卿は、やはり生家であるイースティリア家から嫁げるのが一番いいとの考え。
無理に推し進める気はない。
あとは外野の様子を伺い、ローゼルを傷つけない方法で婚姻を結ぶ——。
「ルシ、これ、甘くて美味しいですよ」
デザートとして注文した砂糖漬けの胡桃をローゼルはポリポリ食べる。
その姿がまた小動物のようで可憐で、ルシアンをますます悶えさせる。
「いいか、ローゼ。ローゼに今後一切、お菓子やお酒をチラつかされても無闇に貰うなよ。
どんな薬が盛られているか分かったもんじゃないからな」
「出張土産はいいですか?
エレナとかレイノルドとか先輩官僚。
あと、一時帰国した時に外務省の同期がたくさん珍しいお酒とお菓子を買ってきてくれるんです」
ローゼルは目をキラキラさせた。
「外務省……。
あぁ、同期のランス・マクィーン卿か」
「はい、そうです。
実はですね、あれは何を隠そう、エレナに変なムシがつかないように渡される賄賂でもあるんです」
フフフっとローゼルは不敵な笑みを浮かべた。
「なるほどね」
ルシアンは小さく笑った。
婚約者エレナ・ヴァービナスが心配で、彼はローゼルに監視を頼んでいるわけか。
「じゃあ、信用できる人限定な。
それ以外は貰ったら駄目」
「っていうことは、ルシは問題なしですね。
一番信頼できる人ですから」
無垢なローゼルの眼差しがやけに眩しい。腹黒いと自負しているルシアンには少々目に毒だ。
「俺だって男だぞ。
用心しないと気づいたら食われているかもしれないぞ。
その場合、文句は受け付けないからな」
ルシアンはコツンとローゼルの頭を優しく叩いた。
「大丈夫です。
文句なんて言わないですよ。
ルシのところに行くときは、私が選択して私が決めたんだから」
酔っ払いながらも毅然と言い放つローゼルに、ルシアンはますます複雑な心境に陥る。
全然分かってねえぞ、これは。
「じゃあ、本当に来るか? 俺の家に」
冗談めいてルシアンが聞くも、ローゼルはまったく警戒心すらないのか、「はい、行きたいです」と逆に目を輝かせて言った。
ルシアンは間を開けて、ため息をついた。
「あのな、ローゼ。
俺、本気でウィスキー飲む前に、目の前の美味いもんを先に喰っちゃうよ。
それでもいいのか?」
「むむ……うまいもの?」
ルシアンはローゼルの額を指先で優しくぐりぐり押す。
ローゼルは眉間にしわを寄せて、額に当たるルシアンの指先を両手で押さえる。
「そう。
——なあ、この意味、ちゃんと分かっているか?」
「はい、分かります。全然いいですよ。
どうぞ」
「は?」
ルシアンは唖然とした。
駄目だ、これは。
庇護欲なんて可愛いものじゃない。
俺に対してまったく警戒心を抱いていないし、可愛い酔っ払いだけど、これはある意味アウトだ。
(ったく、こういう場合、どう受け取るべきなんだ?
嬉しいととるのか、逆に――)
「うわぁ、ルシの手って、すごく大きいですよね」
ローゼルは額にあったルシアンの手をそっと下ろして、まじまじと見る。
そのうち自分の小さな手のひらと合わせ始めた。
酒でほんのり赤くなったローゼルの手のひらは、ルシアンよりも一回りも小さくて柔らかい。
小さな爪にすべすべした滑らかな肌。
ローゼルに触られるのは、すごく気持ちがいい。
ご機嫌なローゼルは、徐々にルシアンの指に自分の指を絡めた。
「えへへ、なんかいいなぁ、この大きさ」
「そうか? なんか恥ずかしいな」
面映ゆい気持ちになって、ルシアンは苦笑した。
やがてローゼルは、握ったり広げたりし始めた。
しまいには、愛おしげに撫でるように触り始めるじゃないか。
ぞわっと甘美な感情がルシアンの心を占める。
まずい、非常に危険だ。
さっき、掠めるようなキスをしたけれど、それだけでは済まさそうだ。
ルシアンの邪な心に気づかず、ローゼルはうっとりとして呟く。
「恥ずかしくないですよ。
この大きな手が、国を守ってくれてるんですよ。
偉大な手だなぁ」
ルシアンは虚を突かれた顔になった。
「私、ルシの手、すごく好き」
「俺の手なんて、剣ダコでごつごつとして硬く、触り心地も良くないだろ」
「だから、いいんです」
ローゼルはそっとルシアンの手を自分の頬に当てた。
温かい。
そう思った。
――美しい顔立ちをしているくせに、おぞましいことをする野蛮人。
あなたの手は血塗られて汚らわしい。
ずきんと古傷が疼いた。
昔、どこかの令嬢に言われた言葉だ。それが急に蘇る。
いつだった?
そうだ、あれは七年前のマリュード皇国での小競り合いの戦闘の帰還の時だった。
嫌悪、侮蔑。
汚らわしいものを見るような目つき。
国のため、平和や治安を守るため。どれだけ綺麗ごとを並べ立てても、武官の俺が行っていることは殺人に間違いはない。
まだ自分も歳若かったのも相まって、今でこそ気にならないような台詞にひどく胸を痛めた青臭い覚えがある。
まるで失恋したような鈍い疼きだった。
なにせ、相手の令嬢が、色白でとても小さくて華奢。見た目が好みのタイプの女性だっただけに、衝撃が大きかったのだ。
ほろ苦く懐かしい感情。
(まあ、逆にあの一言があったから、一気に吹っ切れて総騎士団長という地位を全うできているんだよなぁ)
その後は、どれだけ冷酷で無慈悲と罵られても、国のためという大義名分のもと、戦争を勝利に導くためなら何でもやった。
気づいたら、反政府の連中たちへの残忍な拷問も平然とできるようになっていった。
人の皮を被った悪魔。
しまいには、そう呼ばれていた——。
それなのに、そんな奴の手を「偉大な手」だと呼ぶなんて。
「いつも私を助けてくれた手です。
これからも大好きですよ」
ローゼルが自分の頬にルシアンの手を擦り付ける。
好き。何気ない単語なのに、どうして彼女が口に出すだけで、こうも気持ちが昂るのだろうか。
何かを締め付けるような切なさが湧き上がる。
「あのさぁ、ローゼ。
ひとついい?」
「はい」
「今後金輪際、絶対に、何が何でも俺以外の男の部屋には入るなよ」
咎めるような口調でルシアンは言った。
「はい。大丈夫です。たぶん」
「おいおい、たぶんってなんだよ……」
「嘘。ルシ以外、ありえません」
ローゼルはにっこり笑った。
柔らかな春風のような温かい笑顔に、ルシアンは絶句するしかなかった。
(あぁ、参ったなぁ。
完全にローゼルに俺は惚れこんでいる。
勝てる気がしない)
ルシアンはローゼルの手を握って、席を立ち上がった。
「それじゃあ、行こう。ローゼ」
「どこへ?」
「俺の部屋」
そっと耳元で囁いた。
その瞬間、ローゼルはビクッとして自分の耳を押さえ、大きく仰け反った。
「くすぐったいです。耳は駄目」
ローゼルは口を尖らせた。
酔いに揺れる視線と、首筋に広がる紅潮。
たちまち、ルシアンの中で官能的で甘酸っぱいものが沸き起こった。
このローゼルの表情は、男として込み上がるものがある。
「分かった。
ローゼは耳が弱い、覚えておこう」
ルシアンは視線を逸らしながら、軽口を叩いた。
「えー、私、耳、弱いのかなぁ?」
ローゼルは納得がいかないと首を傾げた。
その仕草ですら、ルシアンの理性をじわじわ削っていく。
ローゼルに下心を悟られまいと必死になったルシアンは、余裕ぶってわざと、そっとローゼルの耳元で再び囁く。
「耳が駄目ってことは——そういうことだろ?」
「ひゃん!」
驚いたローゼルが一歩引いて、ますます赤ら顔になった。
「もう、分かっててやってるでしょ?」
怒った顔のローゼルにぞくぞくと愛しさが込み上げてきて、ルシアンは声を上げて笑った。
「あはは!
そうだよ、ローゼは怒った顔も可愛い」
その台詞にローゼルは熟れた林檎のように真っ赤になって、口をパクパクさせた。
表情がコロコロ変わって、からかうのもなかなか楽しい。
これは癖になりそうだ。
ルシアンはくっくっと愉快になって肩を揺らしながら、カウンターテーブルにお金を置いた。
「あっ、私の分は私が支払います」
ローゼルは慌てて財布を出そうとするが、ルシアンは止めた。
「こういうのは男が支払うもんだ」
「でも……」
ルシアンはローゼルの肩を引き寄せ、額にキスをした。
ローゼルは驚いた表情でルシアンを見上げた。
「行こう」
ルシアンは唇の端に艶やかな笑みを浮かべた。
「女将さん、二人分の勘定、ここ置いておくよ」
「あいよ!」
遠くから客の相手をしていた女将の返事が聞こえた。
「さっ、店を出よう」
賑やかな酒場を後にしようとすると、店の出入り口で女将がひどく慌てた声を上げた。
「ちょっと、あんた、支払い過ぎだよ!」
「メシ、うまかった。
ご馳走さん。
また来る」
ルシアンは明るい声で言い放つと、ローゼルの肩を抱いたまま店を出た。
「さぁ、ローゼ、乗って」
ルシアンは呼びつけたクレインバール家の家門のついた馬車に、ローゼルを乗せようとした。
もちろん、子爵家の御者に事情を話した上でだ。
だが、ルシアンの視界に、路地裏を心配そうに覗き見る人々が入る。
ぞろぞろ集まる群衆。
ただならぬ気配を感じた。
不吉な予感が胸に広がった。
結構飲んだはずなのに、酒がすっかり抜けていく。
もっともルシアンはどれだけ飲んでも酔うことはない。
身体や頭の芯は醒めている。
騎士としての本能があそこに何かある。
探らなければ。
そう信号を出した。
「ローゼ、ちょっと待ててくれ」
ルシアンは身体を翻そうとした。
けれど、突如くいっと何かに外套を引っ張られ、驚く。
振り返ると、ルシアンの外套の裾をつかんだのはローゼルだった。
「私も行く。
連れて行って」
目を潤ませながらローゼルはルシアンをじっと見つめた。
蜂蜜色の双眸がやけに艶めかしく、色っぽい。
ルシアンは言葉に詰まった。
「駄目だ。危ないかもしれないだろ?」
「ううん。行きたい。
ルシと離れたくないの」
「え……」
ルシアンは狼狽した。
俺と離れたくない?
とんだ殺し文句だ。
「ローゼ、それは卑怯だ。
こんな可愛いお願いをされたら、断れないだろう?」
「だったら断らないで。
連れてって。
一緒にいたいの」
酔いのせいか、敬語が抜けたローゼル。
貴重な無防備さにルシアンは言葉を失う。
参ったな。
ローゼルが可愛すぎて、足元がくらくらする。
俺は珍しく酔っ払ったんだろうか。
ルシアンは自分の体温も余計上昇するのを感じた。
そもそも、好きな女から一緒にいたいとねだられて断れる男がいるだろうか。
(……降参だ)
まさか冷酷非道鬼軍師と呼ばれる俺が、たった一人の女性の熱に酔わされるなんて前代未聞だ。
想像以上に浮ついた気持ちの自分に気づいて、ついつい自嘲気味になる。
はあ、とルシアンはため息をついた。
「分かった。俺から離れるなよ」
「うん!」
元気にローゼルがルシアンの腕をぎゅっと握った。
ルシアンは目を剥いた。
(ローゼルから俺の腕をつかむなんて)
ローゼルから求められているのをひしひしと感じ、ぐっと胸に迫るものがあった。
こんな時なのに、まさに感無量。
そのくせ、外の空気は冷たい。
余韻に浸る時間を与えてはくれない。
ルシアンは群衆のところに再度視線を投げた。
嫌な感じがする。
落ち着け。落ち着くんだ。
有頂天になる自分をなんとか自制して、ルシアンはローゼルと路地裏を遠巻きで見守る群衆たちのそばまで行った。
肌がピリピリとする。
群衆に近づくにつれて、ルシアンの頭が冴えわたる。
みんなが固唾を飲んで、一点をじっと見守っている。
「何があったんだ?」
ルシアンは、さり気なく路地裏を覗き込む人たちに尋ねた。
「ああ、ほら、見てごらん」
ルシアンに気付いた簡素な服を着た中年の男が、顎をしゃくった。
その先を辿ると、路地裏の、特に暗いところで複数の男たちが若い女性一人を取り囲んでいる。
ルシアンの肩がぴくっと動いた。
「あの子さ、花屋の娘なんだけどね、魔法騎士団様たちに容姿がいいからと囲まれちゃってね……。
すごくいい子だから助けたいのはやまやまなんだけど。
魔法が使えない俺たちじゃあ、とてもじゃないが太刀打ちできないんだよ」
群衆の男は声を潜めて言う。
眉をひそめたルシアンは、もう一度尋ねる。
「王都自衛警察団は呼んだのか?」
「ああ、俺が呼んだよ」
ルシアンの後ろにいた男が手を挙げて答えた。
「そうか」
(まったく、こんなところで見つけるとはな……)
たちまち頭に血が昇るのを感じた。
ルシアンは女性を囲む男たちを睨みつけた。
彼らが着用しているのは魔法騎士団の軍服だ——。
見つけたぞ。
(コイツらだ。
ネイト・ファーヴァ書記官たちに仕事を押し付け、任務を怠っている連中というのは)
ルシアンは大きく息を吸い込んだ。呼吸を整えようと深呼吸をする。
手っ取り早く、ここで俺が一網打尽するのが一番早い。
ルシアンは手を繋いでいたローゼルに「ここにいろよ」と声をかけようとする。
だが、その手のぬくもりがなくなった。
ついさっきまであったはずなのに、もうルシアンの指先はひんやりとし始めた。
「え? どこ行った?」
慌てたルシアンはきょろきょろ見渡した。
「おいおい。
あの子、大丈夫か!?」
群衆がざわめく。
見れば、小柄なローブ姿のローゼルがつかつかと路地裏に入っていく。
ルシアンはすぐさま危機感と焦燥感に駆られた。
背筋に冷たい汗が流れる。
「ローゼ……っ!」
ルシアンが人混みをかき分けて、声を掛けた。
だが、ローゼルはすでに彼らの真後ろに立っていたのだ。




