第86話 指先に落ちたキスと、闇夜に嗤う軍服の男
賑わう酒場のざわめきの中、カウンター席でローゼルとルシアンは肩を寄せ合う。
周囲の喧騒が遠ざかり、そこだけが二人の世界のように親密な時間が漂う——
「んで、巡回し終えて屋敷に戻るとさ、ひでぇんだよ。
屋敷の前でグロウディーナ公爵家の馬車が待ち構えてて、もう参った参った。
まあ、巡回も兼ねてもう一度城下町に来たわけだ」
ルシアンは、湯水のごとくワインを飲む。
ローゼルはその姿を半ば恍惚とするように見惚れた。
(かれこれ、ずっと飲んでるよ……)
目の前には空になったボトルが何本も並ぶ。
ローゼルがキープしていたワインボトルはあっという間になくなり、ルシアンは次々とボトルを注文し、どんどん酒を飲んでいく。
ローゼルは、空いたルシアンのグラスにワインを注いだ。
その深紅の液体が天井のランタンの光を映し、まるで宝石のように輝く。
「ありがとう。ほら、ローゼも飲んで」
今度はルシアンがボトルを手にとって、ローゼルのグラスにワインを注いだ。
トクトクと注がれる音が響く。
ゆっくりとグラスが満たされる。
「けど、まあ、逆に良かったのかもしれないな。
こうやってローゼルと会えたんだ。
すごいよ、まさに運命?」
ルシアンはお酒が進むにつれ饒舌になり、砕けた口調になってなんだか距離がぐっと近くなった気がした。
「運命だなんて……。
でも、私もこの出会いはすごいって思いました」
ローゼルの頬がほんのり赤く染まって、気持ちも高揚した。
「だろ?
俺とローゼは会うべくして会う運命だったんだよ」
その横顔をローゼルはじっと見た。
運命——
不思議だ。
ふだんならそんな「運命」なんて言葉、信じていないし、嫌いだった。
だって、受け入れてしまったら、レオーネとの婚姻もシャルルから浴びせられる虐待も、すべてが決められた筋書きになってしまう。
私はそんな筋書きに従う気はさらさらない。
だけど、どうしてだろう。
ルシアンが言うと自然と受け入れられる。
気恥しいような嬉しいような、心地いいくすぐったさ。
この人が運命の相手なら——
肩が触れ合うほど近く、ルシアンと視線が絡み合う。
その双眸は甘い熱を孕んでいる。
ルシアンからの眼差しは、まるで肌を直接なぞられているような感覚があって、酔いも相まったのか、じんわりとかすかな官能的な興奮を覚える。
——婚約者がいるくせに、どういう了見よ
不意に以前ナディア・グロウディーナ嬢が言い放った台詞が頭の中で蘇って、ローゼルの身体はびくっとなった。
悪魔。
今度はシャルルの叫び声が何度も反芻される。
ローゼルの顔は、青ざめているのを通り越して、白っぽくなる。
ざわめく心に不穏な影が横切り、衝撃に耐える。喉がからからになっていく。
「そんなに公爵家と縁付きになるのは、嫌なんですか?」
気づけば、ローゼルはとんでもない質問を口にしてしまっていた。
ルシアンから驚きと傷ついたような表情が見え、ローゼルはその表情にたじろいだ。
(私ったら、なんてことを口走ってしまったのかしら!)
鈍い痛みが走った。鳴り止まない心臓の大きな音。
「えっと、その、ほら、グロウディーナ公爵家のご令嬢三姉妹は殿方の憧れと聞いたんで……」
ローゼルは言い訳がましく必死で言葉を紡ぐ。
「だって公爵令嬢ですよ?
うまくいけば、公爵と親戚関係になれるし、クレインバール領土もさらに繁栄するんじゃないですか?」
ますます自分が余計なことを言い出す暴走を自覚しながらも、一度くすぶっていた不安とコンプレックスが堰を切ったら止まらない。
溢れ出る劣等感の言葉の数々。
「明日から伯爵位になるにしても、我が家はまだまだ辺境伯家からしたら格下で、私だって魔法を使えるけど、自分の身を守れないほど弱いし。
その点、公爵家というのは大きい後ろ盾になりますよ」
引くに引けなくなって、だんだんとローゼルの声も大きくなる。
(あわわわ、私の馬鹿。
なんてことを言い出すのよ)
ローゼルは自分の発言に狼狽し、すぐさま後悔する。
体を小さく縮こまらせ、居た堪れなくなって指をこねくり回す。
「私なんて魔法が使えることしか彼女に勝つ術がないんです。
雲泥の差だと思います。
私に価値なんてないと思います……」
最初こそ勢いづいていたくせに、語尾は弱々しくなった。
二人の間に、気まずくて、重たい沈黙が流れた。
酒場の賑わう喧騒が鮮明に耳に飛び込んできた。
(ナディア・グロウディーナ嬢の性格の悪さは私だって知っている。
二度と絡まれたくない令嬢だし、絶対にお近づきになんかなりたくない)
けど、グロウディーナ公爵家は外戚で国内外でも発言力は大きい。
この国の貴族社会を考慮すると、ルシアンの将来は公爵家と婚姻した方が有利なのは一目瞭然だ。
(突然こんなことを口にするなんて、きっと変な女だと思われているよね……)
彼は私の価値を示してくれている。
でも、身分とか考えるとやっぱり自信がない。
「それ、ローゼが言う?」
唐突にルシアンから気の抜けたような声が出た。
「俺、ショックだなぁ」
たちまちルシアンは小さい子どものようにいじけるような顔をして、テーブルに顎を乗せた。
「えっと……、ごめんなさい。だって……」
ローゼルは視線を落とし、ぎゅっとローブをつかんだ。
指先が震え、強く握り過ぎて白くなっていく。
ルシアンは、ちらっと子どもっぽい目でローゼルの顔を覗き込んだ。
「ローゼは公爵令嬢との縁談話は良縁だと言うが、逆に言えば、俺との縁談はローゼにとって良縁じゃないのか?
子爵令嬢、いや明日からは伯爵令嬢が辺境伯からプロポーズされてるんだぞ」
「そ、そうですけど……」
急に恥ずかしくなって、ローゼルはテーブルにある注ぎ終えたボトルに視線を投げた。
そこには気まずそうにする自分が映り込んでいた。
その時、反射したボトルに、ルシアンがむくっと起き上がったのが見えた。
それから、その口元が意地悪く上がっているのも目にして、ローゼルは思わず口を尖らせて言い返した。
「そもそもそういうの、自分でふつう言いますか?」
「それでローゼルが手に入るなら俺は何度も言うぞ。
公爵令嬢も喉から手が出るほど欲しがる有望株だってね」
胸を張るルシアンに、ローゼルは堪らずクスっと小さく笑った。
有望株も超絶有望株。
彼は間違いなく素敵な殿方だし、ローゼルにとって玉の輿と言っても過言ではないくらいのいい縁談話だ。
「何が不安? 身分?
それともナディア・グロウディーナ嬢が怖い?」
ルシアンは笑みを湛えたまま、椅子に座り直した。
「……そうですね。全部が不安です」
苦笑いを浮かべる自分の姿がボトルに映り込んだ。
(なんだか私、滑稽よね……)
ルシアンが突如身を乗り出して、ローゼルのローブのフードをそっと上げた。
目が合った。
彼の瞳の奥の熱に、ローゼルは一瞬躊躇う。
「じゃあ、今、楽しい?
それともここ数日俺に付きまとわれて迷惑だった?」
ローゼルは首を振った。
「いいえ。ルシ様……ルシとこうやって一緒にお酒が飲めるだけで楽しいし、幸せです」
「だろ?
結婚したら、もっと幸せになれるよ」
ルシアンは言い切った。
堂々と自信のある声。
「だけど……」
「なあ、ローゼ。
俺のこと、嫌いか?」
「それは……」
間違いなく、私はルシ様に惹かれています——
そう口に出せばいいのに、変に卑屈になってしまった今、素直に出てこない。
ルシアンがそっとローゼルの手を握った。
ローゼルは弾かれるように顔を上げた。
ルシアンの手は、冷え切ったローゼルの指先にはとても温かくて、心地良かった。
「あのな、俺にだって好き嫌いがある。
身分なんて俺がなんとかする。
俺はローゼがいいんだ」
さらに絡み合う視線。
ローゼルは、ルシアンの瞳の奥の熱に融かされてしまいそうな感覚に陥った。
「大丈夫、ちゃんと保険を用意してあるよ」
「保険?」
一体何のことを言っているんだろう。
身分ほど、自分の力ではどうしようもないのに。
ローゼルは首を傾げた。
「ローゼルが懸念している通り、世の中、子爵位と辺境伯だと外野が何かと五月蠅いのは間違いない。
伯爵位ならば及第点。
それでもとやかく言ってくるのであれば、俺はその保険を使うだけだ」
保険の内容はよく分からに。
でも、そこまで色々考えていてくれたなんて。
ローゼルは目を瞬いた。
この人、本気なんだ。
本気で私を自分のお嫁さんにするつもりなんだ。
ルシアンは肩をすくめ、手を伸ばす。
その美しい指先は、ローゼルの栗色の髪を撫で、やがて毛先で遊び出した。
妙に艶めかしさを感じて、鼓動が速まった。
「ローゼの憂いは俺が払いのける。
それでも、この先の未来、全部が全部解決できないこともあると思う。
その時は、一緒にアイディアを出し合って考えよう」
瑠璃色の彼の瞳に吸い込まれそうだ。
まるで双眸から強い光が差し込んだような錯覚。
「——私、足を引っ張りたくなったんです。
足枷になりたくないっていうか」
ぽつりとローゼルから言葉が漏れた。
「足枷?」
ルシアンは首を捻った。
「はい。私自身が努力して得られることは何でもします。
私だって、好きな人と一生添い遂げられるなら添い遂げたいです。
でも、身分だけはどうしようもないんです。
だけど、その憂いがないようにしてくれようとしているなら——」
感極まってローゼルは、言葉に詰まった。
ルシアンを見上げる視界が滲む。
つい、潤んでしまう。
「そのお気持ちが、本当に嬉しいです」
ローゼルはにっこり笑った。
花が咲いたように華やぐローゼルの笑顔に、たちまちルシアンの目が大きく見開いた。
次の瞬間、ルシアンが何かに堪えるように天井を急に仰ぎ見た。
「くそっ……」
小さく呟く。
「あ~、早くローゼが婚約破棄しないかなぁ……。
今すぐにでも連れ帰りたい」
ルシアンから呻く声が聞こえた。それから、ローゼルの顔を切なそうに見て、そっとその前髪をかきあげた。
「ローゼの婚約破棄申請は、あとウルーム伯爵のサイン待ちなんだってな」
「……はい。肝心のウルーム伯爵は行方不明で、いつ婚約破棄できるか分かりません」
「そうみたいだな。
伯爵の捜索は難航しているみたいだし」
ローゼルは暗い気持ちになってきた。
ウルーム伯爵が見つかったとしても、あちらはローゼルに婚約続行を望んでいる。
話し合いは平行線だ。
いつ正式に婚約破棄できるか分かったものじゃない。
現実はそう簡単にうまくいかない。
その時、ローゼルの腰にルシアンの腕が回って引き寄せられた。
「なあ、ローゼ」
ルシアンは改まった声でローゼルを呼んだ。
「ウルーム伯爵子息との婚約破棄も秒読み段階なんだし、一緒に暮らさないか?」
「え?」
「ローゼがこういうところで飯を食うのって、同期会とかそういう飲み会じゃない場合、イースティリア夫人が原因なんだろ?」
「まあ、そうですね」
「今日も大暴れ?」
「はい。お恥ずかしながら……」
「じゃあ、前も話したけど、この際だ。俺のところに引っ越しておいで」
ローゼルは目を見開き、心が揺さぶられた。
好きな人と暮らせる——。
なんて、甘美なお誘いなんだろう。
つい頷きそうになる。
けど、それは良くない。
「だ、駄目です」
ローゼルはぶんぶん首を振った。
「さすがにグロウディーナ公爵の末娘が熱を上げているし、婚約破棄できていない状態では、恋人と名乗るのは恐れ多いです。
彼女のことです。
法的にも認められている婚約者じゃないと、いろいろ嫌がらせしてきそうです」
いや、正式な婚約者になったとしても彼女の場合、何をしでかすか分かったもんじゃない。
「それだよなぁ」
眉をひそめて、ルシアンはぽりぽり頬を掻いた。
「はい、私、彼女とは関わりたくないです」
「俺も関わりたくない。
っていうか、あそこの家門、嫌いなんだよねぇ」
「いいんですか?
そんなぶっちゃけ話して」
「構わないさ。
知ってる奴は知ってることだ」
ルシアンはローゼルから離れて、くいっと一口でワインを飲み干す。
ローゼルも離れたルシアンになんとも言い難い寂しさを覚えながら、ワインを口に含んだ。
さっきまであんなに美味しかったワインの味がなんだか苦く感じる。
「ウルーム伯爵、グロウディーナ公爵。
厄介な面子だねえ」
ルシアンは、コツコツとテーブルを指で叩く。
「まさか昨日サロンでグロウディーナ公爵が登場してくるとは思わなかったよ。
あんな風に分かりやすく妨害しやがって。
よっぽどウルーム伯爵を軍部に渡したくないようだ」
「……そのようですね」
それはローゼルも同感だ。
「ウルーム伯爵もウルーム伯爵で、よっぽど破棄したくないみたいだし」
含みのある視線をルシアンはおもむろにローゼルに投げた。
「まあ、これだけ可愛ければしかたないか」
ルシアンは、わしゃわしゃとフードの上からローゼルの頭を撫でる。
彼に触れられるのは嫌いじゃない。
むしろ、嬉しいとさえ思ってしまう。
だけど、なんだか気恥ずかしさが込み上げてきて、ローゼルがその手を優しく振り払う。
「もう、酔ってますよね」
「いや、酔ってない。
あー、でも、ローゼには酔っているけどな」
さらりと甘い言葉を口にするルシアンに、ローゼルは顔がカッと熱くなった。
まただ。
不意打ち。
「いいえ、絶対酔ってます」
「あはは」
ルシアンはあどけない表情で声を上げて笑った。
なんか悔しいな。
私、この人の言葉で一喜一憂している。
長年婚約していたレオーネなんて、私にそんな甘い台詞一つも言わなかった。
それなのにこの人は王城でダンスをして以来、欲しかった言葉、望んでいた言葉をさらりと言ってくれる。
心の中にぽっかりと空いていた穴が、彼の優しさや温かさで満たされていく。
(どうしようもないくらい好きになっちゃってるよ、本当に)
ローゼルがまじまじとルシアンを見つめていると、ルシアンは柔らかい笑顔を向けた。
ふと、漆黒の彼の髪が目の前にぐっと迫る。
次の瞬間、ローゼルは口を柔らかなものに塞がれていた。
ルシアンが口づけをしたのだ。
それはほんの一瞬。
女将さんも酒場の客も気にしない、刹那。
すっとルシアンは顔を離す。
「俺は婚約破棄しようがしまいが気にしない。
いつでも俺のところにおいで」
ルシアンはローゼルの手を握って持ち上げ、愛おしそうにもう片方の手で包み込む。
大きい手。
麗しい顔立ちなのに、女性とは違う逞しい腕、指。
甘ったるい気持ちが全身に広がった。
「大好きだよ」
ローゼルの指に、ルシアンはちゅっと音を立てたキスをした。
その途端、ローゼルの心臓が波打ったように大きな音を立て、背筋が甘く震えた。
くすぐったい。
熱に潤んだ目で見上げる。
(あぁ、私の方が、すっかりルシに酔ってるのかも)
なんだか足元がふわふわする。
すごく嬉しくて、何故か無性に泣きたい気分だ。
***
その頃、王都の川べりでは——
酒場の温かな雰囲気とは対照的に、暗く澱んだ川べりの路地裏は冷たい闇に包まれていた。
背の高い銀杏の木が立ち並ぶ。
薄暗い灯の下、三人の男たちに囲まれた若い女性は、逃げ場を失っていた。
「可愛いじゃん、ねえねえこのまま俺たちとさぁ……」
女性は身をすくませ、恐怖で動けない。
「うわぁ、怖がっちゃって可愛い」
一人の男が女性の顎をつかんだ。
「顔も可愛ければ態度も超俺好み」
「俺は胸だな」
「えー、じゃあ俺は……」
下卑た男たちの笑い声が路地裏で響き渡る。
その光景を遠巻きに見つめる人々は、足を止めながらも声を上げることなく、ただ沈黙の中でどうしようかと気を揉む。
助けに入ったところで自分たちはやられる。
なんといっても彼らは天下の魔法騎士団だ。
あの軍服がなによりも彼らの強さを物語っている。
それどころか罪をでっち上げられ罰せられるかもしれない。
皆恐々と目配せし合う。
冷たい夜気が張り詰める。
男の一人が通りから注がれる視線に気づき、ちらっと見た。
人々は肩を震わせて、サッと視線を逸らした。
その反応に気を良くしたのか、男は、ニッと口が裂けたように勝ち誇った笑みを浮かべる。
誰も俺達に敵うわけがない。




