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カァーム・ビュラクラト ―社畜女官ローゼルの婚約破棄奮闘録― 私は何も望まない  作者: 兎丸 蓮


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第85話 小指に結んだ約束と、燻る誘拐犯の影

 一瞬、時が止まった気がした。


 ローゼルが目を見開いたのと同時に、ルシアンも大きく目を見張っている。

 

 まさか、こんな場所で。

 喜びと興奮で胸が締め付けられるような、それでいて嬉しくて舞い上がりたい気分になった。

 

「え? マジ? ローゼ?」


 きっとルシアンもそう思ったに違いない。

 ルシアンも驚いた様子だけど、心なしか声が弾んでいたし、頬を綻ばせ、目元が一気に優しくなった。


(すごい偶然……!)


 自分がかつてないほど心が騒いで、うきうきしている。

 店のランタンよりも温かいものを頬に感じた。


 けれど、ローゼルはふと我に返った。

 有頂天になっていてすっかり忘れていたが、上流貴族の彼が来るような場所ではない。


「あの、ルシ様。なんで、いらっしゃるんですか? 

 ここ、下級貴族か少し裕福な平民たちが来るような店ですよ?」


「いやぁ。巡回のついでにぶらっと立ち寄ってみたんだ」


 嬉しそうにホクホクとした笑顔を浮かべたまま、ルシアンは席を移動して、ローゼルの隣に座った。


「いろいろ一人で考え事をしたくて……驚いた」


 ルシアンは頬杖をつき、じっとローゼルを熱心に見つめる。


「すごい偶然だ。

 会えて嬉しいよ」


 そんなルシアンの眼差しに、ローゼルは胸が高鳴った。

 なんとなく恥ずかしくなって、話題を逸らす。


「考え事をしていたんですか?」


「そう」


 ルシアンは店先の酒のボトルに視線を投げ、ぼんやりと呟く。


「この店に昼間務めている娘が行方不明になったことがあったんだ」


「行方不明って、婦女連続殺人事件のハイネのことですか?」


「そう、その子。

 ひょっとして、その被害者と知り合い?」


「いえ。女将さんから話を聞いてたんで。

 間接的な知り合い?」


「ああ、なるほどね。そうか。

 ——どうもあの事件は不可解でね」


 ルシアンの目はどこか遠い。


「移民の女性を狙うなら、夜の街で働く女性の方が攫いやすい。

 それなのに、あえて昼間の人目のある時間に攫った。

 最近じゃあ、移民女性だけじゃなく、帝国民の女性も誘拐されていたし、あれに選ばれた条件を知りたかったんだ」


「条件ですか」


「そう。誰でもいいってわけじゃない。

 犯人は用意周到に被害者の周辺を探って、自分たちの条件に該当する女性だけを攫ったんだ。

 ……って、ローゼはここまでどうやってきた?」


 ルシアンは急にハッとして、ローゼルに尋ねた。


「私は馬車で近くまで来ました。さすがに店先まで送ってもらうわけにはいかなかったので。

 もちろん、すぐそばの路肩で今も待機してもらってますよ」


「そうか、それならいい」


 ルシアンは胸を撫でおろすと、頭を抱えるように両肘をテーブルにつく。

 はあ、と大きなため息をついた。

 重たそうに瞼を閉じ、こめかみを強く指先で押し込んでいる。


 これはかなり疲れている様子だ。


 でも、そうか。

 私は今日お休みをもらえたけど、彼は違う。


 昨晩私が襲われた暴漢事件以外にも、ウルーム伯爵失踪事件に、王都内での魔法騎士団員の乱暴な振舞いに対しての取り締まり。特に王都治安に関しては、昨日グロウディーナ公爵に苦言を示されている。


 他にも私が知らないだけで多くの事件や事案を抱えているに違いない。


 それなのに、自ら王都に出向いて巡回にあたっている。


(これは情報収集も兼ねてなのかな?)


 ローゼルは能天気にルシアンに会えたことを喜んでいる場合じゃなかったと、自分の配慮のなさを悔いた。


 ここまで疲労困憊なルシアンは初めてだ。

 ローゼルはちらっとルシアンの横顔を盗み見た。


「あの、ルシ様」


「ん?」


「お一人で考え事をしたいんですね?」


「え、あ……まあ、最初はそう思っていたけど……」


「あの、私、食べたらすぐに帰りますから、その後ごゆっくりしてください」


 ローゼルは慌ててローストビーフを口に入れようとした。


「あっ、いいよいいよ。さっきの気にしないでくれ。

 この際だ、一緒に呑もう。

 舞踏会の時、『一緒に飲みに行こう』って約束していたしな」


 ルシアンはにこっと屈託なく笑って、小指を見せた。


 ローゼルは、思い出す。


 舞踏会の夜に王城のバルコニーで大きくて骨ばった小指に、自分の小指を絡めたことを。

 瞬時に、あの月夜の舞踏会のことが蘇り、鼓動が速まった。


 覚えていてくれたんだ……。


「いいんですか?」


 すごく疲れた顔をしているのに。


「いいんだよ。

 本日の巡回はもう終わりだ」


 ルシアンは手をひらひらさせた。


「……それじゃあ、もし良かったらルシ様もワイン飲みますか? 

 気分転換になるかも。

 私、これでもボトルキープしているんです」


 ルシアンはローゼルとワインボトルの両方を見て、ぷっと吹き出した。


「本当に酒、好きだな。

 んじゃあ、もらおうかな」


 ルシアンがにっと笑った。

 同時にローゼルの顔も一気に綻んだ。


「女将さんー! 

 ワイングラス、一つください!!」


 ローゼルはさっそく手を挙げてワイングラスを頼む。

 女将が「あいよ」とワイングラスを差し出した。


「おやおや、なんだい、あなたたち。

 知り合いかい?」


 女将はからかうような声音で交互に二人を見た。


「はい。実はそうなんです」


 ローゼルはなんだか誇らしい気分になって、明るい声を出した。

 くすぐったさと恥ずかしさ、すごく晴れがましい気持ちだった。


「そうかい。道理で。お揃いにローブのフードなんか被っちゃってさ」


 意味深な視線を向けながら、女将は笑った。


 ローゼルとルシアンは顔を合わせた。


「本当だ、一緒だ」


 互いに笑い合った。


 当然だ、二人が着ているのは王宮から支給されているローブで、身分を隠すのにちょうどいいのだ。


「まあ、ごゆっくりね。お二人さん」


 ニヤニヤ笑いながら女将が立ち去った。

 なんだか照れくさい。それはルシアンも同じなのか、鼻の頭を掻く。


 すっかり舞い上がったローゼルは、ルシアンの前にワインを差し出した。


「さっ、ルシ様。お飲みになってください」


 ローゼルはグラスにワインを注いだ。


「ありがとう。

 でも、その様付け、嫌だなぁ。

 貴族だってバレバレじゃん」


「ルシ様は見た目ですぐ分かりますよ、貴族だって。

 格の違いっていうか、何よりもうっとりするぐらい綺麗なんですもの」


 くすっとルシアンは小さく笑った。


「その言葉、そっくりそのまま返すよ。

 ローゼの方が貴族らしい気品があるし、綺麗で可愛い」


 ローゼルは一瞬固まって、次にはカッと頬が熱くなった。


(平然と「綺麗」と「可愛い」を連発した!)


 美しい容姿の人が発するこの単語は、とんでもない破壊力がある。 

 そんなルシアンは、艶やかな流し目をローゼルに向ける。


「それに、ローゼルの可憐さは一際目を引くんだよ。

 男ならつい振り返るほどにね」


 もう、この人は恥ずかしい台詞をこうボンボンと言っちゃうんだから。

 甘酸っぱくて、どこか照れくさい。


「それはルシ様ですよ。

 女の子なら絶対見ちゃうくらいカッコいいんですから」


 今だって酒場にやって来た女の子たちが、キャーキャー黄色い歓声を上げながら、こっちをチラチラ見ている。


 ローブを被っているから特に顔が見えるわけじゃない。

 それなのに、こんな時、どうして女の子は鼻が利くんだろう。


 生まれつきイケメンセンサーでもついているのかしら。

 ローゼルはちょっぴり怒りに似た苛立ちを覚えた。


「カッコいいねぇ……。

 それ、ローゼも当てはまる?」


 ふいにルシアンが真面目な顔で尋ねた。


「え……。そりゃあ」


「ふうん。それは悪くないな。

 ローゼにカッコいいと言われるのはいい気分になる」


 ルシアンは背もたれに腕を掛け、ローゼルをじっと見つめた。


 魔法灯の琥珀色の淡い光が揺れる。


 頬や肩の線に濃い影が落ち、洗練された色気を漂わせる。

 その唇に浮かぶ微笑みは甘美で危うく、その目尻に柔らかな影を落とす。


 疲労が浮かぶその表情すら憂いを帯びていて、彼の官能的な甘やかな魅力がローゼルを包み込む。


(い、色気がすごい……)

 

 感じたことのない甘い疼きにローゼルはたじろいだ。

 

「っていうか、ほら、様付けしたぞ」


「あっ……」


 指摘され、ローゼルは口元に手を当てた。


「名前で呼んで。ほら」


 ルシアンがじっと期待を込めた目でローゼルを射抜くように見据える。


 ローゼルの肌に火を近づけられたかのように熱くなり、たちまちカッと赤面した。

 眩暈するような甘い緊張感。


 ローゼルはもじもじしながら、そっと囁く。

 ナイトマーケットの時みたいに。


「じゃあ、……ルシ?」


「ああ、それがいい」


 パッと華やぐようにルシアンはにっこりと笑った。


 胸が甘くどきんと弾けた。


 ローゼルは面映い気持ちでルシアンを見上げた。


 まるで子どものようにあどけない笑顔。

 目元がくしゃっとして、なんだか眩しい。


 手元にあるグラスの縁が宝石のようにきらめき、ローゼルは圧倒的に強い輪郭を持つ彼に心を奪われる。


「呼び方が定まったことで、乾杯しようか、ローゼ」


「はい、ルシ様」


 勢いづいて返事をするものの、ルシアンの目が鋭くなって口をすぼめる。


「ローゼ」


 非難めいた声。


「ごめんなさい、えっと……。ルシ」


 控えめにローゼルがその名を呼ぶと、ルシアンは美しい歯を見せてニッと口角を上げた。

 

(駄目だ、この笑顔に私、弱い。

 勝てる気が全然しない)


「それじゃあ」


 グラスをルシアンが持ち上げたので、ローゼルも慌ててそれに倣う。


「今日もお疲れ様でした」


 ワイングラス同士を合わせる。

 カチンとグラスから透明な音色が祝福の鐘のように鳴った。

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