第84話 隠された紋章と、予期せぬ邂逅
――ルシアンが軍部次官長オークレー卿に呼び止められていた頃。
「お嬢様、今日は外で食事を召し上がって来てください」
ローゼルが屋敷に到着して馬車を降りるなり、出迎えたマーサとパトリシアが口を揃えてそう言った。
ローゼルはきょとんとした。
「え? なんで?」
その時、屋敷の二階の窓が割れ、椅子が飛び出してきた。
椅子はそのまま地面に落ち、無残に打ち砕かれた。
ローゼルは心臓が飛び出そうなほど驚いた。
「――――――――――――――――!」
屋敷の中からシャルルのヒステリックな叫び声が聞こえ、ローゼルは胸を突かれるような息苦しさと恐怖心を覚えた。
全身が凍り付いてしばらく動けなかった。
「今のって……」
ようやく出た声は震えていた。
心臓が激しく鳴る。
全身がひんやりとして、指先が震えるのを感じた。
「落ち着いてください、奥様」
「奥様、どうか穏やかに」
窓が割れた部屋の中では大騒ぎになっている。
シャルルが暴れ回っている声が聞こえ、物が壊れる音と悲鳴が混じり合った。
恐怖するローゼルを尻目に、マーサとパトリシアが顔を見合わせ、深いため息を同時につく。
「実は奥様があのとおりでして……」
「――――――――――――――――!」
まただ。
何語か分からない言葉で、シャルルの悲鳴に近い叫び声。
ローゼルは思わず耳を塞いだ。
歯を食いしばる。
悪魔。
一瞬、その言葉が聞き取れた。
あれは、マリュードナバロー語だ。
頬を打たれたようにローゼルは自分の身を自分で抱きしめた。
聞いちゃいけない。気にしちゃいけない。
聞き慣れない異国の言語の数々が並ぶ。
悪魔。
またその単語が飛び込んできて、ローゼルは震え上がった。
彼女は私を罵っている。
そう感じた。
きっと目は白眼に裏返って、硬直した筋が細い首に青く浮かんで、御しがたい嫌悪を滲ませているだろう。
それからおぞましい毒虫か、汚らわしいものを目の当たりにした時の反応と同じようにローゼルを見下ろす。
噴き出すような凄まじい憎悪。
母の本を暖炉の火で目の前で燃やされた時。
あの時と同じ感情がローゼルの中で沸き起こった。
衝撃と拒絶された驚きや寂しさ。
それが長い年月を経て、じわじわと屈辱に変化していく。
「――――――――――――――――……」
だんだんとその声が弱々しくなって、小さく消えた。
悪魔。
声は聞こえなくなったのに、シャルルの声が鐘のように鳴り響いてローゼルを罵っている。
癒しがたい屈辱だ。
こんな人に私はずっと抑圧されていたなんて——。
「――お義母様って、今日はお父様と王城でパーティーじゃなかったの?」
ローゼルは青ざめた顔で、マーサとパトリシアに尋ねた。
「それが……」
二人の顔が曇って、顔色まで悪くなった。
「旦那様から、旦那様の御友人が行方不明というお話を聞き、それからあんな感じで……。
今ちょうどお医者様に鎮静剤を打ってもらったところだと思います」
恐る恐るパトリシアが割れた窓の部屋に視線を飛ばした。
「お父様のご友人……。
ウルーム伯爵のことだね」
ローゼルがあっさりと答えると、二人は気まずそうに目配せし合い、神妙に頷いた。
「それで、お父様は王城にはもう向かった?」
「はい。つい先程。陛下をお待たせできないからと」
「そう。で、デジールは?
あの子、怯えていない?」
個人的にローゼルは、継母シャルルには一切いい感情を抱いていない。
だけど、デジールはまだまだ子どもで、腹違いでも可愛い弟だ。
あの子に哀しい思いをして欲しくない。
「デジール坊ちゃんは旦那様の許可の元、幼馴染のレントル子爵邸のところにお泊りすることになり、メリー先生が先程連れて行きました」
マーサが答えた。
「そう。よかった」
ローゼルはホッとした。
こんな取り乱した母親を目の当たりにするのは、あまりにも衝撃的で可哀想だ。
ローゼルはどす黒く思い屈辱を抱えながら、大きなため息をついた。
まったく毎回迷惑な人だ。
どこまでみんなを困らせば気が済むのだろうか。
「お嬢様。
心苦しいのですが、鎮静剤で落ち着いたといっても、いつ奥様がまたご乱心になるか分からない状況です。
お嬢様がお屋敷に戻りになったと分かったら、奥様の怒りの矛先がお嬢様に向いてしまうかもしれません」
パトリシアが切実な声で訴えた。
「なるほどね。
それで外で食事をしてきてと……」
「はい、左様で」
パトリシアとマーサは申し訳なさそうに身を縮こまらせた。
目にはうっすら涙が浮かんでいる。
きっとこの二人は、ローゼルが不条理な目にシャルルのせいで遭ったことを悔しみ、今も守れないことを悲しんでいる。
「そんな顔しないで」
ローゼルはそっと二人の腕をぽんと叩く。
「いろいろ気を遣わせてごめんね。
そうだね。
私も外で夕食を食べて来るね」
にっこりと笑った。
侍女二人は苦笑を浮かべ、すまなさそうな顔をした。
「本をね、何冊か買ったの。
それだけ部屋に運んでおいてくれる?」
ローゼルはわざと明るい声を出し、馬車に積んであった魔導書をパトリシアとマーサに手渡した。
二人は静かにお辞儀をした。
「さて、外でご飯を食べに行くことにしたの」
馬車の元まで戻り、ローゼルは御者マチアスに声を掛けた。
「承知しました。
どこへ向かいましょう」
白髭をたくわえたマチアスが、励ますようにローゼルに尋ねた。
「そうねえ……」
ローゼルは思い悩む。
「これは提案なのですが、いつもの川沿いの店に行ってみますか?
そろそろ営業再開していると思いますよ」
マチアスが明るい声で言った。
「うん。そうしよっか。
それじゃあ、二人ともあとはよろしくね」
ローゼルは再び馬車に乗って侍女二人に笑顔で手を振った。
ゆっくりと馬車が走り出す。
二人は複雑そうな顔で静かに頭を下げた。
*
継母シャルルがいつもローゼルに向ける眼差し。
子どもじみた剥き出しの嫉妬と怒り。
あの人が私を嫌い、虐げる理由なんて簡単だ。
私は、彼女の愛するウルーム伯爵が可愛がる義理の娘だから――。
彼女にとって、そんな娘の存在すら許せないだろう。
そんなシャルルがお茶会から帰って来るたびにいつも漂う花の匂い。
強烈で淫靡な感じの香りだ。
シャルルからその香りを嗅ぐたびに、ローゼルはドギマギしてやけに落ち着かなくなる。
だって、それはウルーム伯爵がいつも身に纏っている香りだから。
それに、ローゼルは、魔力感知だけがやけに秀でている。
だから気づいた。
ああ、二人は間違いなくそういう仲なんだって。
睦み合う男女は似た魔力を漂わせ、そして、同じ匂いを纏っている。
――ローゼル、知っている?
魔法が使えなくても、ほんの少しならみんな生まれつき魔力を持っているんだよ。
だからね、男の人と女の人が睦み合って肉体が交わると、魔力も身体の中で交わって、お互いに似た魔力に染まるんだよ。
あれは、いつだっけ。
エレナがそう言っていたのをローゼルは思い出す。
確か、魔法省の先輩で風変わりな研究をしているって話になって、そういう話題になったんだよね。
その研究がうまくいけば、新しい治療法として確立できるとかって。
強くて甘い花の匂い。
揺らめく二人の似た魔力。
二人の関係をそこでローゼルは確信した。
苛立ちにも似た感情。
憎悪と怨嗟。
そして、やっぱりな、という諦め。
父が領地にいっている留守中に、二人はお茶会と見せかけて宿屋で何度も逢瀬を重ねていたのだ。
それはパトリシアもバルセシャンも、この屋敷の者はみんな気付いている。
けれど、なんとなく口に出すのは憚れるとばかりに、話題にすることはない。
ウルーム伯爵はその負い目もあるのかしら、ローゼルには優しくて毎年誕生日にはたくさん贈り物を送ってくれる。
(まあ、それも全部お義母様に没収されるんだけどね)
ローゼルは自嘲を浮かべ、不貞腐れたような気分になった。
「お嬢様、そろそろ下町に到着します」
マチアスがローゼルに声を掛けた。
「ありがとう。
その辺で停めてくれる?」
馬車が路肩で停車したので、ローゼルは外套をフードまで被って馬車を降りた。
「お嬢様、お気をつけくださいね」
「うん、ありがとう」
ローゼルは、喧騒の中に紛れ込んだ。
石造りの古い建物が並ぶ裏通りをローゼルは歩く。
店先で客を呼び込む声や、店の外まで聞こえる陽気な酒を酌み交わす笑い声。
肉を焼く匂い。
平民たちが集まる酒場町だが、どっしりとした街並みで、活気があってローゼルはここをすごく気に入っている。
街道は各店先の篝火や魔法灯で明るいし、治安も女一人歩いても問題ない。
時折貴族官僚たちがお忍びで飲み歩いていたりしているぐらいだ。
川べりのローゼルの馴染みの酒場は、ちゃんと営業していた。
「あら、ローゼちゃん。こんばんは」
ローゼルが店に入ると、早速顔なじみの中年の女将が両手に杯を持ちながら声を掛けた。
「こんばんは。女将さん」
「久しぶりだね、元気してたかい?」
「はい。お陰様で。お店も落ち着いたようで」
ローゼルは店内をそれとなく見回す。
ここは昼間、大衆食堂として営業している。
その看板娘が一時期行方不明となり、その捜索のお手伝いとかで一時期休業していた。
「まあね。ハイネも救出されたしね」
女将は小さく肩をすくめた。
「彼女、軍の施設で保護されているって聞きましたけど。お会いすることはできました?」
ハイネというのは、その看板娘の名前だ。
ローゼルと年齢も近い。
他人事と思えず、ローゼルはそっと尋ねた。
「ああ、会ったよ。一回だけね。
でも……。
まあ、いろいろあるよね。
あっ、ローゼルちゃん。
いつもの席、空いてるよ」
女将ははぐらかすように笑って、ローゼルが毎回訪れるたびに座る席――カウンター席の一番角を顎でしゃくった。
「ありがとうございます」
ローゼルはそれとなく微笑んで、腰を下ろす。
どうやら噂どおり、ハイネという看板娘は精神をかなりやられてしまったようだ。
なにせ、半年前から王都を騒がせていた婦女連続殺人事件の唯一の生き残りなのだから。
反政府組織の犯行で、犯人はまだ捕まっていないとか。
(ここんところ、本当に物騒よね)
ローゼルは自分の身に起きたことを振り返りながら、しみじみ思った。
「今日はどうする?」
他のテーブルに杯を配り終えた女将がすぐそばまでやって来た。
「今日のおすすめは何ですか?」
「子羊のローストビーフよ」
「わぁ、美味しそう。
それじゃあ、それ、お願いします。
あとバケット1人前にこの前ボトルキープしておいた赤ワインもお願いします」
「あいよ。ちょっと待っててね」
女将はその場を離れた。
ローゼルは頬杖をついて、ぼーとカウンターの棚に並ぶお酒を眺める。
ここは異国からのお酒を種類豊富に揃えている。
色とりどりの瓶。
この国では思いつかないような突拍子のない形の瓶。
知らない異国の名前と文字ラベル。
見ているだけでワクワクする。
ふいに家を出る前に聞いたシャルルのあの叫び声が反芻され、ぎくりとする。
どうして、彼女がマリュードナバロー語を叫んだのか。
シャルルは語学が堪能ではない。
むしろ、ここ帝国の母国語しか話せない。
それなのに、なぜあの言葉だけマリュードナバロー語で叫んだんだろうか?
悪魔。
聞き取れた単語。
あれは間違いなく私に向けた言葉だ。
そもそもマリュードナバロー語は敵国マリュード皇国の母国語。
亡ナバロー王国が使っていた言葉でこの国では忌まわしいということで滅多に使わない。
使うとしたら、同期のランス・マクィーンみたいな外交官とか、貿易商。
あと、マリュードナバロー語を元に代々受け継がれている古い宗教の教義を信仰する人。
信仰――。
何かが頭の中を掠めた。
そうだ、あの紋章。
今日尾行していた男たち。
彼らの白いガウンにあった刺繍の紋章は――
「はい、どうぞ」
女将がワイングラスと赤ワインのボトルをローゼルの前に置いた。
ローゼルはハッと息を呑んだ。
「これも食べて」
女将からナッツ入りのサラダも目の前に差し出された。
「え?」
頼んでないけど?
ローゼルが女将を見ると、彼女はにっと笑った。
「サービス。
今後とも御贔屓に」
「嬉しい。ありがとうございます」
ローゼルは満面の笑顔でお礼を言い、早速ぽりぽりとサラダを食べ始める。
ドレッシングの酸味が絶妙に絡んで美味しい。
ほっとした気持ちでワインを飲む。
ほどよい酸味と甘みが口に広がる。
あ~、幸せ。
この一杯のために私は生きてる~。
嫌なことがあったときは、酒を飲んで忘れるに限る。
それに明日も仕事は休みだし、少々二日酔いになっても問題ない。
ライアナース卿から指示された特命も明後日からまた頑張ろう。
(っていうか、本当に、最近いろいろ起きすぎなんだよね)
ローゼルは、くいっとワインを飲み干した。
元々このお店は教育係のモーデッリアたち先輩に、新人の頃連れてきてもらったのがキッカケで通うようになった。
それ以来、シャルルが癇癪を起した時の駆け込み先だったり、レオーネと口喧嘩したときもここで憂さ晴らしをしていたりした。
そんな日々がなんだか遠い昔のように感じる。
悪魔。
また、シャルルの叫び声が耳の奥で反響した。
せっかくのワインの味をかき消す。
シャルルと行方不明のウルーム伯爵。
彼らはこれからどうするつもりなんだろう。
そして、あんな風に近しい人たちから裏切られている父。
聡明な父が二人の関係に気づいていない訳がない。
あえて見て見ぬ振りをしている。
ローゼルは胸に鈍い痛みを感じ、グラスを持つ手に力が入る。
今後がどうなるかをローゼルは、希望的観測をいれながら推測する。
ウルーム伯爵は魔法使いの孫の誕生を望んでいるみたいだけど、私は早くレオーネと婚約破棄をしたい。
そうなれば、お義母様はウルーム伯爵と会う口実を失う。
それが不服なら彼女の性格上、離縁を願い出るはずだ。
そして、お義母様は好きなウルーム伯爵の元へ行ける。
(デジールはきっとなんだかんだ情に深い父が引き取るだろうし。
そして、私は心置きなくルシ様の求婚に応えることができる――)
ローゼルは空になったワイングラスにワインを注ぐ。
トクトクと音が響く。
そのとき、ローゼルからひとつ席をあけた隣のカウンター席に外套を羽織った大男が座った。
随分と殺気立った巨大な魔力を放つ男。
ローゼルはちらっと見た。
彼は随分と疲労困憊しているのか、肩が落ち、背中も丸まっている。
男の顔はフードを被っていてよく見えない。
そんな姿を覆うように、周囲の喧騒とは違う異質な空気が渦巻いている。
強い光の中でくっきりと縁取られた輪郭と、揺るぎない凛然とした存在感。
この人から感じる魔力……。
ひょっとして――
(ん? でも、こんなところに顔を出すような人じゃないはず。
私の勘違い?)
ローゼルは、その名を打ち消す。
それから、しきりに隣の男に視線をチラチラ飛ばす。
でも、間違いない。
間違えるはずがない。
まさか。
こんなところで?
ローゼルの胸は高鳴って、頬が熱くなるのを感じた。
「はい、子羊のローストビーフ」
カウンター越しに女将が、ローゼルの前に注文した品を出した。
目の前に差し出されたローストビーフ。
お肉の外側はチリチリと焼き上がっていて、その外から中心に向かうにつれて淡い赤のグラデーションが鮮やかに映える。
滴るような肉汁がキラキラと光ってて、とても美味しそうだ。
(この匂い、うん、堪らない!)
「美味しそう」
「美味しそうじゃなくて、美味しいの」
「ふふ、そうだね。いただきます」
女将はにこっと笑って隣の客に話しかけた。
「あんた、飲み物は?」
「麦酒で。
それと、隣の人と同じもの頂戴」
「あいよ」
隣で交わされる会話の声。
ぴくっとローゼルの肩が震えた。
(あぁ、やっぱりそうだ!
この声、この魔力)
ローゼルは心の中で感極まった。
胸がどきどきしてきた。
注文を聞き終えた女将が去って行く。
ローゼルはそぉーっと隣の男の顔を覗き込んだ。
男もローゼルの視線に気づき、ローゼルを見た。
一瞬時が止まった気がした。
男は目を大きく見開いた。
「ローゼ?」
やっぱり、そうだ。
ルシアン・クレインバールだ。




