第77話 甘やかな決意と、忍び寄る死相
ルシアンたちがネイト・ファーヴァ書記官に新人騎士団員の業務怠慢について問い詰められている頃――。
ローゼルはライアナース卿から本日から二日、大事をとって休むよう通達され、王城出仕を見送っていた。
ローゼルはお行儀悪いと分かっていながらも、ベッドに寝転がって、部屋にしまい込んであった魔導書を広げてひたすら読み込む。
祖父が贈って来た魔導書に、中級魔法の指南書。
(昨日襲われた要因としては、相手側の問題もあるけど、私に護身術がなっていないってことよね)
男に背後から襲われた時のおぞましい感触は、確実に脳裏に刻み込まれていた。
今も恐怖心に似た息苦しさが込みあげるけど、ここで立ち止まっていては次へ進めない。
(肝心なのは、一度つまずいたことをどう回避し、どう対策するかよね。
失敗は何事にもつきもの、問題は同じことを起こさないようにすること)
ふと ローゼルは思い立って、両手を広げては閉じるのを繰り返す。
やけに魔力が漲っているのを感じる。
気のせいだろうか。
最近、すごく調子がいい。
前より魔力が増えたような気がする。
(ひょっとして、精神的に安定しているからなのかな)
昨日あんな目に遭ったのに、精神が安定している理由。
それは、まさしくルシアンだ。
彼とキスした余韻のせいか、胸の中だけでなく体の芯まで熱がこもる。
魔力がいつもより何倍も活性化しているような感覚がある。
そう。し、しちゃった。
二日連続のキスを。
しかも、超絶濃厚な口づけ。
ローゼルは帰りの馬車の中を思い出して、そっとローゼルは自分の唇に触れ、ますます顔が真っ赤に染まった。
「甘えていいよ」というルシアンの低く心地よい声が、耳の奥で鳴り響いて、体の芯に熱がこもった。
ローゼルは気持ちが高揚するのを感じながら、枕を抱きかかえてごろんごろん転がった。
彼の匂いも、ぬくもりも、鍛えあげられた逞しい腕も胸板も――すべて鮮明に蘇る。
(あぁ、もう全部、好き)
このままレオーネと無事婚約破棄をして、ルシアンのお嫁さん――次期辺境伯夫人として嫁ぎたい。
想像しただけで、たまらなく動悸が速くなる。
まさか自分が好きな男性のところに嫁ぐことができるかもしれないなんて。
望んでいてはいけない、期待してはいけない。
そう思っていたのに――
(望んでいいんだよね……。
まだレオーネと婚約破棄できていないけど)
そういえば、ウルーム伯爵は一体どこへ行ってしまったのかしら。
首を傾げながら、ローゼルはぎゅっと枕を抱きしめる。
あれからルシアンたちも必死に探しているようだ。
四苦八苦しているのだろう、ウルーム伯爵が見つかったという連絡もないし、もちろん伯爵からも何も音沙汰はない。
まさに行方不明。
失踪中――。
昨日の王宮来客サロンで、ローゼルは勢い余ってレオーネとの婚約破棄の意気込みを伯爵に言った。
だけど、それも結局、中途半端な形で終わっている。
つまり、何も解決できていない。
心をヒンヤリとした指が撫でていく。
「うわぁ、私の馬鹿!」
ローゼルは身体を起こした。
ルシアンとのキスで有頂天だったけど、冷静に考えてみれば、まだ確実なものは何一つない。
レオーネと婚約破棄しなければ、ルシアンと婚姻なんて絶対に無理だし、このままルシアンとうまく結ばれても魔法は今より使えるようにならないといけない。
辺境伯領地は、この国の最北部にある魔物に溢れる地だ。
領民も中央政権に対して独自の文化や生活様式を守ろうとしているため、わりと保守的だ。
そもそも守られるだけのこの状況ではルシアンの足手まといになってしまう。
(エレナほどじゃないけど、もう少し鍛えて攻撃魔法にバリエーションがないと駄目だよね。
辺境伯夫人として領民を守れないし、それどころか保守的な北の民族の領民に認めてもらえない)
ローゼルは腕を組んで考え込む。
今回の暴漢騒ぎもそう。
いつもルシアンが守ってくれている。
けど、いい加減、次は同じことがないように鍛えなくては。
昔覚えた知識をもう一度頭の中に畳み込んで、実際に使えるように準備しておこうと思って魔術書を開いたけれど、それだけじゃ駄目だ。
今のままじゃあ、全然足りない。
例えば、相手の動きを確実に封じて、無力化するような魔術式の取得。
あと防御魔法も。
防御魔法は、攻撃魔法よりも実際発動条件が難しくて、魔術式も上級者向きだ。
「もう少しちゃんとした魔法が使いたい。
実戦で役立つ術を獲得しなきゃ」
ローゼルは声に出し、ぐっと手を握って、眉をひそめた。
知識が欲しい。
今、自分に足りないものを補うためにも——
外は昨晩の雨は上がって陽を浴びて、庭木の若葉がキラキラ輝く。
「よしっ、新しい魔導書を買いに行こう」
昨日の恐怖なんて、今の向上心と恋のパワーで綺麗に上書きしてやるんだからね!
***
「これがあの御方がご注文されたランプと蜜蝋だよ」
怪しげな気配を纏う老女が、紙袋に入れてクロフォード・ノーエランドに手渡した。
彼女は、ここ天蓋付きの露店の店主だ。
クロフォードは紙袋の中身を覗く。
七色に輝く異国情緒漂う繊細な硝子のスタンドランプに、甘い花の香りがする蜜蝋。
あの鬼軍師にしては、なかなかセンスのいいものを選んでいる。
「ああ、確かに。
受け取った」
クロフォードは老婆の顔を見た。
その時、ふと違和感に気づく。
あれ?
「ねえ、お婆さん。これ、何ですか?」
一緒について来た黒いローブを羽織った女性。
エレナ・ヴァービナスが棚の上の方にある水晶を指差す。
彼女の肩には黒リス小次郎がちょこんと尻尾を振って乗っている。
「どれ?」
老婆は杖をつきながら、エレナの真横まで行き、指差す方向を見上げた。
「あの、淡い光がうっすら見える水晶です」
「ああ、あれかい。
どこぞの国から流れ着いた骨董品だね。
安くしておくよ。イヒヒ」
老婆はにっと口を吊り上げて笑った。
「安くしなくていいから、ちょっとわたしたちに秘密の情報を教えてくれませんか?」
エレナも老婆に倣うようにニッと笑う。
小次郎もリスなりに頑張って口をニッと広げて笑う仕草をした。
老婆は目を見開き、次には声を上げて笑った。
「なんだい、面白いお嬢さんとリスだね。
しかも、このリス、強い魔力で形成された生命力だね。
なんとも珍しい」
「へえ、あんた、そのリスが見えるのか」
クロフォードが口角に友好的な笑みを滲ませて声を掛けた。
老女の顔が強張った。しまった、とでも言わんばかりの後悔が含まれた表情だった。
けれど、すぐに老女は探るような目つきでこっちを見た。
「お嬢さん、何が知りたいんだい?
知りたい内容によっては、余計に駄賃を貰わないといけなくなるかもよ」
「構いません。
まず、あの水晶、ください」
エレナは再び棚の上の水晶を指差す。
「あいよ」
老婆は傍の棚の空いているスペースに杖を置くと、慣れた仕草で梯子を登って水晶を取る。
だいたい大型犬の頭くらいの大きさの水晶だ。
ゆらゆらと炎のごとく、水晶の中身が揺れ動いている。
「何であれが欲しいんだ?」
クロフォードがそっとエレナに囁いた。
「だってあれ、内部に淡い魔力が残っているよ。
しかも結構珍しい種類。
たぶん、精霊関係かな。
東のこっちの大陸じゃあ、なかなか手に入らないんだよね」
ムフフ、とエレナの口元が緩んでいる。
「へえ。魔法オタクの血が騒ぐってやつ?」
くすっとクロフォードは笑った。
「いいでしょ?
こういうの、解析するの、結構楽しいんだよ」
エレナは目を輝かせて、梯子から降りてきた老婆から水晶を受け取った。
「ありがとう。
わぁ、近くで見るとますますキレイ。
想像以上にいろんな気配がするよ」
水晶を見るエレナの目は、とてもキラキラしていた。
まるで長年探し求めていた宝物が見つかったようなあどけない表情だ。
その水晶を小次郎が匂いを嗅ぎながら、興味津々で覗き込む。
「お目が高い子だね。
その通り、これは西の大陸から入手したものだよ」
老女は小さく笑った。
「やっぱり!」
「ふうん、婆さんは西の大陸と交易しているのか?」
「儂はしとらんよ。
ここにモノを売って来る輩が一緒に売って来るんだ」
「へえ……。
それって、あれか?」
クロフォードの眼光が鋭くなる。
「西の大陸からやって来る奴隷船の商人だよな」
老婆の動きが一瞬硬直した。
しばらく間があってから、もったいぶった口調で老女は尋ねる。
「……奴隷とは穏やかじゃない単語だねえ。
どうしてそう思ったんだい?」
「あんたの手首の痣。
この紋様、マリュード皇国の奴隷の焼き印だ。
逃亡者か?」
老婆の表情は変わらず、ただ黙っていた。
口元は柔らかく笑みを湛えているものの、その目はやけに昏く、ハッキリと感情が読み取れない。
「まあ、いいさ。
それと、俺、数年前から西の大陸で仕事していたから、なんとな~く分かっちゃうんだよ。
奴隷船から運ばれてきた物資の独特なニオイってやつを。
ほら、奴隷船の奴隷って結構運搬中で病気とかで死んじゃうことがあるらしいじゃん。
そこで怨念となって、人やモノにその怨念の恨みや執念の残穢っていうの?
それを強く残すんだ。
ここにある品々の大半はそうだろ?」
クロフォードはつかつか歩き、ある「廉価品」の元まで行く。
「でも、これはこの国で命懸けで闘う騎士たち用に作った魔剣だ」
「廉価品」と掲げられたモノ、魔剣を手に持った。
「この重さにこの感触。
間違いない」
クロフォードは両手で剣を抱え、まじまじと眺める。
気まずい沈黙が降りる。
「ランプをお買い上げいただいた御仁は、儂の商売の邪魔立てはしないと言っていたが……」
くぐもった声で老女が呟く。
恨みがましそうに上目遣いでじっとクロフォードを見る。
振り返って老女に視線を投げたクロフォードはぎょっとした。
なんだ、このババア。
物静かで鬼気迫る不気味な波動が感じられる。
(はあ、これか。
クレインバール卿が、この婆さんを一目置いた理由は——)
クロフォードは静かに話す。
「あのデカい御仁も言っていただろ?
牙を剥かなければ問題はないって」
「ええ、そうですとも」
「それから、あんたは彼から多額な金を受け取った。
これの意味、分かるよな?」
老婆は一瞬身体をびくっとさせ、無表情にクロフォードを見た。
よく見ると、左右の目の色が異なっていた。赤茶色と深い緑色の瞳。
さっきの違和感の正体はこれか。
「なあ、婆さん。
これ、魔剣っていうんだけど、どこでどう手に入れたんだ?」
クロフォードが尋ねた。
エレナがさり気なく出入口を塞ぐ。
老女はじとぉと、ねっとりとした視線を二人に向ける。
その瞬間、静電気のような悪寒がクロフォードとエレナの全身を包んだ。
事実、老婆の毛は逆立っていた。
これは、魔力か?
いや、違う。
――呪力だ。
(おいおい、この婆さん。呪術師かよ。
もしかしてこのまま俺達に攻撃をして逃げるつもりか?)
何か言葉では説明できないような耐え難い陰鬱な圧迫感がクロフォードを襲う。
同時に、エレナと小次郎は身構えた。
「シャァァァ!」
小次郎の警戒した鳴き声が響いた。
しばらく睨み合いのような腹のさぐりあいにも近い緊張感が覆い尽くす。
だが、突如、諦観の念を示すように老婆は一気に力を抜いた。
空気が一気に軽くなった。
呼吸がしやすくなった。
「はぁ……参ったねぇ。
あの御仁がナイトマーケットに現れた時点で、嫌な予感はしたんだよね」
やれやれと老婆は首を振って、ため息をついた。
あの御仁。ルシアンのことだろう。
「――いや、あの御仁と一緒に来た女性。あの子だ。
儂はあの子が持っている気配に慄いた」
しわがれた声で歯軋りをした。
クロフォードとエレナは思わず顔を見合わせた。
一緒に来た女性、ローゼル・イースティリアのことだ。
「彼女の気配の何が?」
エレナの声はおのずと鋭くなった。
「あの子の魔力。危険だよ……」
「危険?
どういうことだ?」
クロフォードがさらに詰め寄ろうとした瞬間、老婆の口元がニタリと歪んだ。
エレナの顔色が青ざめた。
しばらく奇妙な沈黙が流れた。
露店の薄い壁の外側から子どもたちが元気に走り回る声が聞こえた。
「――あの子は本来なら強い輪郭を持つ女性だ。
正統なる血統に、強い魔力。
だけど、あれは駄目だ。
まさに生贄にぴったりの供物になっている。
あの方が最も欲する培養の器」
「は?」
クロフォードは顔を歪めた。
「どういうことですか!?
生贄とか、培養って……!」
エレナも声を荒げた。まるで今すぐにでも食って掛かりそうな勢いだったので、クロフォードが冷静にそれを制する。
「あの方って、誰だよ――」
クロフォードが腹の底から響く声で問い掛けた。
老婆は、ふう、と低いため息をついた。
感情の読めない表情に、エレナとクロフォードは不気味さを感じた。
エレナに至っては指先が震え、無意識で戦闘態勢に入っている。
ローゼルは、エレナにとって大事な友人だ。
それが供物とか培養の器とか不吉な言葉を並べられ、ひどく混乱している。
やがて重々しく老女が呟く。
「あの子、気を付けないと死ぬよ。
死相が出ている。
あの子を狙っている奴らがこの国で蠢いている」
***
石畳は雨上がりでまだ湿っていた。
久々の王都の一人歩きにローゼルの足音が軽やかに響く。
こうやって昼間の王都でぶらぶら歩くのは久しぶりだ。
女官になる前は王立図書館に行ったり、可愛い雑貨店に立ち寄ったりしていたけど、ここ数年は忙しくて街歩きをしていなかった。
(このあと、魔術書買って、お金が余ったらお菓子とワインでも買っちゃおうっかな)
温かな陽射しが注ぐ街並みをローゼルは、鼻歌交じりにルンルン気分で歩く。
(やっぱ嫌なことがあった時は、こうやって外に出るに限るよねぇ。
急な休みじゃなければエレナと昨日の続きで、またお茶したかったなぁ)
父が王都の屋敷に戻ってきてから、ローゼルが使えるお金をちょっぴり増やしてもらえた。
たぶん、継母シャルルが散財していた分をローゼルに回してくれたのだ。
その時、不意に太陽が雲に隠れた。
ローゼルは反射的に顔を上げ、空を見た。
一瞬にして、世界が色を失う。
突如、ピリピリした電流が全身を駆け巡った。
ローゼルの足が自ずと止まる。
不意に背筋が寒くなり、ローゼルは落ち着かなくなった。
「なに、これ……」
視線を感じる。
それも、嫌な感じの視線だ。
不快に纏わりついて、それでいて静電気のように微妙に突き刺すような――
誰かの目が、じっと絡みついて離れない。そんな気がした。
(きっと、気のせいだよ)
昨晩のこともあったから、いつも以上に神経質になっているだけかもしれない。
そう思うのに、振り返られずにはいられなかった。
振り返っても、特にこれといった怪しい人物はない。
やがて陽射しが雲の隙間から差し込み始めた。
鮮やかに陽光に照らされる街並み。
路肩の簡易露店で香ばしいお肉の匂いがする亭主や客。
籠一杯の花を売る売り子の少女。
小さく凍りついたままのローゼルは、周囲をきょろきょろ見渡す。
飛び去るたくさんの鳩。
走り回る無邪気な子どもたち。
(ほら、やっぱり気のせいよ。何もない)
それでも恐怖心を覚えたローゼルは首を捻りながら、ハーフアップの飾りにした瑠璃色のリボンを触った。
ルシアンが贈ってくれて、そして昨日、身を守ってくれたリボン。
大丈夫。
これがあれば平気。
(だって、さっき防御と護身の魔法を復習してきたし)
ローゼルは自分にそう必死に言い聞かせる。
だけど、あの視線がまだ肌に絡んでくるようで、気持ち悪さは払拭できない。
「……私、自意識過剰になっているのかなぁ」
ローゼルは目的地である大通りを外れた王都一大きい魔導書店に足を向けた。
石畳の大通りの行き交う馬車の車輪が水たまりを跳ね飛ばした。
ローゼルは危うくかかりそうになって、歩みを一瞬止めた。
視線をまた感じて、はっと振り返る。
今度は、雑踏の中を黒い影がざっと動いたのが見えた。
ローゼルはその場に立ち尽くした。
足元が冷え上がってくるのは、昨日の雨のせいじゃない。
誰かが私を見ている。すぐ近くで。
どうする?
飛びのいて駆け出すか。
もう一度振り返って今歩いている方向の真逆を走り出すか。
ローゼルは迷った。
こめかみに汗が浮いている。
背後に潜む気配は、確かに存在している。
ローゼルはリボンにもう一度触れた。
逃げるか、立ち向かうか――選ぶのは自分だ。




