第70話 上官の特命と、深夜の図書館に迫る狂気
「なに? 契約書内の機密が漏れている?」
ローゼルの上官ライアナースは眉をひそめた。
「はい。軍部から改めて聴取があるかもしれませんが、いち早くお知らせしたくてご報告いたしました」
硬い表情でローゼルは言った。
「うむ。だが、どうやって……」
ライアナースは執務机に肘をつき、顎をのせて考え込んだ。
「国家機密が絡む契約書調印は、陛下と宰相、軍部総帥と軍師、法務大臣。
この五人の立ち合いの元で行われる。
領主自身も魔法機密契約により、許可なしで身内の限られた者にしか明かせないようになっているんだ」
低い声でライアナースは呟く。
ローゼルも頷いた。
「はい。そうですよね。
契約書もその方々の許可がなければ、閲覧もできないよう厳重に管理されています」
ローゼルは警戒の色を強めると同時に後悔していた。
なぜウルーム伯爵が「魔素石」の名前を出したとき、違和感を覚えなかったのか。
ウルーム伯爵の書類提出の不備ばかりに気を取られていた。
(あー、私の馬鹿馬鹿)
あのとき、あそこで質問していれば、彼がなぜそれを知っているのか分かったかもしれなかったのに。
自分の愚かさ、鈍感さが腹立たしく、顔が熱くなった。
「イースティリア女官」
ライアナースは指を重ね、ローゼルを射抜くように見た。
ただならぬ気配にローゼルは思わず姿勢を正す。
「はい、なんでしょうか」
「――もはや契約審査室で誰が味方で敵なのか分からない状況だ。
よって、君に命じる。
情報漏洩者を炙り出せ。
そのためには、どんなことにでも尽力を注ごう。
残業をするのであれば、イースティリア子爵およびクレインバール卿には私から説明をしておく」
かつてないほどの怜悧な声。
殺気すら漂っている。
法を司るライアナース家は、誰よりも中立の立場に立たなければならない存在。
そもそも好戦的で危険思想者のウルーム伯爵のことを良いように思っていない。
ローゼルも前々から自分の部下の婚約者としていかがなるものかと、ライアナースがウルーム伯爵家には難色を示していたのは薄々気づいていた。
けれど、今はそれを隠そうとしない。
それどころか、露骨に嫌悪感と危機感を放っている。
(特命を出すということは、私を信じてくださってのことだよね)
入省四年目、今までの恩をちゃんと返すつもりでこの方に応えよう。
それがきっと自分の役にも立つ。
ウルーム伯爵を見極める――。
「承知いたしました」
ローゼルはこっくりと頷き、胸に手を当てた。
「このローゼル・イースティリア。
必ず炙り出してみせます」
*
とは言ったものの、どうしよう……。
ローゼルは自分の無策に呆れた。
実際、私に何ができるのか?
全然思いつかない。
ピカピカの廊下の大理石の床に映る自分の顔がすごく情けない。
ローゼルは、とぼとぼ歩いた。
(とにかく、やるしかないよね。
だって、ライアナース卿は一介の女官の私に室長並みの閲覧権限をこっそり付与してくれたんだもの)
これで機密事項の契約書も特別に許可を得なくても閲覧できる。
信頼されているからこそ、付与された。
この重みをなんとしても、成果につなげないと……!
ローゼルは深呼吸をしてから契約審査室の部屋に踏み込んだ。
「おぉ、イースティリア女官。
よくぞ来てくれた!」
「え?」
満面の笑顔で契約審査室のみんなが、ローゼルを笑顔で受け入れた。
「いやぁ、待ってたよ」
「日頃エルド男爵が細々としたことを担当してくれていたからね」
官僚たちは、一斉にほっと胸を撫でおろす。
なるほど、エルド男爵は庶務的なことを担当していたわけか。
この室内の顔ぶれをみるに、男爵位の彼が一番下のようだ。
(そりゃあ、小間使いのように細々と働いていた人の長期病欠は、契約審査室にはかなり大きな痛手でしょうね)
「ささっ、君の席はこっちだよ。
男爵の隣の席を使ってくれ」
ローゼルは一瞬呆然とする。
案内された席は、分別すらされていない書類の山が何個も積み上がっていた。
ローゼルは腕を捲り、果敢にその山に挑みかかった。
これはやるしかない!
逆に燃えるってものだ。
それからは必死すぎて、何をどうやったのか覚えていない。
とにかく手あたり次第、書類の分別と承認ルートごとの仕分けをして、関係部署に送る手配などをする。
申請書類にはひたすら目を通して、不備を確認する。
気付いたら深夜近く。
他の官僚たちは夜会に出席だの、家族との約束があるからだの言い訳がましく理由をつけて帰って行った。
ぽつん。
部屋にはローゼルしかいなかった。
道理で。書類が滞っていた理由が分かった。
(ここの人たちは、基本残業しないんだ)
エルド男爵はローゼルに次ぐ残業時間の多い官僚。
きっとみんなが帰った後も一生懸命働いていたのだろう。
誰もいないのをいいことにローゼルは、う~んと天井に両手を伸ばして背伸びをした。
身体からミシミシ軋む音が聞こえてきそうだ。
どうやら書類に数時間もかかりっきりだったせいか、背中が固まってしまっていたようだ。
足も心なしかむくんでいる。
あぁあ、肩が重い。
とりあえず、今日すべきここでのお仕事は終わった。
「さてさて」
ローゼルはディウースリィ伯爵家の二通の書類を机に並べて眺める。
『爵位譲渡完了届、および家督名義人変更書』
『国家機密品 契約内容変更依頼書』
「ここから読み解けるのは、つい最近、ディウースリィ伯爵家で爵位譲渡があったこと。
それと、山岳地帯のディウースリィ伯爵領地にある魔素石は貴重な収入源。
その採掘代表者、つまり採掘頭のような人が亡くなった。
この二点ね」
ローゼルは言葉に出して、頭の中を整理整頓する。
「そもそも爵位譲渡した理由はなんだろう? 採掘頭が亡くなった今、領地経営は困難になっているのに、こんな時にふつう爵位譲渡なんかしないよね。採掘事業が混乱しちゃうもの」
理由が知りたい。
だけど、どこでそれを知ることができる?
(そうだ、あそこなら)
宰相府にある系譜台帳。
最も詳細にその理由が分かる。
(あぁ、ダメダメ。
だって、完全に部署外になっちゃうし、閲覧は厳しく制限されているんだよね。
いくらライアナース卿の許可があっても、宰相府は宰相デメトリオ公爵閣下ご本人の許可が必須。
ハードルがどかんと爆上がりだよ)
ふいに皇族会議でお会いしたデメトリオ公爵を思い出す。
穏和な面差しの奥で、鋭く光る冷徹な眼差し。
ローゼルはぶるっと身震いをした。
違う手を考えよう。この状況でちゃんとした閲覧希望の理由を話せないし、申請だってできない。
下手な憶測で宰相だけじゃなくて、逆に宰相府全体を混乱させちゃう。
もし情報漏洩があったなら、これは法務省の汚点になるんだから。
他にないだろうか。
最新の貴族の情報が分かる何か――。
「最新の貴族辞典」
ふと閃いた。
貴族辞典は、貴族子女たちがこの国貴族を覚えるために使う教本。
だからこそ、事細かに宰相府が最新情報で編成し直しているし、それなら王宮内図書館は、常に最新のものが置かれている。
善は急げ。
ローゼルは自席の書類諸々を片付け始めた。
思い立ったが吉日。
(そうよ、運は動いてこそ、未来を切り開くって言うじゃない?
こういうのは、早めに情報を究明しないとね)
ふと窓の外を見ると、すでに深い闇に包まれていた。
ローゼルはランタンを持って、執務塔を出た。
回廊はやけに静かだった。
初夏の闇は、濃くて深い。
庭園の眠りについた木々の呼吸がここまで伝わって来るようだ。
頬を撫でる夜風は冷たい。
ローゼルは王宮内図書館へ向かう。
静寂。
どうしてだろう、いつもより夜の王城が陰鬱に感じた。
空気が重く、悪意に満ちている、そんな気がした。
木々も花々も色を失い、銅版画のように沈んだ色彩。夜の庭園を余計不気味な風景に見せていた。
思わず足早になって、心臓がどきどきと音を立てる。
(こんなにも静かだったけ?)
以前皇族会議の準備のとき、何度も泊りがけで仕事をしたけれど、あの時はもっと人の営みや息遣いが聞こえてきた。
それなのに、異様なまでにしーんとしていて、ローゼルは不吉な胸騒ぎがした。
回廊を照らす壁灯すら不吉なものに感じてきた。
ようやく王宮内に入り、ローゼルはほっとして、王宮内図書館まで足を運ぶ。
王宮内図書館は常に開いている。
きっと人はまばらだろうけど、誰かいるはずだ。
夜遅くまで調べ物に耽る官僚や、自身の研究に忙しい王宮魔術師たち。
そういう人たちが夜でも熱心に出入りしている。
きっとそうに違いない。
そう期待したのに、今夜に限ってやけに薄暗く、人の気配もまったくなかった。
ふだんいるはずの司書の官僚もいない。
巡回する護衛も不在だ。
ローゼルの持つランタンだけが、異様なまでに明るい。
まるで自分だけがこの世界に取り残されたような疎外感に襲われる。
なんだか怖い。
ローゼルはぎゅっとランタンの持ち手を強く握った。
だけど、首を振って、両頬をぐっと自分でつねった。
「頑張れ、私」
怯えている自分に喝を入れる。
「大丈夫、私ならやり遂げられる」
それから、ローゼルは手元のランタンで足元を照らしながら、目的の最新貴族辞典を探した。
*
ローゼルは、索引で「ディウースリィ伯爵」を探してから貴族辞典のページをめくる。
「あった……」
ディウースリィ伯爵。西北側のアイルー山脈に位置する領土を治めている。
現在、ローゼルの兄アルバートの学友が若き領主として運用しており、爵位譲渡をしたのは数か月前。
ちょうど皇族会議を終えた時期。
前ディウースリィ伯爵は、なぜこの時期に爵位譲渡したんだろう?
(お兄様の学友が新伯爵ってことは、前ディウースリィ伯爵もお父様と同じくらいの年齢だよね。
まだまだ隠居するには早いのに)
想定できる事柄は、現領主が一人前に成長したから。
次のページをめくる。
「え……」
文字を読んだローゼルは言葉を失った。
『前ディウースリィ伯爵 魔物襲撃により没す。享年四十二』
冷徹な一行が刻まれていた。
魔物襲撃?
領地が魔物に襲われたのだろうか?
もしそうだとしたら、魔法新聞の「今日の魔物出没地域」にそのことが掲載されているはずだ。けれど、ここ半年もの間、西北側のアイルー山脈付近にそんな訃報記事は載っていなかった。
ふいにローゼルの頭の中に復職時に同期のレイノルドとネイトの会話が蘇る。
――ローゼルが襲われた前後から出没件数が増加の一途を辿っている。
二日前には西北側の国境界隈でも出没したらしく、その討伐にクレインバール卿率いる精鋭部隊が出向いているんだよ。
真面目な顔つきのレイノルド。
――ローゼルは運がいい。
あの魔物に見つかった人の大半は殺されているって話だぜ。
ほっとするネイトの声。
(ちょっと待って。西北側の国境界隈って、まさにディウースリィ伯爵領地だよね?)
前ディウースリィ伯爵を襲った魔物って、ひょっとして……。
考えれば考えるほど、どんどんと暗澹たる推測に陥ってしまう。
ローゼルは凍り付いたように動けなくなった。
その時、扉が開く音がした。
ハッと我に返ったローゼルは顔を上げた。
どうやら一人の官僚が図書館に入って来たようだ。
彼は早々に魔法関連の本棚に足早に向かっていた。
あちらに向かったってことは、魔法省の方かしら?
ようやく見つけた人の気配に安堵すると同時に、やけに動悸が速まっていた。
なんだろう、落ち着かない。
普段心地いいはずの図書館の静けさが、今はやけに不気味に感じてしまう。
じわりと不安が込み上げる。
怖い。
すごく奇妙で嫌な何かを感じた。
何もないはずなのに、恐怖心が煽られる。
(とりあえず、今日はもう帰ろう……)
これ以上考えても無駄。
行き詰まってしまった。
明日改めて明るいお日様の下を歩きながら考えよう。
ふとそう思い立って、ローゼルはいそいそと、本を片付け始める。
(こういう情報って、ルシ様に話したら提供してもらえるのかな。
もしくはレイノルドにでも……)
そう思う一方、ライアナースの嫌がる顔が想像できた。
ライアナースは法曹一家の伯爵だ。
部下のローゼルが自分の許可なくして武官に、しかも軍部の上層部に話すのは間違いなく嫌がるだろう。
現時点、誰が内通者か分かっていない状況だ。
そもそも、それも内通者がいると完全に言い切れる証拠があるわけじゃない。
ルシアンたちの方でもウルーム伯爵の発言については、いろいろ探ってはいるだろうが、こういうのはライアナースの面子もある。
軍部、魔法騎士団に話をする時は、気をつけないと。
ランタンを片手にローゼルは本をすべて元の位置に戻し終えた。
そういえば、さっきの官僚、どこへ行ったんだろう?
灯りも何も持っていなかった。
魔法関連の本棚のところに視線を投げるも、そこには人がいる感じがしない。
ランタン持って戻ろうと思うけど……別にいいよね?
その時、背後から不気味な影がローゼルを覆った。
はあ、はあ、はあ……。
荒い息遣い。
不意を突かれたローゼルは、硬直していた。
その背中には、まるで獣のような飢えた視線が突き刺さる。
ざわっとする感覚。
いつの間に私の後ろにいた?
不穏な気配を持つその背後の影はローゼルの匂いをクンクンと嗅ぐ。
じゅるっと涎を啜る音が、ローゼルの耳に飛び込み、全身の毛が粟立った。
「駄目じゃないか。
こんな暗いところに若い女官が一人で来たら」
男のねっとりとした湿った声が囁く。
ローゼルは心臓の鼓動が大きくなり、喉から飛び出しそうだった。
「しかも、君、可愛いんだから。
これって僕に食べられに来たようなものだよ?」
「ヒィ」
喉から引きつるような声が漏れた。
きっと、さっき入ってきたあの官僚だ。
じわりじわりと底知れない恐怖が肌を浸食していく。
やだ、やだ、やだ。
ローゼルはじっとりと冷たい汗を感じながら、身動きできずにいた。
逃げないと、逃げて走って逃げないと。
彼の吐息が耳にかかって、距離の近さに凍りつく。
不意に、男の手が衣服の上から強引にローゼルの腰回りを触った。
(ひゃん!)
心の中で叫ぶ。
気持ち悪い。
思わず涙が滲む。
男の手がそのまま下に下がって行く。
やめて!
心臓の鼓動が耳を塞ぐほど大きくなり、視界がぐらりと揺れた。




