第7話 ゆりの香水と、女官の矜持
「ねえ、聞いた? ウルーム伯爵令息とデブラント男爵嬢が、婚約者のイースティリア子爵嬢に隠れて逢引していたって」
「ええ、聞きましたわ。
あたくし、もとからあの二人は怪しいと思っていたんですの」
「噂では、イースティリア子爵令嬢が、婚約者に執着して酷い束縛を強いるって、聞き及んでいましたけれど、官僚のお父様のお話では、勤勉で謙虚な女官だそうですわ」
「それ、束縛するなんて噂は嘘らしいわ」
「まあ、それじゃあ高飛車だというのも嘘なの?」
「ええ、恐らく。だっておかしいと思いません?
宮廷内務官は男性でも大変と言われるほどの激務ですのよ。
激務の官僚職をこなしながら、婚約者を困らせるなんて矛盾してますもの」
「そうそう、あたくしには、浮気した伯爵令息が言い訳しているようにしか思えませんわ」
「しかも先日の夜会では、令息がイースティリア嬢に暴力を振るおうとしたとか」
「まあ、なんて野蛮な!」
「そこへクレインバール軍師閣下が助けたそうですわ。
冷たい方だと思っていたのに、意外とお優しいのね」
「そういえば、三美姫姉妹と称されるグロウディーナ公爵家のナディア嬢との婚姻話も持ち上がっているとか」
「でも、それが違うらしいのよ。
どうやら閣下は前々からイースティリア子爵令嬢を密かにお慕いしていたらしいのよ」
「まあ! そうなの?」
「ええ。イースティリア女官には婚約者がいたから、今まで心にその想いを秘め、遠くから眺めていたそうよ」
「あれほど屈強な殿方が報われぬ恋心を秘めていたなんて」
「ロマンチックですわ」
「本当に、まるで本に出てくるような恋物語のようですわね」
「それじゃあ、先日の夜会で珍しく閣下がダンスを披露したのは、懸想していたイースティリア子爵令嬢がお相手だったからかしら?」
「ええ、ええ、きっとそうですわ」
***
あの夜会から早一週間。
瞬く間に夜会での一連の出来事は社交界に広まった。
レオーネとソフィアの恋仲はもちろん、なぜかルシアンがローゼルを救ったという話まで流れていた。
しかも、ルシアン・クレインバール軍師が密かにローゼルへ想いを寄せているという美談に仕立て上げられ、なおかつ、暴力婚約者から令嬢を救った英雄譚として語られている。
令嬢、貴婦人たちは恋愛沙汰の噂話に目がない。
それが美しい騎士と令嬢の秘めた恋愛話となれば、熱狂はさらに加速する。
ここのところ、王城に出仕したローゼル・イースティリアはずっと同僚にからかわれっぱなしだった。
「本当のところはどうなんだ?」
「クレインバール卿もゴルマン卿みたいに公開求婚しないのか?」
恥ずかしさに耐えきれず逃げ出すローゼルの姿を、同僚先輩たちは面白がってさらに囃し立てる。
「ゴルマン卿のは、ちゃんとお断りしました!」
ローゼルは顔を真っ赤にして答えた。
「へえ。それで最近ぱったりなわけか」
先輩たちはニヤニヤ笑う。
ローゼルはたちまち恥ずかしくなって、「失礼します。会議が始まりますから」と言ってその場を逃げるように去った。
おかしい。噂が広まるスピードが異様に早い。
意図的に誰かが広め回っているみたいだ。
ローゼルはいつものように王城の回廊を渡りながら、各署の塔へ書類を届ける。
ローゼルは、ようやく一人になってほっとした。
ここの回廊はひっそりしている。
ちらほら官僚がいるけれど、落ち着いた空気。
広い王城の回廊に静かな日差しが降り注ぐ。
光は床に淡い模様を描く。
優しい風が頬を撫でた。
あの噂は奇妙だ。
なにせレオーネが連行されたことや、他の令嬢と浮気をしていたことはあの噂によりほとんど立ち消えていた。
しかも、真偽定かじゃないルシアンとの恋仲話ばかりに注目されている。
(それにしても、ものすごいエネルギーを使った気がする)
ローゼルは思わず額の汗を手の甲で拭う。
最近一人でいることに慣れてしまっているせいか、ああやっていろんな人達に一斉に話しかけられるのはかなり困惑する。
適当に言い繕って逃げ惑うだけで精一杯だった。
(みんな、あんな麗人が以前から私に懸想していたなんて、本当に信じているのかしら)
面白おかしく言う者はまだいい。
けど、本気にしているのか真剣に話を聞きに来る人たちも多くて、それが余計ローゼルを混乱させた。
ふいに、ローゼルは彼に見つめられたことを思い出し、たまらず赤面した。
ルシアンの瑠璃色の双眸。本当に綺麗だった――。
それに、あの方は、私を「可愛い」って言ってくれた。
まるで愛しいものをみるかのように笑みが深まった甘い眼差しだった。
今まで私に可愛いなんて言う人、いなかったのになぁ。
「……」
いた。一人。
一瞬、ローゼルは顔を歪ませた。
エヴァン・ゴルマンだ。
――ローゼルちゃーん! お疲れ様! 今日も可愛いねえ!
能天気な大声は、王城中に響き渡って恥ずかしかった。
特に夕方のこの時間帯。
あれは、常にローゼルの疲労を倍増させた。
彼のを誉め言葉として、さすがにカウントできない。
その時、ふとユリのいい香りがした。
(いい香り……)
あの子――あの夜会でもレオーネの隣にいたソフィア。
彼女がいつも纏っていた甘い香りだ。
でも、ここにいるはずないのだ。
(だって、ここは王城だよ。用がない限りは……)
「ローゼ」
振り返ると、従妹のソフィア・デブラントがいた。
従妹と言っても継母側の親戚なので、ローゼルと直接血縁関係にはない。
淡いピンクの長い髪に白く透き通った肌。
彫りの深い顔立ちに通った鼻筋、長い睫毛。
最新モデルのドレスを纏い、豪華な宝飾品も欠かさない。
一際目を引く美女だ。
(って、えっ、何でここにいるの!?)
ローゼルは驚きのあまり、口をぽっかりと開けた。
すれ違った官僚たちが、ちらちらとローゼルとソフィアに視線を投げた。
ローゼルはハッとして身を引き締めた。
女官らしい、余裕があるように見える笑顔を向ける。
「ごきげんよう、ソフィア。
素敵な香水をつけているのね。
いい匂いだわ」
ローゼルは素直に褒めた。
その途端、たちまちソフィアは勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「あら、もう気付いたの?
これね、実は」
ソフィアが一歩近づいて声を潜めた。
「あの夜会の前にお会いした時、レオーネ・ウルーム様が特別にプレゼントしてくださったの」
「レオーネが?」
「ええ。ローゼは彼の婚約者なのだから、当然さらにいいモノを頂いたのでしょう?
あら、それにしては何も香水の香しい匂いが漂って来ないわね」
ソフィアはわざとらしくローゼルの周辺の匂いを嗅いだ。
「あらま、無臭だわ。
ひょっとして、婚約者なのにまた何もプレゼントされていないの?」
クスクスと意地悪く笑う。
優越感に浸ったソフィアの笑顔に、ローゼルはぐっと表情に出すのを抑えた。
継母が後妻に入った十歳頃から彼女と付き合いはあるが、ソフィアは常にローゼルを敵視している。
顔を突き合わせれば競争心を煽り、陰湿なマウントを繰り返す。
ローゼルの持っているものを欲しがり、奪おうとする。
欲しがりで、何でもねだる女。
そんなソフィアは、特に美しいものが大好きだ。
眉目秀麗なローゼルの兄にも目を付け、彼の前では、おしとやかな高貴な令嬢を演じていた。
そして、兄が留学すると、今度は婚約者レオーネにそのグラマラスな豊満な身体を巧みに使い、小悪魔のように誘惑していた。
聡明な兄は彼女の本質をすぐ見抜いて「バカな女は嫌いだ」と一蹴し、その一方でレオーネは簡単に彼女の術中にはまり、彼女を恋人の一人として厚遇していた。
(だから、ソフィアがレオーネを訴えるとは思わなかったんだけどね)
ソフィアは、婚約者なのに冷遇されているローゼルを見ると、いつも悦に入るのだ。
「みっともない人ね、さっさと婚約破棄すればいいのに」
ソフィアは艶然と微笑む。
ふん、出来るものなら私だって婚約破棄されるなら破棄されたい。
そう言い返したいけれど、言ったところで意味がない。
関わるだけ時間の無駄だ。
「ソフィア。ここに来た理由は?」
ローゼルは冷ややかに尋ねた。
「あなたに文句言いに来たのよ」
「はい?」
「あなたがレオーネを唆したんでしょ?」
「ん?」
ますますソフィアの言っていることに要領を得ず、ローゼルは首を捻った。
「あなたがあたしを陥れるために唆した。違う?」
「言っている意味が分からないけど」
「あたしが彼を訴えたのは、彼の愛を確かめたかっただけなのよ。
それなのに地下牢に押しやるなんて、なんて酷い女なの!」
ソフィアの声が高らかに回廊に響き渡った。
ローゼルは唖然とした。
この子、本気で言っているのかしら。
(頭、大丈夫?)
遠くにいた官僚たちが、訝しげにこちらへ視線を投げる。
ああ、面倒だな。
悲劇役者気取りの加害者ほど質の悪いものはいない。
「ソフィア、用がないのなら帰って」
ローゼルは歩き出す。
ソフィアは諦めないとばかりについて来た。
「早くレオ様を解放しなさいよ」
「私にその権限はないわ」
「何言っているの?
あなたのせいなんだから責任をとりなさいよ」
ソフィアは食い下がった。
ローゼルは、足を止めた。
ソフィアも自ずと止まる。
「あのさ、あなた、貴族なのに知らないの?」
「え? なにを?」
ソフィアは眉をひそめた。
「法務省の、しがない女官の私が、魔法騎士団が罪人とみなした人間を簡単に釈放できると思っているの?」
「えっ、難しい試験を突破したんだから、できるんじゃないの?」
ソフィアはぽかんとした。
ローゼルはこめかみを押さえた。
ここまで無知とは思わなかった。
デブラント男爵が随分と甘やかしているとはきいていたけれど、これはいかがなるものか。
「レオーネは今軍部内、魔法騎士団の管轄下にいるの。
で、私は法律を整備する法務省。
完全に管轄外」
「でも」
「それと、他にも今のあなたの発言の中で、どうしても聞き捨てならない箇所があったわ。
レオーネの愛を試すためにあえて訴えた?
つまり、魔法騎士団に虚偽申告をしたということかしら。
それは立派な公務執行妨害罪ね」
「なっ……! 違う!
嘘はついていないわ」
「そう。それなら良かった。
身内から罪人を出す不名誉は免れたわ」
ローゼルはおもむろに肩をすくめた。
ソフィアが屈辱だと思ったのか、怒りで顔を赤らめる。
「失礼ね。さっきから何なのよ。
偉そうに。
何様?」
「何様……って」
ローゼルは、わざと少し間を開けてから答えた。
「帝国公務員よ」
王宮内務官――官僚になるには、難関の官吏登用試験を受けて合格しないといけない。
幼少期から英才教育を受けた子女でも合格するのは至難の業。
「ねえ、ソフィア、気付いた?
『正当な理由がない限り、業務遂行中の官僚や騎士等帝国公務員の業務妨害をしてはならない』。
あなた、これって帝国公務員法違反になるのよ」
サッとソフィアの顔が青ざめた。
「ふふ、それじゃあね」
ローゼルは、口を一文字に結ぶソフィアに細く微笑み、手を振って悠然と回廊を歩き進んだ。
ソフィアはしばらく石のように固まったように硬直していた。




