第6話 忍び寄る影と、足音のしない女
――アイルナバロー連合帝国の中央都市 グランディア。
華やかな都として知られるその街で、血の匂いが静かに広がっていた。
ここ王都には数多くの酒場がある。
そのうちの一つ、川べりの船着場近くの人気酒場。
酒場といってもこの店の昼間は、酒を出さない定食専門の大衆食堂になる。
酒を飲みたい者たちは夕方以降に来店してもらうよう促していた。
本日のお昼時も大繁盛。
ようやく客が引き、昼間だけ給仕として働くハイネは店内を掃除し終えたところだった。
あと数時間もすれば、夕方の客たちが顔を出す。
「ハイネ、お疲れ。今日はここまででいいわよ」
厨房から恰幅のいい年配の女将から声が掛かった。
「はーい」
褐色の肌に彫りの深い容貌のハイネは笑顔で、掃除道具をしまう。
「帰り道、気をつけなさいよ。
最近ここらで異国の平民女性が狙われるっていうからね」
「うん。そうね、気をつけるわ。
それじゃあ明日」
ハイネは裏口から声を掛けてきた女将に笑顔で手を振った。
外に出ると、この季節には湿度が高かった。
ハイネは空を見上げた。
いまにも雨が降り出しそう、とまではいかないが、どんよりとした雲が薄っすらかかっている。
日中ぽつぽつと雨が降っていたせいだろうか。
なんとなく全身が湿っていくようだ。
(さて、今夜の献立はどうしよう)
昨日の残りのシチューがあったから、そこに女将さんからお裾分けしてもらったお肉の切れ端を入れて煮込めば、妹や弟たちの空腹は満たせるかしら。
そのとき、ハイネに軽く会釈する若い女性がいた。
焦げ茶色の髪を、きゅっとおだんごに後ろでまとめ上げ、白のブラウスとグレーのスカートをはいていた。
佇んでいるだけでも様になる、どことなく品がある、そんな女性。
身なりがそれなりにいいからなのかもしれない。
なんとなくだけど、教師や役所務めなどの堅い職業に就いている。
そんな気がした。
誰だろう。
ハイネは不思議に思いながら、軽く会釈し返した。
彼女はにっこりと美しく微笑むと、こちらにゆったりと歩いて来た。
「こんにちは。あなたに少しお話したいことがあって……」
女の声は知性的だったが、どこか片言で訛りがあった。
たぶん、この女も自分と同じで異国からやってきた人間なのかもしれない。
女は含みをもたせるように一瞬躊躇う。そして、告げる。
「実はね、妹さんのことで」
そこで言葉を切った。
「え……」
ハイネはハッとして女の顔を弾けるようにして見た。
「ミーアが何かしたんですか?」
ハイネの頭を咄嗟に掠めたのは手癖の悪い末の妹だった。
それなりの身分の人を見ると、必ず盗みを働く。
この国に辿り着くまでは、そのお陰で生きながらえたけれど、ハイネが働き出してからはそんなことをする必要性はなくなっていた。
だけど、小さいミーアはそれが分からない。
幼い彼女が盗んできた財布に、一時期家族が歓喜していた。
このことは彼女の胸に強烈に刻まれて、今もなお「盗みをすれば家族が喜んでくれる」と信じ込んでいるのだ。
「そう、そのミーアについて。
お姉さんのあなたとゆっくり話がしたかったのよ」
女は哀れみの表情をして、ハイネに寄り添う。
そして背中に手を回す。
「少し込み入った話になるわ。
こちらに来てくれる?」
「え……」
ハイネは困惑した。
この人についていっても大丈夫かしら? 信用しても問題ない?
そんな不安が横切る。
「彼女が大変困ったことをしてくれたのよ。すごーくね」
女はそっとハイネの耳元で囁いた。
ハイネは恐ろしいものを見る目つきで女の顔を見た。
その瞬間、女の口角がにたぁと、不気味な笑みを浮かべた。
ハイネはぞわっと鳥肌が立った。
けれど、この女の眼に視線が縫い付けられたようにして逸らすことができない。
じわじわと身体が冷たくなってくる。
「さぁ、行きましょう」
嫌だ、行きたくない。けど、断ることができない。
本当にミーアが何かとんでもないことをしていたら?
嫌な胸騒ぎを覚えながらも、ハイネは女に誘導されるがまま、おずおずと成すがまま歩いた。
川べりの空気は湿り、胸騒ぎだけが重く残った――。
*
王都で一人の平民の女性が姿を消した
その女性は、異国からやってきた亡命者。
だが、彼女は持ち前の明るさときめ細やかな気遣いで、王都中心を流れるテーミナル川沿いの大衆食堂で看板娘として一生懸命働いていた。
そんな彼女が幼い弟や妹を置いて姿を消した――
***
――王城で夜会が開かれる一週間前。
魔法騎士団の婦女連続殺人事件捜査は、難航していた。
そんな時、王城で開催されたのが、アストレイア皇女とミシェーラ皇女姉妹主催のお茶会だ。
ここでも、事件が勃発した。
だが、この事件は公にはなっていない。まことしやかに囁かれ、そして、王城の警備の根源を揺るがす一つでもあった。
お茶会会場の王城庭園では、花々が咲き誇り、陽光に照らされて色彩がいっそう鮮やかに映えていた。
集まった令嬢たちの華やかなおしゃべり、笑い声。
お茶会は、まさに華やぎの幕開けを迎えようとしていた。
そんな澄んだ青空の下、天幕が張られ、銀の器と香り高い茶葉が並べられていた。
布地は風に揺れ、花々の色彩と溶け合う。
皇女付きの侍女リバーラス・フロストパンセはその天幕内でテキパキと侍女たちに的確に指示をする。
彼女は大変要領がよく、手際もいい。
皇女殿下への気遣いも天下一品だ。
そして、切れ者であるため年配の侍女たちからの信頼も厚かった。
そんな彼女には一抹の不安があった。
本日ここにやってきた令嬢たちの付き人の人数がやけに多いということ。
それぞれが見栄の張り合いで侍女たちを引きつれて王城にやってきたようだが、ハッキリ言って余剰人員。
邪魔である。
なぜこうなったかというと、おそらくミシェーラ皇女の自称親友のナディア・グロウディーナ公爵令嬢のせいだ。
多くの侍女を従えることで「自分は特別な立場にある」と誇示し、他の令嬢たちも負けまいと侍女を大勢連れてきた。
そのナディア・グロウディーナ公爵令嬢は、笑みを浮かべながらも周囲を支配するような眼差しを放つ。まるで自分が主役だと言わんばかりに。
「リバーラス侍女長。
これが本日お出しするお茶缶の全部です」
年若い侍女がリバーラスに声をかけた。
「ありがとう」
リバーラスはひとつひとつのお茶缶の中身を確かめる。
お茶会で客人は必ず茶葉を持参する。
けれど、茶葉の種類が重ならないようにするのが原則。
もしこれが被っていた場合はそっとそのことを耳打ちし、違う茶葉を急ぎ持ってきてもらう。
もちろん、主催者より高位の茶葉を持ち込むのは序列を乱すことになるから、その辺も考慮すべき。
お茶缶には、どの貴族令嬢が持ち込んだのか名札がついている。
(さすがシルヴァナド伯爵家ね。
いいお茶の葉を使っているわ。
あら、こちらのレインヴィッシュ侯爵家もなかなか……)
リバーラスは文字通り鼻が利く。
香りでお茶の葉が傷んでいないか、不純物が含まれていないか即座に判断できる。
そう文字通り、鼻が利くのだ。
リバーラスは新たな缶に手を出し、蓋を開けた。
「!」
これは。
リバーラスはサッと顔面蒼白になった。
近くに控えていた上官の侍女頭に事の次第を説明する。
侍女頭の表情が強張り、警護にあたっていた近衛騎士団長の元へ駆け寄る。
見つけてしまった。
毒を――。
あのハーブは一日二杯程度までなら安全。
健常者であれば、消化促進や抗酸化作用をもたらす。
けれど、第1皇女のアストレイア皇女は違う――。
彼女は生まれつき持病を持っている。
神経系の病気のてんかんだ。
成長するにつれて症状は落ち着いたが、発作を誘発する神経毒性成分を持つあのハーブは禁忌。
それなのに、あの缶には大量に混入されていた。
高級品であるがゆえに、あの茶葉を持ち込むこと自体は格式を示す。その一方で、相手の病を知らずに供すれば重大な作法違反だ。
「リバーラス殿。
話は団長から聞いた」
さりげなく一人の騎士がリバーラスに近寄って来て、囁いた。
近衛騎士である第1魔法騎士団員のエヴァン・ゴルマンだ。
「ええ」
「これは悲劇的な単なる失態か?
もしくは……計算された陰謀?
どちらだ?」
エヴァンは低い声音で尋ねた。
「アストレイア皇女のご病状については、上流貴族であれば周知の事実です」
「つまり意図的。
計算された陰謀だと言うんだな?」
「はい」
リバーラスの眼光は鋭く、この結論に相違ないという強さが滲んでいた。
「このお茶缶はノーチェス伯爵家か」
エヴァンはお茶缶の名札を確認した。
「はい。ですが、あそこは何代か前、当時の皇女殿下が降嫁された歴史があります。
皇族の縁者がアストレイア皇女に害を及ぼすわけがございません」
「なるほど。
でも、それだけだと弱いな。
伯爵家ではないという確固たる無罪の証拠が必要だ」
「最初、この缶にはホワイトティーが入っていたと思われます」
「ホワイトティー……。
遥か向こう、東方の王国から伝わった希少な茶葉だよな?」
「その通りでございます。
お茶葉の特色である銀色の産毛が缶の内側に付着してましたし、花のような柔らかい香りがしました」
「丸ごと茶葉が入れ替えられていたということか」
「左様で」
「承知した。
犯人はノーチェス伯爵家とは敵対する家の者か、もしくは皇女殿下に害を及ぼそうとする外部だな」
「そう思います。
ノーチェス伯爵家にはあたくしからこっそりお伝えしましょう」
「助かる」
そう言うと、エヴァンはすかさず体を翻し、団長に報告し、捜査に当たり始めた。
*
騒々しい。
宮殿内での会議に同行したローゼルは、ふだんとはなんとなく違う空気に戸惑っていた。
やけに魔法騎士団たちが慌ただしく動いている。
静かだけど、殺伐とした重苦しい空気。
すれ違う官僚たちは誰も気づいていないようだけれど、宮殿の廊下の至る所に騎士がいる。
どこか物々しくて落ち着かない。
「どうやらアストレイア皇女殿下のお茶会で、毒物の混入未遂があったらしいぞ」
「そうなのか」
「しっ、声がデカい」
官僚のあいだからひそひそと声が聞こえた。
(道理で。そりゃあ、騒がしいわけよね)
ローゼルは、そっと周囲のざわめきに耳を傾けた。
「で、どうだった? イースティリア女官」
ローゼルの先輩上官のモーデッリア卿が声を掛けられ、ハッとする。
「え、はい。首尾は上々です。
議事録もばっちり作成できました」
何事もなかった素振りでローゼルは、にこっと笑った。
モーデッリアもつられるようにして微笑み返す。
「イースティリア女官の字は読みやすいからね。
しかも的確に正確にまとめてくれるから助かるよ」
「いえいえ、そんな……」
ローゼルは思わず頬を緩めた。
モーデッリアはいつもローゼルを褒めてくれる。
頑張った分だけ「よくやったね」と。
他の同期に言わせれば、「それぐらい頑張っているんだから当然だ」と言ってくれるけど、今の実家でローゼルが褒められることは滅多にない。
幼少期から側にいてくれる侍女のパトリシアたちは、ローゼルを大事にしてくれるけれど、それ以外の新米侍女たちは違う。
継母の指示でローゼルを貶め、令嬢としてありえない女だと触れ回る。
唯一あの屋敷で味方になってくれる父には、何も言えていない。
なにせ領地で借金返済のため、毎日必死であくせく働いているのだから。
そのとき、見慣れない他家の制服を着た侍女とすれ違った。
静かな女――。
何がローゼルの視線をとどめさせたのか分からない。
けど、ローゼルは彼女から目を離すことができなかった。
中肉中背、焦げ茶色の髪をゆるく一つにまとめ、切れ長の瞳。
こざっぱりとした容貌。
どこにでもいる若い侍女。
なぜ目を留めたのか、少し分かった気がする。
そうか、足音だ。
磨き込まれたピカピカの大理石の床は、歩くとどうしても足音がする。
ヒールのある靴はもちろん、作業日用のぺたんこ靴でも足音が鳴る。
でも、彼女は足音ひとつしない。
その周りだけがひどく静かで、まるでそこだけ周囲の温度も低いように感じた。
静寂。
彼女のいるところは無音だった。
ローゼルはなぜだか背筋がぞくりとした。
「どうしたんだい?」
ぽかんとするローゼルにモーデッリアが不思議そうな顔をした。
「いえ」
ローゼルは首を振った。
気のせいだ、きっと。
彼女はなぜか気配が薄かった。
まるで意図的に自分の存在を殺しているような――。
数人の魔法騎士団近衛部隊たちとすれ違う。
彼らからは衣類の擦れる音、剣の金切り音、コツコツという足音がする。
「やっぱり、普通しますよね。足音」
ローゼルがふと呟いた。
「え? なに?」
モーデッリアが尋ね返す。
「さっき、すれ違った侍女。
足音がまったく聞こえなかったです」
「へえ、よく気づいたね」
「そうなんです。
自分でもそう思います。
だって、不思議でしょ?
どうやったら足音を立てずに歩けるんだろうって」
その言葉を聞き取った魔法騎士団近衛部隊が即座に顔を見合わせて、ローゼルに詰め寄った。
「その侍女の特徴は?」
大きな騎士の影がローゼルを覆う。
張り詰めた緊張感。
答えないと許さないという威圧感にローゼルは震え上がった。
「えっと……」
噛み噛みになりながら必死でローゼルは侍女の特徴を答えた。
「ご協力感謝する」
近衛部隊たちは颯爽と侍女の後を追い始めた。
「なに、なんだったの?」
呆然として呟くローゼルに、騎士たちの迫力に負けたモーデッリアも「さぁ」と首を傾げた。
***
その後、噂によると、あの直後の近衛部隊は影のように動き、一人の侍女を捕らえたそうだ。
だが、次の瞬間、侍女は歯の奥の毒を噛み砕き、静かに命を絶ったという。
翌日の王城は、不気味なほど静けさを取り戻していた。
アストレイア皇女殿下の毒物混入未遂についても、誰も口にする者がいなくなった。
ローゼルがそれとなく周囲に探りを入れても、そういった噂話一つ耳にしたことがない。
十中八九、軍部から徹底した情報統制と箝口令が敷かれたのだろう。
けど、あのすれ違った瞬間の、「無音」。
奇妙な異様さ。
思い出すだけでも、全身がすうっと冷えていくみたいに硬直して、動悸が速まる。
(あの人、一体何者だったんだろう……)
夕闇に包まれ始めた王城の回廊で、ローゼルはそっと自分の腕をさする。
どこか遠くで、得体の知れない巨大な影がじわじわと這い寄ってくるような、不吉な胸騒ぎが消えない――。
***
そして、数日後。
この侍女こそがテーミナル川沿いの大衆食堂の看板娘を拉致した犯人であることも、そののちの魔法騎士団の調査で発覚した。
だが、それは軍部での機密事項となっていた。




