第5話 頬に残る熱と、柑橘の匂い
「止めろ!」
怒りが滲んだ低い声色が、ぴりっと周囲の空気を震わせた。
ローゼルとレオーネは弾けるように顔を上げた。
そこには、シャンパンのグラス二つを持ったルシアンが立っていた。
ルシアンはグラスを軽く魔法で宙に浮かせ、バルコニーの隅のテーブルへと滑らせる。
そして、靴音を響かせながら二人に近づいた。
「え、マジかよ! 何でクレインバール卿⁉」
レオーネが素っ頓狂な声を上げ、慄いた。
差し迫る威圧的なルシアンの迫力に負けたレオーネは、慌ててローゼルを投げ飛ばすように突き放した。
ローゼルは勢いづいて手摺に身体をぶつけた。
さらに慣れないピンヒールの靴でバランスを崩して足首を捻る。
「……痛っ!」
大きく身体が揺らめいた。
「イースティリア嬢!」
俊敏に駆け寄り、ルシアンがローゼルの体を支えた。
「大丈夫か?」
「す、すみません……」
「足、捻った?」
「少し。でも、大丈夫です」
ローゼルが自分の足で立ち上がると、ルシアンはほっと安堵のため息をついた。
そして、ローゼルを背に庇い、レオーネには鋭い眼光を湛えて見下ろす。
「ウルーム伯爵御令息殿。
これはどういうことか説明してもらおうか?」
ルシアンは静かな声で丁寧にレオーネの顔を覗き込むように言った。
その声には怒気が含まれていた。
ごくりとレオーネが唾を飲み込んだ。
「いやだなあ、クレインバール卿。何か誤解されているようです。
僕たちは婚約者同士ですよ。
あれくらい密着していても不思議ではないでしょ?」
飄々とした口調でレオーネは言った。
「ほう、なるほど。
だが、婚約者であろうと乱暴狼藉は見逃せませんね」
「僕は乱暴なんてしていません。
とんだ濡衣は困ります」
レオーネはわざとらしく朗らかな明るい声を出した。
「そうですか?
だが遠目には、弱い女性に無理を強いているようにしか見えませんでしたが?」
「ご冗談を。先程も申し上げましたように、婚約者に愛を囁いていたところです」
レオーネは笑顔で平然と嘯いた。
「ふうん、愛をね?」
「はい」
澄ました顔でレオーネは返事をした。
ルシアンがちらっとローゼルの手首に視線を投げた。
「おや? イースティリア嬢、これはどうされました?」
ルシアンがわざとらしく声を上げた。
「え?」
「イースティリア嬢、その手首の赤い痕は……先程のダンスではなかったはずだ」
ルシアンは、ローゼルの手を取り、じっくり観察するように視線を落とした。
「これは男に強く握られた痕だ。間違いない」
ギロリとルシアンがレオーネを睨む。
レオーネはぎくりと肩を震わせた。
カツカツとルシアンは靴音を立てて、レオーネに歩み寄った。
「改めて問います。
これはどういうことでしょう?
ウルーム伯爵令息」
冷たい声が間近に降ってきたので、レオーネは顔を蒼ざめた。
「乱暴したわけじゃないです。
ただ、つかんだだけで……」
「つかんだだけで、ご令嬢の肌がここまで赤く痕が残るはずないでしょ?」
さらに一歩ルシアンが詰め寄る。
「大の男が力ずくで握らない限り、こんな痕は残りません。
軍務で数多の暴行の痕を見てきました。
これはまさにその類です」
「いやいや、それこそ誤解ですよ、誤解」
ご冗談を、というようにレオーネは手を振ってみせる。
「それにローゼルは私の婚約者です。
婚約者のおられないクレインバール卿はご存知ないかもしれませんが、これくらいの痕なんて婚約者同士の営みの、その、暗黙の了解の一種のプレイのようなものですよ」
レオーネは引きつった笑みを浮かべた。
「ほう、プレイね」
ルシアンはうっすらと冷笑を浮かべて、もったいぶった態度で距離を詰める。
「確かに俺には婚約者はおりません。
結婚前から暴力的な痕を残すのはどうかと思いますね。
一度、詳しく話を伺った方がよさそうだ。
そのプレイを我々と楽しんでもらうことも可能ですよ?」
ルシアンの大きな手がレオーネの肩にのり、ゆっくりじわりと力を押し付けた。
レオーネは顔をしかめてルシアンを見る。
ルシアンはにっこり笑った。
その美しい笑みは決してほだされるものではない。
むしろ冷水を浴びせられた面持ちになって、レオーネはサーッと顔から血の気が引き、青から真っ白になった。
ローゼルもルシアンに庇われながらも、その声の冷たさに背筋が凍りついた。
これが、この国の武装魔法使いである武官――。
圧倒的な勝者。
「そうそう。
貴殿は婚約者の彼女以外にも様々な女性と交友関係があると、もっぱらの噂なんだそうで」
「え、そ、そうなんですか?」
レオーネはぎょっとする。
「いやぁ、それは初耳ですね。
他の令嬢と仲がいいとローゼにいろいろ嫉妬されてしまいますので、むしろ一線を引かせて頂いているぐらいで……」
苦し紛れに言い繕うレオーネにとって、ローゼルは噂どおり悋気が強い「悪役令嬢」という設定は欠かせないらしい。
ルシアンが高圧的な笑顔をレオーネに向ける。
「おかしいなぁ。
先程まで貴殿が婚約者を放置して、別のご令嬢と密会しているのを偶然私が見かけましたよ?
熱い抱擁に口づけまで交わして。
これを密会と言わずして何と?」
「そ、それは……っ」
レオーネはサッと顔を強張らせて言葉を失う。
息が詰まりそうな緊張感が走った。
「そうそう、話を戻しますが、先程の婚約者に暴力的な痕を残すのが暗黙の了解だとしても、他の女性に同じことをしてはそうはいかないでしょうね」
「え? 他の女性?」
レオーネが目を丸くした。
そのとき、静かな幾つもの足音がして、バラバラと猟犬のような屈強な体格の騎士たちが現れ、レオーネを取り囲んだ。
ローゼルは、思わず息を呑んだ。
広間からも何事かと人々が視線を投げ始めた。
囲まれたレオーネは足がすくんでか動けなくなっている。
「先程ソフィア・デブラント男爵令嬢から、レオーネ・ウルーム伯爵子息から手荒い乱暴行為を受けたと訴えがありました」
ルシアンがゆっくりと冷淡に言った。
「はぁ⁉」
レオーネは素っ頓狂な声を上げた。
ローゼルも目をぱちくりさせる。
「奇妙なことですね、ウルーム伯爵令息。
先程貴殿と密会していた相手はソフィア嬢でした。
それに間違いはないでしょう?」
「えっと、だから僕はそんな……」
レオーネは口ごもる。
ぐいっとルシアンはレオーネに顔を近づけた。
至近距離から射抜く冷酷な双眸。
「これでも視力は人並み以上あると自負しております。
戦地で数百メートル先を見極めてきたこの目です。見間違うはずがない。
それとも、私の目が狂っているとでも?」
「えっと……」
「婦女暴行を訴えられるということは、婚約者と同じような“プレイ”を彼女にもしたのですか?
ならば婚約者への行為も、傍から見れば暴行に等しい。
そうでしょう、ね?」
ルシアンは最後の「ね」に力を込め、さらに手に力をこめる。
レオーネの顔が歪んだ。
「男女のいざこざに騎士団が間に入るのも野暮ってものなんですが、訴えがあった以上こちらとしても調べないといけなくてね。ご理解とご協力願います」
ルシアンはレオーネの顔をじっと見つめた。
目を逸らさないし、瞬きすらしない。
すべて見透かされているような、見られているだけで落ち着かない目だ。
「ぼ、僕は……」
「お~っと、詳しくは地下牢の取調室でお聞かせ願います。
アラン、連れていけ」
震えるレオーネの声を遮ったルシアンは、第2魔法騎士団長であるアラン・リックランスに顎をしゃくった。
アランは、蒼ざめたレオーネの肩をつかんだ。
「騒がない方が身のためですよ。
ほら、行きましょう」
アランの冷ややかな囁きに、レオーネは観念したように色を失う。
何人もの屈強な騎士たちとともにバルコニーを出て行った。
それでも、何度かルシアンに庇われるローゼルを名残惜しそうに振り返っていた。
やがて彼らはバルコニーから姿を消す。
それでもしばらくの間広間でもざわめいていたが、ようやく弛緩した空気が流れ、音楽が奏でられる。
「イースティリア嬢。
手首と足首は本当に大丈夫か? 念のため冷やそう」
ルシアンが心配そうにローゼルの顔を覗き込んだ。
「だ、大丈夫ですよ、これくらい」
「本当?」
「はい」
「いや、やっぱ駄目だ。
――冷気よ集え、痛みを鎮めよ。
――冷光癒傷」
ルシアンは詠唱を唱え、ひんやりした空気をローゼルの手首と足首に流す。
「これぐらいは処置させてくれ」
熱がこもった部位が徐々に冷やされて気持ちがいい。
これは治癒魔法の一種なのだろうか?
じわじわと痛みがなくなって、ローゼルの強張った身体の緊張がほぐれていく。思った以上にプレッシャーを感じていたようだ。ほっとし、その解放感に身をゆだねる。
「――風、集え。杯を運べ。
――風翔送杯」
ルシアンが詠唱した。
シャンパングラスがふわりと宙に浮かび、ローゼルの手元に来る。
「さっ、どうぞ」
さっきの威圧感を与える男から一転、優しい笑顔をローゼルに向けた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ。とんでもない」
ローゼルがシャンパングラスを受け取ると、ルシアンがシャンパングラスをローゼルの方へ向けた。
「んじゃ、改めて」
「乾杯!」
声を揃えて言い、同じタイミングで目を合わせながらグラスに口をつける。
炭酸が喉を突き抜け、体の隅々まで染み渡った。
「美味しいぃ」
ローゼルはうっとりと呟いた。
解放感も相まって、口の中で軽やかなシャンパンの炭酸が弾ける。
完熟したフルーツの新鮮な香りと熟成による深みが完璧に調和している。
さすが皇帝陛下御用達だ。
ルシアンと目が合い、互いに笑みが零れた。
こんな素敵な人と一緒に飲めるなんて最高の気分だ。
(私、どうかしちゃったのかな。
最高峰のシャンパンが飲めることよりも、この方と一緒にいられるのが幸せと感じちゃってる……)
レオーネのことは、とりあえず考えるのをこの場ではやめておこう。
今はこの幸せをちゃんと噛み締めよう。
甘美な疼きが胸を震わせる。
それは痛みでありながら、魂を揺さぶる歓びの響きにも似ていた。
「悪かったね、巻き込んで」
ルシアンがすまなさそうに謝った。
「いえ、こちらこそ助かりました」
ローゼルは首を振った。
ぎゅっと華奢なシャンパングラスをローゼルは握りしめる。
指先が震え、グラスを強く握りしめてしまう。
繊細な器が割れてしまいそうで、慌てて力を抜いた。
「どうする?
イースティリア嬢もあの男を訴えることできるよ?
俺、証人になるし」
「いえ、そこまでは……」
ローゼルは手を振って断った。
もし私が訴えたら、継母がこれみよがしに嫌味を言ってくるに違いない。
それだけじゃない。
「格上の家柄の婚約者を格下の娘が訴えるのは生意気だ」とまた扇で叩き殴ってくる口実を与えてしまうかもしれない。
ローゼルはゾッとした。胸がきゅっと縮んで、思わず眉をひそめた。
「あの、それよりも本当にソフィアがレオーネを訴えたって本当ですか?」
ローゼルは話題を変えるために尋ねた。ルシアンは頷く。
「ああ、そうみたいだ。
嘘みたいだろ?」
「はい」
ついさっきまで、抱擁し合い口付けまで交わす熱々ぶりだったのに。
変なの。
違和感を抱いたのはルシアンも同じだったようで、不思議そうに首を捻る。
「俺もよく知らないけど、部下の報告を聞くと、あれは痴話喧嘩だな。
手首を捻ったとかなんとか訴えているらしいが、あれだけ熱烈に抱擁しておいてそれはないよなぁ」
ルシアンは苦笑し、シャンパンを飲んだ。
(ふうん、想定外。
仲良くゴールイン、じゃなくて……)
どうやら、ローゼルの作った水の球が原因で、二人の間に亀裂が入ったようだ。
それはそれで胸がすいた想いがする。
「俺はあの被害者ヅラした男爵令嬢の訴えより、イースティリア嬢に暴行しようとしていたことの方が問題だと思った。
本当、平気?」
ルシアンはローゼルの顔を心配そうに覗き込んだ。
「平気です」
硬い表情でローゼルは答えた。
それよりも皇族主催の夜会で騒ぎを起こした方が問題だ。
下手したらレオーネは侮辱罪に問われ、婚約者のローゼルのイースティリア家も連帯責任で罪に問われる可能性もある。
「レオーネはどうなるんですか?」
ローゼルは震えそうになるのを必死で押し隠して尋ねた。
「心配?」
「そりゃあ……一応あんなんでも婚約者ですから」
ローゼルは視線を落とす。
「ふうん、あんな男でも心配するのか」
「そりゃあ、まあ」
「大丈夫、一応伯爵の嫡男だろ?
デブラント男爵令嬢だけの証言ではそこまで重い処罰は下されないさ。
まあ、せいぜいお騒がせしたということで、少額の罰金刑が科せられる程度だろう」
「そうですか」
ローゼルは安堵した。
皇室主催の夜会で騒ぎを起こしたわりには、かなり軽い処罰だ。
「本当はもっと穏便に済まそうと思ったんだ。
けど、あんなふうにイースティリア嬢に乱暴するのを見たら居ても立っても居られなくってね。
手荒だが、すぐ捕縛すべきだと判断した」
「いえ、クレインバール卿はお仕事を全うされただけですから、お気になさらず」
ローゼルは曖昧に微笑んだ。
その一方で、レオーネの暗く澱んだ怒りを向けてくる顔が思い浮かんで、そっと粟立つ肌を撫でた。
あのままだったら、完全にレオーネのペースに引きずられていた。
怖かった。
まさに貞操の危機を感じた。
夜風がさわっと吹いて、足元が急に冷えたような気がした。
ローゼルは、ぶるっと身震いする。
ルシアンが上着を脱ぎ、ローゼルの肩に羽織らせた。
(温かい……)
「怖かったよな。
あんなに痕がつくほど強く握られて……」
ルシアンはローゼルの手首をそっと触れ、手首をすりすりするように撫でた。
ぞくっと甘やかな感覚が疼く。
ローゼルはくすくす笑った。
「くすぐったいです。
本当、もう大丈夫ですから。
それに上着も……」
「いいよ。着てて」
ルシアンは被せるように言って、柔らかく微笑む。
その時、バルコニー出入口付近から近衛騎士の男が声をかける。
「失礼いたします。
クレインバール軍事閣下殿、宰相閣下がお呼びです」
「え、マジかよ」
ルシアンがおもむろに顔を歪ませた。
「先程のウルーム伯爵子息の件で詳しく聞きたい、とのことです」
「はあ、分かった」
大きくため息をつくと、すぐさま姿勢を正した。
「すぐ行く。
そう宰相に伝えてくれ」
「承知致しました」
男は一礼して去って行く。
ルシアンは立ち去り難いと言わんばかりにローゼルの手を放した。
「せっかく久々に楽しい夜会だったのに、もう終わりか。
あの野郎のせいで台無しだな。ったく」
悪態をつきつつ、ルシアンはぐずぐずしていた。
まるでここを離れがたい、とでも言うかのように――。
ふと、ルシアンが体をローゼルの方へゆっくりと少し屈ませた。
吐息が頬に触れるほど近づいたと思った瞬間、ちゅっと軽いキスが落ちた。
あまりにも自然な流れだったので、ローゼルは最初何が起きたのか分からなかった。
目をぱちくりするローゼルにルシアンは優しく微笑む。
ようやく自分の身に起きたことを自覚したローゼルは、真っ赤に顔を紅潮させ、心臓が跳ね、視線を逸らせないままルシアンを見つめ返す。
頬に残る熱が胸の奥まで広がり、甘い痺れが全身を包み込む。
足元がふわりと揺れるような感覚に陥る。
「実は、今日ダンスに誘ったのはイースティリア嬢にお近づきになりたいっていう俺の下心だったんだ」
触れるか触れないかの距離で唇が耳朶を掠める感覚。
「これを機に仲良くしてもらえると嬉しいんだが」
「あ、あぁ……、はい」
声が思わず上擦った。
鼓動が激しく鳴り響き、ローゼルは一気に体温が上がった。
そんなローゼルからすっと体を離したルシアンが優しく見つめる。
「帰りの馬車はイースティリア嬢のためだけに手配しておくよ。
本当はご自宅まで俺が送り届けるべきなんだが、宰相は話が長いからなぁ。
たぶん無理そうだ。
だからごめん」
「いいえ、充分すぎるぐらいです」
ローゼルは勢いよく首を振った。
「いいや、次回は最初から最後まで俺にエスコートさせてくれ。
もちろん、イースティリア嬢に似合うドレスも贈るから」
ローゼルの蜂蜜色の双眸が揺れた。
この人、知っているのかな。
ドレスを男性が贈るのは意中の相手だけってこと――。
ローゼルは内心、打ち消す。
期待したら駄目だよ。
これ以上を望んではいけない。
ぎゅっと目をつむるローゼルから、ルシアンは寂しげに離れた。
「今宵は楽しかったよ」
ローゼルは弾けるように顔を上げた。
そのとき、ルシアンの耳朶が少し赤いのを目にし、ローゼルはますます目を見開いて驚いた。
「イースティリア嬢、親交を深める意味でも近々一緒に飲みに行こうな」
ルシアンは照れくさそうに片方の手を挙げ、大広間に戻って行った。
ローゼルは借りた上着を返し忘れ、その上着をぎゅっと握った。
柑橘系の爽やかな匂い――。
***
ローゼルがルシアンの用意した馬車に乗った。
クレインバール卿の家紋の入ったキャビンだ。
そのすぐそばの物陰で、一人の令嬢が舌打ちをした。高位爵位の令嬢にあるまじき姿だが、本人は一向に気づいていない。
覚えていらっしゃい、絶対に許さないから――。
彼女の持つ扇がパキリと音を立てて折れた。




