第4話 おぞましい婚約者
あぁ~、なんて幸せな夜なんだろう。
ローゼルは夜の澄んだ空気を、思いっきり吸い込んだ。
今晩も壁の花でいるはずだったのに、思いがけずあのルシアンとダンスをすることになった。
嘘みたい。
ルシアン・クレインバール――十ある魔法騎士団を束ねる総騎士団長。
そして、兼任で軍師として君臨する本来のローゼルには手の届かない御仁。
しかも、武官とは思えないほどの洒脱さがあって、精悍で麗しい。
彼に憧れる令嬢は多い。
女官の中にも当然密かに憧れる者もいたし、女性騎士の間でもその容貌と紳士的態度に心を寄せる者がいると聞いた。
そんな美しい彼に見つめられながら踊ったダンス。
蜜のような余韻がまだ残っている。
本当に夢のようだ。
ただエスコートされただけなのに。
胸が苦しくなるほどに鼓動が速まる。
くすぐったい甘い感覚。
ふわふわと浮き足立つのを強く感じた。
なんだか落ち着かない。
ローゼルは、前髪を思わず触って整える。
(さっき、つい魅入って見つめてしまったけど、変に思われていないかな)
あの時――皇族会議の時はとにかく緊張して、これから起きる出来事にヒヤヒヤしていた。
彼のご尊顔をゆっくり拝めるほど余裕もなかった。
けれど、今は違う。
ルシアンに熱を上げる令嬢たちの気持ちがすごく分かる。
そんな彼と踊っている最中、彼女たちの視線は痛かった。
きっと今頃、私の悪口のオンパレードだろう。
(でも、私は気にしない)
実際の私を知らない人が好き勝手言うのは不快ではあるが、興味ないし、気にしていても意味がない。
私には生憎同じ年齢くらいの女友達は同期の女官のエレナ以外いない。
だからだろうか、虚栄心も、対抗心も、焦りもない。
私は令嬢たちが持っているような輝かしいもの、何もひとつ持っていないから――。
今宵だって、いつか美しい思い出として残るだけ。
そもそも、冷静に考えれば、すぐわかることだ。
(ああいう上等な麗人は、いつか自分と同等の淑女を相手に選ぶもの。
そう相場が決まってるもの)
ローゼルは煌々と輝く月を仰ぎ見た。
今宵は彼の気まぐれにすぎない。
ドレスを贈るというのも、社交辞令に過ぎない。
期待してはいけない――。
望んではいけない――。
だからこそ、今宵だけはこの浮遊感ある幸せを楽しみたいと思う。
(そうよ、一晩くらい、私が夢を見たって減るもんじゃないし)
それよりも気になるのは、皇帝陛下が振舞っているというシャンパンだ。
一体どんな味がするのかしら。
ローゼルはシャンパンの味を口の中で想像する。
炭酸はきめ細やかで爽やかな味わいなんだろう。辛口?
それともやや甘口かしら?
きっと最高級の逸品に違いない。
夕方にレオーネと一緒に馬車に乗ったときの憂鬱とは一転、今は最高の気分だ。
(こんなに楽しい夜会は生まれて初めて!)
「ローゼ!」
突如背後から声が響く。
振り返ると、違う衣装に身を包んだレオーネがいた。
一気に興醒めした。
舞い上がっていた気分を土足で踏まれた気がして、ローゼルは憮然とした。
「なに?」
「なに、じゃない!
俺がいない間に他の男と踊りやがって!
恥ずかしいと思わないのか⁉」
ずかずかとレオーネは詰め寄り、声を荒げた。
「断れない相手だったとしても、婚約者がいるんだ、断れ。
それが難しいならちゃんと俺に相談しろ。
俺が断ってやる!」
怒気を含んだ瞳。
かなり苛立っているのは一目瞭然だ。
けれど、ここは王宮の宮殿の大広間だ。
さすがのレオーネだって、むやみに罵倒はしてこないはずだ。
「レオーネだって、他の令嬢とたくさん踊っていたじゃない。
自分のことは棚上げなの?」
ローゼルは不服そうに口を尖らせた。
「俺はいいんだよ」
フンと鼻を鳴らして、レオーネは腕を組む。
「なんで?」
「俺のは社交だからだ」
「はい? だったら、私だって社交だよ?
仕事の仲間が誘ってくれたのに、それを断るのも大変なんだよ」
「何言ってるんだ。
ローゼルは女だ。
婚約者以外の男とダンスなんて、もってのほかだ」
「え、それって私の交友関係はどうでもいいっていうの?」
「ああ、どうでもいいね」
レオーネは躊躇うことなく、言い捨てた。
ローゼルは一瞬絶句した。
なんて勝手な。
純粋に怒りがむかむか湧いて来た。
「だいたいレオーネだって――何で衣装、変わってるのよ?
その理由を教えて」
ローゼルは、自分が彼らの衣装替えをする原因を作ったのだが、あえて知らぬふりをして尋ねた。
レオーネのカッと顔が赤くなった。
「うるさい!」
その怒号に、びくっとローゼルは身を縮こまらせた。
「どうせ、俺ともうすぐ結婚だ。
ローゼルは他の男と交友関係を深める必要はないんだ」
「ちょっと待ってよ、結婚の日取りもまだ決まっていないんだよ?
それに私はまだ働きたいし……」
「働く?」
レオーネの顔がたちまち鬼の形相に変わった。
ローゼルは唐突に、不安な気持ちに襲われた。
さっとレオーネの腕の動きを観察する。
また叩いて来るかな。
だけど、さすがに彼もそこまで馬鹿じゃない。
場所と状況を見極めるはずだ。
(だったら、ここで立ちすくんではいつもの二の舞だよ)
ローゼルは自分を叱咤した。
「あのね、レオーネだって分かってるでしょ?
私は、働かないといけないの」
「ふん。イースティリア子爵家は借金まみれだからだろ?」
「そうだよ。本当なら今晩もお仕事の予定だったんだよ。
だけど、参加しろっていうから来てみたら、レオーネは私を放っておいて、他の令嬢と楽しそうにダンスしても、知らない女の子と二人きりで消えちゃって。
それでも帰りはちゃんと迎えに来てくれるから――ずっと我慢していたけど、もう限界だよ」
ローゼルは強い眼差しでレオーネを見据えた。
レオーネは驚愕していた。
まさか、いつも言われっぱなしで押し黙るローゼルが、今晩に限って反抗する。
これは意外だったのだろう。
けれど、不意に、レオーネの舌打ちが響く。
「我慢? ふざけるな」
ローゼルの背中を冷たいものが這い上がってきた。
「いいか、ローゼ。
勘違いするな。
お前は俺の婚約者なんだ。それくらい我慢するのは当然だ」
ずんずん歩き進めてローゼルに踏み込む。
「だいたい女官なんてやってるから、可愛げがなくなるんだ。
今すぐやめろ」
レオーネの台詞に、ローゼルのこめかみがピクリと動いた。
「それ、今、関係ないよね。
仕事は私の生き甲斐であり、存在意義。
それを否定されるのはさすがに許せない」
「許せない?
ローゼのくせに生意気だな」
レオーネは陰気でぞっとする声を出す。
爛々とする血走った眼。
ローゼルは思わず身をすくめた。
近づいてくるレオーネがいつも以上に巨大に見えた。
「俺に口答えか?」
ローゼルは首を振った。
屈辱と怒りが、恐怖と絶望が身体の底から噴き出してくる。
やだ、怖い、近づかないで。
心の中で叫んだ。
「いいか。俺以外の男としゃべるな」
思わずローゼルは身を翻して逃げようとした。
けれど、容赦なくレオーネはその手首をぐっと掴んだ。
「痛い! 痛いよ、レオーネ」
あまりにも強い力にローゼルは痛みに顔をしかめる。
「お前は将来の夫の俺の言うことだけを聞いていればいいんだ。
他の男に触れるのも、触れられるのも絶対に駄目だ。
俺にだけ縋りついていればいい!」
こわい、こわいよ!
警鐘が鳴った。
レオーネから手を振り払って逃げようとするのに、レオーネはローゼルの腰をがっちり固定し、身動きを取れないようにしていた。
「逃がさない。
ローゼは俺のモノだ」
レオーネの怒りに燃えた奇妙な目つきに、執着にも似た熱が宿っている。
ローゼルは震え上がった。
「じゃ、……じゃあ、私にもレオーネからの贈り物貰ってもいいんじゃないの?」
「は?」
レオーネが間の抜けた声を出した。
「だって、レオーネは他の令嬢たちにばっかり贈り物をして、私には何も贈ってこないじゃないの。
別にモノが欲しいわけじゃないけど、婚約者なんだからちゃんと婚約者扱いして欲しいの」
ローゼルはなんとかこの場から逃げ出そうと苦し紛れに言い捨てた。
だが、藪蛇だったようだ。
途端に、レオーネがにやりと笑って、ローゼルの顎をつかんで引き寄せた。
「ふうん、そうか。
ローゼは俺に構って欲しかっただけか」
「え?」
さらにレオーネの男の力に、ぐっと引き寄せられた。
「だったら、初めから素直にそう言えばいいのに。
案外可愛いところもあるんだな。
俺に嫉妬させるためにわざと他の男と踊ったんだろ。
大丈夫、ちゃんと俺はローゼのことも見ているぞ」
舌なめずりしながら呟く。
劣情を孕んだギラギラした青い瞳。
濁った欲望が渦巻くその眼差しに、ローゼルは身の危険を直感して身をすくめた。
「えっと、そういう意味じゃないんだけど……」
気まずそうに視線を泳がせた。
「なぁ、ローゼ。
俺の傍にいたいなら素直にそう言えよ。
寂しいって。慰めてほしいって。
ローゼの同意があれば、結婚初夜前倒ししてもいいんだぜ」
ハッとしてローゼルは弾けるようにしてレオーネを見た。
(この人、何を言っているの?)
顔が青ざめた。
決して誰も構ってほしいと思っていない。
だいたい、今まで放置しておいたくせに初夜を前倒しするなんて、狂気の沙汰としか思えない発言だ。
まったくもって意味が分からない。
「ほら、言えよ。
寂しかった、慰めてって」
かつてないほど、レオーネが一人の男なのだと感じた。
圧倒的なおぞましい雄の暴力。
到底敵わない腕力。
剣術で鍛えた太い腕に硬い筋肉。
ローゼルはいつもレオーネの怒りは癇癪を起こした子どもと同じだと思っていた。
けど、全然違う。
「怖いよ、レオーネ」
ローゼルの心臓が早鐘を打つ。
視界が揺らぐ。
背筋がひんやりとした。
いつの間にかレオーネの顔が差し迫って来て、ローゼルの唇に触れそうになった。
すかさずローゼルの唇の前に手をかざした。
「やめて」
「いやだ、やめない」
レオーネがさらにじわりと力を込めて抱き寄せ、かざしたローゼルの手をぺろっと舐める。
ぬるりとした湿った感触。
全身の毛穴が総毛立った。
「いやっ!」
気持ち悪い!
ますます顔を締め上げられ、ローゼルは痛みのあまり顔を歪めた。




