第64話 ウルーム伯爵の誤算と、サロンの乱入者
王宮来客用サロン。
三面が天井まで届く巨大なサッシになっていて、晴れた日には外のテラスでもお茶を楽しめる上流階級だけが使用できる特別部屋だ。
ナージュ・ウルームがサロンに足を踏み入れる頃には、すでに何人かの貴族がそれぞれ自由に席に着き、商談なのか雑談なのか、思い思いにティーカップを片手に話し込んでいる。
ナージュはサッシ側の隅に陣取り、贅を尽くした椅子に腰を下ろした。
さすが王宮内のサロンだ。
座り心地抜群の最高級の椅子を使っている。
沈み込みすぎず、程よい弾力を備えている。
(それにしても、もうすぐ昼か)
王城は貴族だからといって、むやみに入門できる場所ではない。
正当な理由のある者しか入城を許可されない。
予約なしで王城を訪れたため、入城時にいろいろと問いただされ、思いのほか手間取ってしまった。
以前はこんなに厳しくなかったはずだが。
そういえば風の噂によると、先日の皇族会議では入城手続きが曖昧に行われ、不審者が易々と侵入してしまったと聞いた。
(そうか。
だから、それで警備レベルがぐんと上がり、以前よりも入城が厳しくなったのか。
であれば、致し方ない)
ナージュは納得するように、一人で大きく頷いた。
今回の皇族会議の警備案は元総務大臣ビアード伯爵だ。
所詮、剣術も馬術も最低ランクのアイツが練った案なんてたかが知れている。
(そもそも気に入らなかったんだ。
大した実力もないのにグロウディーナ公爵の庇護を笠に着て、好き勝手に振る舞って。
恥を知れ)
フンとナージュは鼻を鳴らして、腕を組んで背もたれにもたれる。
そこへ給仕の男が現れた。
「恐れ入ります。
お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ウルーム伯爵だ」
「ありがとうございます。
お待ちの方は帝国公務員の方でしたでしょうか?」
「ああ、そうだ。
法務省のイースティリア女官とここで落ち合う約束をしている」
「承知いたしました。
どうぞ、お好きなドリンクをお選びください」
給仕の男がナージュにメニュー表を見せた。
どうやら待ち人が帝国公務員の場合、ここのドリンクはすべて無料になるらしい。
なかなかいいサービスだ。
「もう少しいたしましたら、昼食時間になります。
お飲み物と同時に軽食も選べます」
そう彼が言った途端、メニュー表にぼわっと文字が浮かび上がり、軽食の名前が追加された。
(ほう、面白い魔法だな)
ナージュは興味を覚えた。
察するに、彼の「昼食時間」という言葉がトリガーとなって字が浮かび上がる仕組みらしい。
時間帯に合わせて食事内容を変えているのだろう。
「さて」
ローゼルが好きそうな花の香りの茶葉と、自分が好むミント入りの茶葉。
それからケーキの盛り合わせを頼んでおこう。
あの子は小さい頃から甘いモノに目がない。
ここ数年は父親の事業失敗で碌な菓子を食べていないだろうに。
「ウルーム伯爵、お待たせしました」
そこへ書類を両手いっぱいに抱えたローゼルが現れた。
物凄い大量の書類にナージュは目を見開く。
「すみません、遅くなってしまって」
平然とした表情でローゼルは、隣の空いている席のテーブルに書類を無造作に置いた。
「なんだね、これは」
「何って……。
これは全部仕事の書類です」
「仕事の?」
「はい。
私、各部署の書類受け渡し係と魔法省との連絡係を担っているんですが、朝一回った時に提出できなかった関係省庁の担当の方から、ここに来る間に渡されてしまったんです。
『お客様と今から会うから』と言っても、皆様お忙しいのか聞く耳を持ってもらえず……。
結局、この有様です。
ちょうど書類更新時期で繁忙期と重なり、先方も余裕がないのでしょうね」
ローゼルは早口でまくし立て、肩をすくめた。
「伯爵、あまり見目はよくないですけど、お許しくださいね」
申し訳なさそうな顔をした。
「いや、全然構わないのだが……。
まあ、座って」
「はい、失礼します」
ローゼルはナージュの対面の椅子に優雅に腰を下ろした。
すっかり所作や仕草が淑女だ。
ローゼルの母親マリアーナと幼きローゼルが、ウルーム伯爵邸に遊びに来ていた頃とは全然違う。
ナージュは一抹の寂しさを覚えた。
「それにしてもすごいなぁ。
これをローゼルが全部受け持つのか?」
「受け持つ……う〜ん、正確には法務省内の関連部署に仕分けするまでが私の仕事なので、配布業務という点では私が担当になります。
ですが、実際に書類を手掛けるのは担当官僚たちです。
あっ、魔法関連は私が全担当なので、それは私が行います」
「魔法関連の担当者。
そうか……」
素直にナージュは感心し、そして驚いた。
ここまで膨大な書類を担当ごとに分ける。
それだけでも、骨が折れる作業だ。
見れば書類も一種類ではなく何十種類もある。
書類名を覚えるだけでも一苦労なのに、ローゼルの頭の中には担当者まですべて把握しているというのか。
その上、魔法関連の担当だなんて。
もはや一介の女官の仕事量ではない、男の官僚と同じ負荷の仕事ではないか。
それをこんな小柄な「子リス女官」なんて揶揄されている子が行う。
到底信じられない。
ナージュは奇妙なものを見るような目で、書類を整えるローゼルの横顔を見た。
アカデミーに行かずとも女官になれたほどの才女。
幼い頃から要領も良かった。
むしろ、息子レオーネの不器用さと段取りの悪さには苛々させられたほど。
ローゼルが、皇太子殿下の学友でもあるローゼルの兄アルバートに似て優秀なのは知っていたが、ここまでとは。
(全然話が違うじゃないか)
溌剌と仕事をこなし、馴れた仕草で書類を扱う。
目を輝かせて楽しそうに仕事を語り、女官らしい独特な雰囲気と堂々とした振る舞いをする。
どこからどうみても立派な女官だ。
彼女はローゼルのことをなんと言っていた?
――あの子が女官になれたのは、ライアナース卿の愛人になったからですわ。
シャルル・イースティリアの声がナージュの頭の中で響いた。
同時に、ベッドの上で彼女の華奢な肩からするりと下着が滑り落ち、雪のように白い肌が剥き出しになる光景が脳内を掠める。
――そんなわけはあるまい。
法曹一家のライアナース一門だ。
そういったアンフェアなやり口を好まない。
ナージュはそんな彼女の豊満な胸に優しく口づけをする。
――だって、そうでもしなきゃ、あんなに怯えて縮こまって何もできない娘が、誉れ高き職業の女官になれるわけがありませんわ。
クスクスと小馬鹿にしたようにシャルルは笑う。
(どこが何もできない娘なのか……)
ナージュは目の前のローゼルに視線を投げ、内心舌打ちをした。
「忙しいところ、悪かったね」
ナージュはそっとローゼルの顔を覗き込んだ。
「いいえ。
今日はまだ少ない方ですし、大丈夫ですよ」
ローゼルはにこっと微笑んだ。
「これで少ない?」
ナージュはぎょっとした。
「はい。先日倒れてしまって以来、仕事量を一気に減らされましたから」
「え? 倒れた?」
ナージュはサッと血の気が引いた。
「はい。でも、これくらい余裕です。
あっ、ドリンクとか頼みましたか?」
「ああ、ローゼルが好きそうな茶葉とケーキセットを頼んだよ」
途端にローゼルの瞳がキラキラ輝く。
「わぁ、嬉しい。
ここのケーキ、評判で気になってたんですよね」
ナージュはくすっと笑った。
お菓子に目がないところは全然変わっていない。
「そこまで喜んでもらえると足を運んだ甲斐があったよ。
それより、その、倒れたとはどういうことだ?
何かあったのかい?」
ナージュは眉をひそめて尋ねた。
「ああ、それは……」
ローゼルは出張中に魔物に襲われ、闘ったが急性魔力欠乏症になったことを淡々と話した。
ナージュの動悸が速くなる。
どういうことだ?
ローゼルが魔物に襲われるなんて。
冷たい汗が背中に流れた。
以前レオーネが襲われたときも肝を冷やしたが、それ以上に恐ろしい――。
どうしてこんなことになった?
あれだけ再三注意をしたのに――。
「失礼いたします」
給仕の男が注文していた香ばしい紅茶とケーキセットを運んできた。
「わぁ」
ローゼルは歓喜に満ちた声を上げた。
「ささっ、ローゼル。食べなさい。
急性魔力欠乏症は栄養をとにかく蓄えないといけないからね」
「はい、ありがとうございます」
ローゼルは無邪気に笑って、さっそく木苺のチーズケーキを選んで食べ始めた。
おかしい。
何かが狂っている。
ナージュはひどく動揺した。
平然と余裕ぶってローゼルと他愛ない会話を如才なく交わすが、内心はそれどころではない。
じんわりと嫌な胸騒ぎを感じた。
こんなはずではなかった。こんな――。
「噂通りの美味しさですね。
伯爵も召し上がってみてください」
ローゼルの声にナージュはハッとした。
「ありがとう。
それで、その後、体調は?」
「はい。お陰様でこの通り元気です。
あっ、すみません。
私の話ばかりしてしまって」
「いや、近況を知れてよかったよ」
ナージュはお茶を口に運びながら、ローゼルから視線を外さない。
ふと目が合うと、ローゼルはにっこり笑う。
その時、気づく。
人懐っこい笑顔なのに、どこか一線引いたような醒めた眼差し。
相変わらず、黙っていると父親譲りの硬質的な美を放つ子だが、今はやけにどこか拒絶するかのような、よそよそしい感じが否めない。
ローゼルはティーカップに口を付け、姿勢を正す。
「それで、伯爵はどういったご用件でお越しいただいたのでしょうか?」
「ああ、そうそう。
ローゼルにお願いがあってね」
「お願い?」
ローゼルは蜂蜜色の瞳をきょとんとさせた。
「そう、お願い」
ナージュも座り直す。
一瞬黙り込み、ローゼルを改まった顔つきで見据えた。
「世間ではレオーネと男爵令嬢の仲を色々と言われているが、所詮、若気の至り。
全然気にしなくていい。
レオーネとこのまま結婚してくれないか」
ナージュの言葉に、ローゼルからすっと表情が消えた。
持っていたティーカップをゆっくり下ろし、カチャリと陶器の乾いた音が響く。
しばらく沈黙があった。
次の瞬間。
ローゼルの蜂蜜色の双眸が、ふと揺れた。
「ご冗談を」
冷ややかな笑み。
たちまち屈託のない愛想は霧散し、代わりに静かな怒りがこもっていた。
ナージュは不吉なものを感じた。
目の前にいる彼女から異質さを感じた。
「申し訳ございませんが、いくらウルーム伯爵のお願いでも、それだけはもう聞くことができません」
硬い声。
揺るぎない決意を秘めた強い眼差し。
ナージュは喉が詰まり、足元が揺らぐような不安定さに襲われた。
「なぜ?」
ナージュの声は震えていた。
「なぜも何も――。
あんなふうに王城の夜会で人目を憚らず浮気をされて、挙げ句の果てには暴行されそうになりました。
それに、その後の謝罪も手紙ひとつで終わらすような不誠実な方です。
さすがに一緒になれません」
ローゼルはゆるゆると首を振った。
拒絶の言葉は刃のようにナージュの胸を裂き、心を重く締めつける。
「どうしてもか?
十年近く、愚息の婚約者でいてくれたじゃないか」
「年数は関係ありません」
凛然とした面差しで、ローゼルの双眸は真っすぐナージュを射抜く。
ナージュは絶句した。
その瞬間、ローゼルの中身がそっくり別のものにすり替えられているような錯覚に陥った。
自分が信じていた一部がぐらりと揺らぐ。
誰だ? この子は――。
ローゼルは従順な子だったはずだ。
こっちが強く言えば、ぐずぐずするけど、ちゃんとお願いを聞いてくれる女の子だった。
それが、こんなにも強い眼差しでこちらを貫くように見据えてくる。
また沈黙が重く垂れ込めた。
温かい陽射しが注ぐのに、二人の間だけはやけにしんと冷え切っていた。
しばらくして、ローゼルが思い切った様子で口を開く。
「伯爵はいつも私に優しくて親切で、私、これでも伯爵が義理の父になっていただけるのをとても楽しみにしてたんです。
レオーネの妹のシリルも私に懐いてくれてとても嬉しかったし、このままレオーネと結婚して、家族になって行くんだなあって、ずっと思ってました。
けど、もう無理なんです」
「そんな殺生なこと、言わないでくれ」
ローゼルは激しく首を振った。
「私は、あんなふうに裏切ったレオーネを許すことはできません。
本来でしたら、我がイースティリア家に何らかの瑕疵があったわけではありませんので、伯爵家に慰謝料請求させていただき、婚約破棄したいところ。
そして、私としては金輪際関わりたくないと思っています」
見えない透明な壁がナージュとローゼルの間に落ちてきた気がした。
どうして?
どうしてそんなことを言うんだ?
ナージュは未だ現実が受け止められずにいた。
指先から力が抜け、膝がわずかに震える。
「先程も申し上げましたとおり、私にとって伯爵は幼少期より可愛がってくださった方。
父との共同事業もありますので、そこまでの仕打ちをしたくありません。
婚約破棄をしていただければそれで充分です」
「そんなことをしたら君は醜聞持ちになってしまうぞ」
ナージュは身を乗り出した。
「そうでしょうね。
でも、案外女官やっていたら『婚約破棄されたら我が家の嫁に』なんて声を掛けてくださる風変わりな御仁もいらっしゃるんですよ」
やんわりとローゼルは微笑んだ。
その妖艶さにナージュはハッとした。
知らない間にこの子は成長している――。
俺の知っているローゼルはこんな大人びた美しい笑みを浮かべるような子じゃなかった。
駄目だ、駄目だ。
離れていくことを許してはいけない。
「いや、そんな甘い言葉に騙されてはいけない。
後妻探しとか箔をつけたい都合のいい貧乏貴族の伴侶にさせられてしまうぞ」
ナージュは必死で訴えた。
「そうですね。
足元を見られてそうなるかもしれません。
でも、いいんです」
ローゼルはぴしゃりと言い放つ。
「独りで生きていきますから。
女官を続けていれば、それなりのお給金が入りますし、長く勤めれば勤めるほど老後は充分な年金も支給されます」
躊躇いのない強い言葉だ。
ナージュはたちまち不安になった。
「それでは女として心許ないだろ?
女としての幸せはどうなる?」
ローゼルは一瞬逡巡して、それから不思議そうに首を傾げた。
「あの、お言葉ですが、女の幸せ、とは一体なんなのでしょうか?」
ナージュは一瞬、言葉を失う。
「――それは、貴族令嬢として子を残す。
それが令嬢の最大の役目だ」
自分でも驚くほど、掠れた声が出た。
「そうですね。
以前の私もその役割を果たすべきとは思ってました」
ローゼルはそこで言葉を切って、じっとナージュを見た。
「私、女官になってお給金をもらって自立していくことで、女であることが足枷だと思ったことが何度もあります。
どれだけ実績をあげても、男性官僚が早く昇進しますし、嫁候補として品定めされる視線ばかりでした。
しまいには『妾にしてやるから光栄に思え』なんていう上級貴族の子息もいたほどです」
「それは——大変だったな。
だが、仕方あるまい、貴族社会は男社会だ。
嫌であれば女官なんか辞めればいい。
さっさと女の幸せを手に入れて……」
「私に辞める選択肢はありません」
ローゼルの台詞にナージュは息を呑む。
「だ、だが、いずれちゃんとした男のところに嫁ぐべきだろう?」
「ええ、そうかもしれません」
ローゼルが射るような目でナージュを貫き続ける。
「ですが――その相手はレオーネではありません」
ローゼルはハッキリと断言し、ナージュは今度こそ言葉を失った。
あの目だ。
あの蜂蜜色の目。
マリアーナにそっくりなのに、ひどく自分を不安にさせる。
なぜこんなにも頑なにレオーネとの婚約を拒絶する?
マリアーナと同じ瞳のローゼル。
自分を呼びかける声もそっくりのローゼル。
記憶の中のマリアーナと重なるのに、全然違う。
まさか、メイットがローゼルにレオーネが犯したかもしれない罪の話をしたのか?
いやいや、もしそうだとしても、本来の姿はそれでも婚約者の無実を信じ、婚約者に寄り添うべきものだ。
この子は誰だ――?
一人前に自分の意見を述べ、国のために働く帝国公務員として自立した女官のローゼルなんて知らない。
これだから、女がむやみやたらに知識をつけるのは好ましくないのだ。
女は慎み深く、粛々と男に仕えるべきなのに。
膨れ上がる不満に悶々とする。
「おや、これはこれは。いいところに。
こんにちは、ウルーム伯爵」
すっと横から声が掛かった。
礼儀正しく、知性溢れた低いよく通る声。
だが、どこかに恫喝の響きがあって、ナージュはびくっとした。
全身が総毛立ち、喉がやけに乾いた。
――そこで立っていたのは、冷徹に見下ろすルシアン・クレインバールだった。




