第62話 陞爵の夜、父と軍師の静かな決意
ルシアン・クレインバールは、ローゼルをイースティリア邸の玄関先まで送り届けると、じっと屋敷を見据えた。
この屋敷には、彼女を傷つける人間が多すぎた。
子爵が随分と頑張って、屋敷内改革をしてくれたようだが、最大の敵――継母シャルルはまだいる。
彼女は油断できない。
ルシアンはローゼルの部屋に灯りがすぐに付いて、ほっと胸を撫でおろした。
すんなり部屋に入れたということは、どうやら屋敷内で継母と会わずに済んだということだ。
(まったく、なんでイースティリア子爵は、あの夫人と結婚したんだろうな)
ルシアンは、夜の冷たい空気の中で、以前ローゼルの上官ライアナースに聴取した時の台詞を思い出す。
――彼女の継母はいわゆる旧ナバロー王国の信念をそのまま貫き通すご生家で育ったようでしてね。
あれがやけに頭の片隅に強く残っていて、継母シャルルの系譜――セインレイム准男爵家を徹底的に洗った。
彼女は亡国ナバロー王国の貴族の末裔だ。
一方、建国以来このアイルナバロー連合帝国に忠義を尽くしてきたイースティリア子爵家。
何がどうなって、あんな胡乱な家系と婚姻を結んだのか。
まともな感覚を持つ大貴族であれば、こぞって首を傾げるような、それほどに歪な婚姻だった。
(この前はそこまで聞けずじまいだったんだよなぁ)
ルシアンは、苦い思いを抱えながら、馬車まで歩く。
イースティリア子爵は、人格者なのだが、なかなか猜疑心の強い男だ。
そして、実に聡明だ。
思慮深さや、気配りの仕方、生来の気の良さで新たな事業の大半は成功を収め、皇帝陛下の覚えもめでたい。言い方は悪いが、年寄り誑しもうまい。
だからこそ、そんな男が何も意図なく彼女と婚姻するだろうか。貴族の結婚は必ず打算が発生する。きっと何か意味があるに違いない。
とはいえ、本能的にこれはイースティリア子爵にとって、最もタブーな話題だと感じた。
ローゼルとの将来も考慮すると、ここで彼の信頼を損ねるわけにはいかない。
もう少し信頼関係を築き上げてから踏み込むべきだろう。
ルシアンは、背後の様子を盗み見た。
(ああ、ここにもいるな――)
ルシアンはちらっと背後にある針葉樹林に目をやった。
気配が二つ。
殺気はない。
監視だけか。
奴らは、魔力は大したことがない雇われ魔法使いだ。
十中八九、『秘密結社 黒の杖』に依頼された輩だろう。
夜だというのに、白いガウンを纏っている。
隠密行動に向いている格好とは言えないが、気配を消すのはそこそこうまいようだ。
(俺には筒抜けだけどな)
目的はイースティリア子爵邸の――ローゼルの動きを監視。
そんな感じか。
あの程度の魔法使いなら、無闇に攻撃はしてこないだろう。
なにせ、ローゼルの水攻撃魔法やイースティリア子爵の土魔法なら、あれしきの魔法使いの魔法は瞬殺できる。
しかしながら、内部にはシャルルが、外部にあんな監視がついては少々不安だ。
もはやこの国の転覆を狙う『秘密結社 黒の杖』にとって、ローゼルは目の上のたんこぶ、天敵だ。
ローゼルにとっては単に地道に仕事をしているに過ぎないだろう。
その類まれなる才能と鋭い魔力感知、さり気ない発言、さり気ない観察眼。
皇族会議は勿論のこと、第1皇女の暗殺未遂の犯人まで炙り出した。
ここ半年もの間に彼らの計画をぶち壊しにしたのだ。
(それはもう見事なまでの番狂わせのはずだ)
彼らからしたら、もはやただの女官ではない。
危険人物としてリスト入りするかどうかを見定めたくなるのも頷ける。
ルシアンは愉快に思い、口元を綻ばす。
しかし、当の本人はその自覚がまったくない。
一応、急性魔力欠乏症で倒れたローゼルを運んだときに、ルシアンは屋敷全体に外部からの攻撃を防ぐ防御結界を張った。
(だが、俺の防御結界は弱い。どうしても攻撃魔法に特化してしまう)
その点、ローゼルの同期のエレナ・ヴァービナスは、防御魔法の専門家だ。
ローゼルがクレインバール邸に引っ越してくれるならいいのだが、あの様子だと難しいだろう。
このままローゼルがこの屋敷に住み続けるのなら、いっそのこと今度彼女に頼んでみようか。
ローゼルを守るために、この屋敷に結界を展開してくれ、と。
きっと、ローゼルを大事に想う彼女なら喜んで引き受けてくれるはずだ。
(念のため、マルスクにあの監視を監視させるか)
マルスクはルシアンの付き添いの執事だが、それ以上に隠密行動にも長けている。
ルシアンが馬車に乗り込もうとしたところ、一台の馬車がちょうど到着した。
馬車の客車にはイースティリアの紋章が入っていた。
馬車はルシアンの目の前で止まる。
そこから一人の紳士が降りてきた。
ローゼルの父メイット・イースティリアだ。
彼と直接会うのは、先日ルシアンがローゼルとの婚姻について話に行ったあの日以来だろうか。
「こんばんは、クレインバール軍師閣下」
メイットはやや疲れた表情で挨拶をした。
「こんばんは、イースティリア子爵」
ルシアンは人懐っこい笑顔を向ける。
「先程ローゼル嬢をお約束どおり、無事玄関先まで送り届け終えました」
「ええ、ありがとうございます」
メイットはやんわりと微笑んで、ローゼルの部屋に視線を投げた。
「今宵は私が屋敷を不在にしてましたので、あなたの傍にローゼルがいてくれてよかったです」
「いえいえ、こちらも楽しいひと時を過ごせました。
ローゼル嬢は初めてのナイトマーケットで、いささか興奮しているみたいですけどね」
くすっとルシアンが笑うと、メイットも綻ばせた。
「そうですか。
あれは夢中になると時間をすっかり失念してしまう性格のようで、ライアナース卿からも過剰残業して困ると聞き及んでおります。
その辺、どうも私に似てしまったんですね。
適度に働いて適度に残業する分は問題ありませんが……。
身体のこともあります」
メイットは、はあ、とため息をついた。
「ええ、そうですね。無理は禁物です」
ルシアンは鷹揚に頷くも、彼の様子から例の件がうまく言っていないのを薄々感じとった。
ふいに、改まった口調でメイットはルシアンに言う。
「今宵はあの子にとって、いい気分転換にもなったでしょう。
連れ出してくださり、ありがとうございました」
「とんでもない。
今までが働き詰めだったようなので、今後はライアナース卿の監視の下、彼女の健康を念頭に置き、労働時間を減らしていきますよ。
たまには、こうやって夜遊びするのはお許しくださいね」
「ええ、もちろん」
夜の静寂が二人に降り注ぐ。
背後の気配がこちらをそっと窺っている。
「ちなみに、そちらの首尾はいかがでした?」
あえてルシアンは尋ねた。
「あぁ、例の件ですね。
それがクレインバール卿のおっしゃる通りでしたよ。
サインまではこぎつけられませんでした」
メイットは首を振った。
「やはりそうでしたか」
これは、かなり疲労がたまっているようだ。
当然だ、今までメイットはナージュ・ウルーム伯爵のところに出向き、婚約破棄の話を持ち込んだのだから。
もちろん、あの男がすんなりと婚約破棄申請書にサインするはずがない。
それはすべてルシアンの算段どおり。
あの男は、何がなんでもローゼルを手に入れたがっている。
それはなぜか?
その理由が分かれば、即座に婚約破棄できるはずだ。
「どうです?
何かヒントは得られましたか?」
ルシアンが尋ねると、メイットは残念そうに首を振った。
「いいえ。
ただ、固執している。
そう強く感じました」
「そうですか」
「俺との関係性は伝えましたか?」
「もちろん。
なかなかいい反応を示してくれましたよ」
「それでしたら、充分です。
きっと動き出します」
ルシアンは小さく笑った。
「だといいんですが。
ちなみに、そちらはどうでした?
ローゼルは貴殿との婚約を快諾しましたか?」
メイットはそれとなく尋ねた。
やはり父親として事の次第は気になるのだろう。
ルシアンは苦笑を浮かべた。
「彼女はしっかりしてますよ。
確実に婚約破棄が決まらない限り、求婚の申し出を受けてくれる気はないみたいです。
それこそ、子爵の見立てどおり、やんわりとそれを理由に断られてしまいましたよ」
「そうですか。
生真面目なところはローゼルらしい」
メイットは複雑そうな表情を浮かべつつも、やんわりと口角が上がる。
「でも、伝え続けますよ。
部下にも言われましたが、言葉で伝えるということは大事なんですね。
ちゃんと伝えたら、返事はもらえませんでしたが、大きく前進していると思います」
ルシアンが満足そうに微笑むと、一瞬メイットは目を見開く。
が、次には何事もなかったように、にっこりと微笑んだ。
「今後を楽しみにしてます。
それでは。
おやすみなさい」
メイットはにこやかに会釈し、屋敷へ入っていった。
ルシアンはその後ろ姿を静かに見送った。
そして、背後に潜む影を牽制するため、おもむろに振り返り、空を仰ぐように見据えた。
***
ルシアンとの会話が終わり、メイット・イースティリアが屋敷の玄関をくぐると、ローゼルが気付き、駆け寄ってきた。
「おかえりなさい、お父様」
メイットは、ローゼルの顔を見て、一瞬息を呑んだ。
ここ数年会わないうちに、うっすらと化粧を美しくあしらえたローゼルは、亡き妻マリアーナに似てきた。
もともとローゼルは、幼い頃からどちらかといえば自分の面差しに似ていた。
それがまた愛着が湧いて、マリアーナに叱られるほど甘やかしてしまっていたのだが——
マリアーナと同じ瞳の色に、声音。
気づけばメイットは目尻が下がっていた。
「ただいま、ローゼル」
メイットの外套を執事のバルセシャンが受け取った。
「あのね、私、お話しないといけないことがあるんです」
ローゼルの頬が僅かに上気していた。その顔つきはまさに恋する乙女だ。
「それは――クレインバール卿のことだね?」
そうメイットが尋ねると、ローゼルは恥ずかしそうに頷いた。
「うん、そう。
クレインバール卿は、もうお父様に話はしてあるって……」
「そうだよ。
彼はちゃんと前もって私に頭を下げに来た。
『お嬢さんをください』ってね」
「え!」
ローゼルは驚き、やがてもじもじし始め、顔もだんだん赤くなった。
「私はローゼルの意思に沿って動けばいいと思うよ。
ウルーム伯爵家については、私がなんとかする。
ローゼルはローゼルの幸せだけを考えて」
ローゼルは一瞬、目を見開いた。
「……ありがとうございます。
でも、あの、クレインバール卿へのお返事はもう少し待ってくれますか?
前向きに検討をするつもりだし、クレインバール卿のこともこれから知っていきたいし……。
それにレオーネのことに区切りがつかないと、それこそクレインバール卿に申し訳なくって……」
ローゼルは落ち着かない様子で指をこねくり回し、視線を彷徨わせた。
メイットは目を細めて笑う。
「そうだね、分かってるよ。
そう簡単に切り替えができるわけじゃないよね。
なにせ十年もの間、婚約関係にあったんだ」
「うん……」
「でも、高位貴族の妻になるための淑女教育は無駄じゃないから」
「そうなんですけどね」
ローゼルは不安そうな顔をした。
それから、ちらっとシャルルの部屋の扉を見た。
メイットはローゼルの頭を優しく撫でる。
「大丈夫、シャルルのことは気にするな。
ローゼルは特に私が何も言わなくてもちゃんと最善の判断できる子だと思っているよ。
ローゼルが考え抜いたことをしていけばいい」
「いいの?」
「もちろん」
柔らかく微笑んだメイットは、小柄なローゼルの顔を覗き込むように身体を屈めた。
「でも、悩み事があればちゃんと言いなさい。
クレインバール卿でもいいし、私でもいい。
とにかく独りで頑張り過ぎない事。
これ以上、身体を壊しては元も子もないからね」
「はい、分かりました」
ローゼルは、はにかむように笑った。
その表情にメイットは胸がきゅっと苦しくなった。
(この子は……変に我慢強いから特に心配になる)
本当に不幸中の幸いだった――今回、急性魔力欠乏症で倒れなければ、彼女の身体の異変に誰も気付かなかったのだから。
メイットは、ぎゅっと唇を一文字に固く結ぶ。
まさかローゼルが、あの病に蝕まれていたなんて――。
これが少しでも発見が遅かったら危なかった。
この子が生きていてくれて、本当に良かった。
だからこそ、幸せになってもらわないといけない。
この病のことを彼はすでに知っていた。
どうやらクレインバール卿付きのミハイル医師から聞いていたらしい。
――それでも、ローゼル嬢と結婚したいんですよ。
その強い想いに胸を衝かれ、メイットはマリアーナの亡くなった経緯を伝えた。
今度こそこの子を守らなくては。目を背けてはいけない。
そのための切り札は、着々と用意をしている――。
「そういえば、ローゼル」
「うん?」
「今回の農業改革魔法の論文が認められてね、爵位が明後日から上がることになったんだ」
「え?」
「我が家もいよいよ伯爵家だ」
誇らしげな笑みでメイットが言うと、ローゼルはびっくりして目を瞬かせた。
これで少しはローゼルの待遇が良くなってくれればいい。
驚く愛娘の表情に笑みを湛えながら、メイットは静かに、確固たる決意を胸に宿していた――。




