第58話 冷徹なる軍師の事前婚姻交渉(前編)
ローゼルとルシアンがエレナたちと分かれた頃――。
ローゼルの父メイット・イースティリアはウルーム伯爵邸からの帰りの馬車に揺られていた。窓辺にもたれかかり、静かに瞼を閉じた。
今度こそ、ローゼルには幸せになってもらわないと――。
車輪の振動が体に響き、胸の奥の罪悪感を揺さぶる。
もともとローゼルは、女の子にしては利発で好奇心旺盛、魔法が大好きな子だった。
だが、シャルルを後妻に迎えてから笑顔は消えた。
レオーネと婚約してからはさらに口数が減った。
それでも将来の義父となるウルーム伯爵はローゼルを実の娘のように可愛がっていたし、そのうち年頃になればお互い大人になって寄り添えるだろう、そう高を括っていた。
それが甘かった。
「なぜ、もっと強く出なかったのか……」
窓外の景色が滲む。
――淑女たるもの、魔法を習うなんてはしたない、破廉恥です。
――女に知識は不要、淑女教育だけしていれば充分です。
メイットは、蘇るシャルルの数々の発言に頭を抱えた。
「はぁ、もう、うんざりだ」
離縁状の存在が何度も横切る。
だが、できなかった。今までは。
胃を掴まれるような痛みに顔を歪める。
罪悪感は、馬車の揺れよりも激しく彼を揺さぶり続けていた。
***
「イースティリア子爵、ご相談があります。
ローゼル嬢が婚約破棄をした場合、我が息子の妻として迎えたいのですが」
驚くことに、レオーネとソフィアの王城での逢引の噂を皮切りに、縁談の申し出が押し寄せた。
とはいえ、その大半はローゼルが王宮内務官として関わった貴族で、なおかつローゼルの破格な女官のお給金に目をつけたがめつい中堅貴族や、借金まみれの貧乏貴族たちだ。
中には、兄アルバートの親友の生家カークランド侯爵家という名だたる名家も混じり、メイットはひどく驚いた。
だが、それ以上に最も意外だったのは、今まで縁のなかった次期辺境伯子息ルシアン・クレインバールだ。
『一度お話をさせて頂きたい』
彼から手紙を貰ったとき、正直肝を冷やした。
ついに、あのことが軍部に知られてしまったか――。
今ならローゼルのことだと理解できる手紙の内容なのに、あの時は長年秘めていた事柄が軍部に知られてしまったという恐怖に襲われた。
後ろめたさから『領地にいるからお会いするのは難しい』と、そう、のらりくらりとかわして会うのを避けていた。
実際、数年前の事業失敗で借金返済のため、領地でやらなければならないことがたくさんある。
だからまだ王都には戻れない。
だが、それからすぐだった。
ローゼルが魔物に襲われ、命拾いはしたが急性魔力欠乏症で倒れたという連絡が入ったのは。
そんなローゼルの命の危機を救ったのが、まさにルシアン・クレインバールだということで、メイットは覚悟を決めざるを得なかった。
それに愛娘の命の危機とあっては、なりふり構わず王都へ駆けつけるしかなかった。
そうして王都に戻り、ローゼルも順調に回復し、屋敷内のシャルルの傍若無人な振舞いを収め、そして——彼は約束通り、約束の日時に現れた。
イースティリア子爵家専用の王宮内執務室。
会議で何度か遠巻きで見かけたことはあったが、こうして直接彼と顔を突き合わせて話すのは初めてだ。
メイットは彼を初めて目の前にした時、目を奪われた。
噂どおり見目麗しい青年だ。
上品な立ち振舞いは彼を有能であると語り、質実剛健、謹厳実直。
長身で引き締まった武官らしい体格。
彼は深々と礼儀正しくメイットに頭を下げた。
「イースティリア子爵、ご多忙なところ、この度はお時間をいただき、ありがとうございます」
よく通る声だ。
出世街道まっしぐらのエリートで、上り坂にさしかかったばかり。
若さも相まってもう少しギラギラしていても良さそうなのに、どこかしんと冷たい。
(全然違うな。
格の違いといえばいいのか……)
嫡男のアルバートも、年齢相応といい難い雰囲気があるけれど、それより三つ年上のルシアンはすでに老成した落ち着いた貫禄がある。
そして、部屋の空気を一瞬で変えてしまう圧倒的な存在感。
メイットは彼に応接椅子に座るよう勧める。
彼は腰掛ける前に、メイットを射抜くようにまっすぐ見た。
「お嬢さんを俺にください」
場の空気が張り詰めた。
だが、メイットは最初、彼が何をいっているのか全然理解できなくて、五秒ほど硬直した。
思い返せば、あまりに唐突で、単刀直入すぎる告白だった。
だが、その実直さが彼らしい。
「惚れたんです、ローゼル・イースティリア嬢に。
あれだけ小柄なのに老獪な大貴族たちとうまくやり取りをしながら、真っすぐ仕事を頑張る姿、すごく心打たれました。
直感的に思ったんです。
俺にはこの子しかいないって」
その声は礼儀正しく、誠実。
年齢相応の若さと熱気、真摯すぎるほど真っすぐな眼差し。
メイットはその気迫に押された。
口調こそ穏やかでハキハキとしていたが、どこか切羽詰まったような声だった。
これが本来の彼——若さというものだろうか。
「えっと、すみません。
クレインバール卿の娘に対する熱い想いはありがたく存じます。
ですが、まずは私から先にお礼を言わせていただけますでしょうか?」
メイットは平然を装い、穏やかに微笑んだ。
「礼?」
ルシアンは不思議そうに首を捻った。
「まずは、どうぞお掛けになってください」
メイットが再度促すと、ルシアンは椅子に座った。
まるですっかり座ることを失念していたように気恥ずかしそうな表情を浮かべた。
メイットは、微笑ましい気持ちで真っ直ぐ、その若者を見据えた。
「先日、急性魔力欠乏症で倒れた娘を家まで届けていただきましたよね?
それと、その際、あの子を魔物から救出し、命を救ってくださったとのこと。
本当にありがとうございました」
メイットは一回り年下の、階級は自分より格上の彼に頭を深々と下げた。
「いえ、そんな、とんでもない。
頭を上げてください。
騎士として当然のことをしたまでですよ」
ルシアンは落ち着いた声で、手を振った。
「そんなご謙遜を。
軍師閣下や騎士団の皆様が駆けつけなければ、娘は――あの子の母親同様、魔物に殺されてしまうところでした」
メイットは彼の対面に座る。
「それから、お見舞いの品にたくさん贈り物を送ってくださり、ありがとうございます。
娘は喜んでおりました。
あの子はちゃんとお礼状は出してますでしょうか?」
「ええ、頂きましたよ。
とても可愛らしい便箋で」
ルシアンはにっこり笑った。
「あの日、あの部屋に彼女を運んだ時、何もなかったので、とりあえず必要そうなものを取り急ぎ送った感じだったんです。
喜んでくれるか正直不安だったんですけど——そうか、彼女が贈り物も喜んでくれたのか。
それならよかった」
ルシアンは分かりやすく胸を撫で下ろした。
そこには皮肉は込められておらず、むしろルシアンは年相応の顔つきで、なんとなく好感を持った。
「クレインバール卿は、宮中で流れている噂どおり以前からローゼルのことを?」
メイットは恐る恐る尋ねた。
まずは噂の真偽を確認したかったのだ。
「ええ、まあ、はい。
とはいえ、以前からと申しましても、先日の皇族会議で起きたテロ未遂事件で絡んだのが初めてなんですけどね」
ルシアンは、ますます照れくさそうにする。
「あのときもローゼル嬢の知識と能力の高さに驚きました」
ルシアンはそれから意気揚々とローゼルを褒めちぎった。
それはとても誇らしいようでくすぐったい。
その反面、知らない娘の姿に、寂しさと痛いような悲しみが込み上げる。
その悲しみは、娘を追い詰めたシャルルやレオーネへの憎悪、そして自分以外の男の前でだけ輝く娘への、父親らしい嫉妬に縁取られている。
これは父親としての宿命の念なんだろうか。
メイットはそれに耐え、押し殺す。
「そこまで娘をお褒めいただき、ありがとうございます。
娘によりますと、クレインバール卿はその、手紙にローゼルと二人で出掛けることをご所望されているとのことですが」
探るような目つきでルシアンをメイットは見た。
ルシアンは鷹揚に頷く。
「ええ、そうです」
「申し訳ございません。
あの子にはすでに婚約者がおりますので……」
メイットが頭を下げようとする。
「存じておりますよ」
遮るようにルシアンが頷いた。
「え? ご存知なのに、娘を誘ったんですか?」
メイットは息を呑んだ。
「はい。いやぁ、私もなにぶんこういうのに慣れておらず、いささか不用意でしたね。
驚かせて申し訳ありません」
ルシアンはすまなそうな表情を浮かべた。
「ですが、誤解なさらないでください。
彼女が婚約者に懸想していたり、レオーネ・ウルームが品行方正な青年だったりしたら、私もおとなしく身を引いていましたよ」
ルシアンは、さらに、にっこりと微笑んだ。
だが、その笑顔に、何故かメイットはぞっとした。
なぜだろう。
まるで氷水を浴びせられたような心地になった。
「これ、御覧になってください」
ルシアンは軍服のポケットから何通かの手紙を出した。
「え?」
それは、レオーネがいろんな令嬢に宛てたラブレターだった。
メイットは読み進めて行くうちに、呆れ返る以前に強烈な憤怒が湧き起こった。
王城の夜会の噂は怒りをなんとか抑え込んで軽く聞き流すようにしていた。
シャルルは顔を突き合わせれば、必ず「さっさと結婚させれば殿方は浮気の虫が落ち着く。
だから早く結婚させろ」と言ってくる。
当の本人ローゼルはと言うと、何も言ってこないから特に気にしていないのかと思っていた。
だが、これは想像以上にひどい。
怒りに震えるメイットを尻目に、いや、その反応を見届けてから、ルシアンはレオーネの殺害容疑について淡々と話した。
話の途中から自分の顔つきが険しくなっていくのを感じた。
聞き終えたあと、メイットはかつてないほど身体中の血液が沸騰しそうだった。
単なる火遊びどころか殺人容疑までかかっているなんて。
そして、何も気づこうとしなかった自分の鈍感さに腹が立つ。
亡き妻マリアーナからはもう少し人の感情の機微に敏感になった方がいいと言われ続けていたが――。
ルシアンは怒り心頭のメイットの顔を覗き込んだ。
「我が魔法騎士団としては、本人に近々事情聴取をする予定です」
冷徹な声。
「彼は今、王都を不在にしているようなので、きっと領地にいるんでしょう。
まあ、例え今から手紙を出して招集命令を梟便で出しても一日半かかる。直に我々騎士団が転送魔法で迎えに行った方が早い」
強い語尾でルシアンは言い切った。
(ああ、これは、試しているんだろう)
婚約者の父であるメイットが手紙でレオーネ・ウルームに「お前、疑われているぞ、逃げろ」と逃亡に手を貸そうとも、もう遅いぞ、余計な真似はするな。
そう暗に言いたいのだろう。
張り詰めるような圧迫感。
(これは観察もされているな。
いや、見極めようとしている、というのが正しいか。
俺がひどい父親か否か——)
当然だ、俺は婚約者に浮気されても耐え忍び、継母に虐待を受けても、独り我慢して弱音を吐かせない娘の父親だ。
彼にしてみれば、何もしなかったその父親にも罪があると思っても仕方がない。
ああ、そうか。
ルシアン・クレインバールは静かに怒っているんだ。
何も助けなかった俺に――。
ローゼルの父親を無言で非難している。
それにしてもこの証拠の手紙、どこからどう入手したのか。
どちらにしろ、途方もない時間と労力をかけたことに間違いはない。
だからこそ、ここまで論理的かつ自信に満ちた語り口と態度が示せるのだろうし、何よりも若いくせに場慣れしている。
周囲に「この人には逆らえない」と思わせる圧倒的な正論。
圧迫感のある視線。
だが、考えようによっては、彼はローゼルの境遇を哀しみ、ローゼルの代わりに憤ってくれているということだ。
(この男ならあの子の心の奥底で押し殺した負の感情を揺さぶって、吐き出してくれるかもしれない)
これでようやく決意が固まった。
「教えていただき、ありがとうございます」
メイットは慇懃丁寧に頭を下げた。
拳を膝の上で固く握りしめ、視線は逸らさずにルシアンを見つめる。
「娘の婚約破棄を私も決心できました」
「そうですか」
満足そうにルシアンは笑みを浮かべた。
「それで——クレインバール卿。
武官のあなたがわざわざここに足を運んで、こんな貴重な捜査中の機密情報の話をするということは、そういうことなんですよね?」
「ええ、そうです。
話が早くて助かります」
ルシアンは歯を見せて、にかっと笑った。
「承知しました。
だが、一つだけ条件があります」
「ほう、条件?
なんでしょう?」
ルシアンが興味深そうに身を乗り出した。
今度はメイットがルシアンを見定める番だ。
果たして、彼は本気でローゼルを次期辺境伯の妻として迎え入れたいのか――。
「この結婚、最終的な判断は娘のローゼルに委ねることをお許しいただけますか?
もし、娘が嫌だというのでしたら、申し訳ございませんが……」
「ええ、もちろん。
無理強いはよくない」
ルシアンは被せ気味で応え、それから悠然と足を組んだ。
「彼女が心置きなく最終決断するために、本日は事前打ち合わせをさせて頂きたい」
「事前打ち合わせ……?」
メイットは訝しんだ。
まるで戦を仕掛けるような言い草。
この軍師は、ローゼルを戦利品か何かと勘違いしていないか。
一瞬そう横切った。
「そう力まないでください、イースティリア子爵。
私は彼女に女性として魅力を感じ、この場に来ているのです。
そこは誤解していただきたくない」
思わず肩の力が入るメイットに、ルシアンは友好的な笑みを浮かべた。
メイットはカッと身体が熱くなった。
(見透かされた……!)
こんな若造に。
だが、思い返してみれば、クレインバール軍師は策士であると同時に交渉上手だと聞いたことがあった。
なるほど、この彼がこの若さで軍師という要職に就けた理由が分かった気がした。
「まず結婚資金について」
ルシアンが飄々とした口調で身を乗り出した。
「生々しい話ですが、一番揉めるのはカネなので最初にはっきりきっかり決めておきましょう。
端的に言えば、イースティリア家からの持参金は不要です」
「え?」
我が耳を疑った。
「それから支度金は全額こちらで出します。
嫁入り準備でかかった費用はすべてクレインバール家へご請求ください。
それと、万が一婚約破棄の際にウルーム伯爵家が賠償金を請求してきたら、全額負担しますので心配無用です」
メイットは面食らったように何度も瞬きをした。
「まあ、非はあちらに充分すぎるほどあるので、慰謝料請求も馬鹿げてますけどね」
ルシアンは半笑いを浮かべながら、さっき自分が持って来たレオーネのラブレターを持って、ひらひらと上下に振る。
「これを証拠に裁判所に訴え出ましょう」
「裁判に?」
メイットはぎょっとして、ルシアンを改めて見た。
「ええ、そうです。最近では、裁判に対しても少し考え方が変わってきているんですよ。
なんでも、横暴な旦那に匙を投げた上級貴族出身の夫人が、自分に不利にならない形で円満に離縁するため裁判を起こしている、とかね」
「はあ、なかなか画期的な裁判ですね」
「ええ。
まあ、でも、昨今ではそんな世の中なんだそうです。
婚約破棄だって同じですよ」
「そうですか。
確かに、婚約破棄や離婚をすると、なぜか女性だけが醜聞扱いされる。
いささか歪だな、とは思ってました。
とはいえ、裁判。
あまりにも外聞がよくない。
婚約破棄をした娘の輿入れ先のクレインバール辺境伯爵家の名にも傷がつきますよ」
「いいえ、その辺はまったくご心配には及びませんよ。
特に今回は男が一方的に悪い。
であれば、全面的にそれを世間に知らしめるべきでしょう。
彼女に非はない」
ルシアンの声に威圧的な響きがこもる。
「もちろん、裁判所に訴えを出す名前はイースティリア子爵家になってしまいますが、我がクレインバール一門が全面的にバックアップします。
弁護士も離婚訴訟を何度も勝訴している最高の人材を用意いたしますのでご安心を」
メイットは狼狽する。
(この男、そこまで想定して動いていたのか?)
末恐ろしくなって、やけに喉が渇く。
「いや、それはあまりにもこちらに都合が良すぎる条件では……?」
「条件が良すぎる。
ええ、そうでしょうね」
ルシアンはあっさり答えた。
「え?」
「それでも俺は彼女を嫁にしたいんです」
ルシアンの強い断言に、メイットは目を見開いた。
「そこまでローゼルのことを?」
「ええ、そうです」
なんという男だ。
用意周到にあらゆる状況を分析し、想定される状況と条件を計算し尽くし、俯瞰して戦略を立てる。
それでいて場面を問わず、自分の意見をはっきりと伝え、言い回しにも迷いがない。
「あの、疑っているわけではないのですが、なぜそこまでローゼルを?
貴殿にはグロウディーナ公爵家の末娘とのお話もありますでしょう?
公爵令嬢との婚姻を断ってまで、ローゼルを迎え入れるのは信じがたいのです」
「なるほど。
まあ、そうですよね」
ルシアンは肩をすくめた。
「では、ここは貴族らしく利己的条件の話に移りましょうか」
ルシアンがニッと笑いかけてきた。
その笑みに、メイットは奇妙な印象を抱き、ぶるりと身震いをした。




