第51話 初めてのお揃いの言葉と、明かされない罪
「こんにちは、ローゼル・イースティリア女官殿」
法務省の廊下までローゼルが戻ると、そこには詰め襟のスーツを着た一人の青年が、人懐っこい笑顔で挨拶をしてきた。
昨日ルシアンの執務室でお茶を給仕してくれた従者の子だ。
彼はピンっと姿勢を正して、こちらに歩み寄る。
昨日も感じたけれど、彼から漂ってくる空気感は洗練されていて、どこか異質だった。
「ごきげんよう。えっと……」
名前はなんだっけ。
「マルスクです」
彼、マルスクはにっこり笑った。
その時、ローゼルは連想した。
ホキアンが人懐っこい大型犬なら、マルスクは愛らしい小型犬だ。
「マルスクね。
どうされたの?
どなたかのお遣い?」
「いいえ、とある方からイースティリア女官へ伝言でございます」
彼は、ローゼルの前で屈んで、さっと手紙を差し出した。
とある方。つまり、彼の雇い主ルシアン・クレインバール卿だろう。
「お遣い、ありがとう」
ローゼルが手紙を受け取ると、彼は柔らかく微笑んで一歩下がる。
「今宵は楽しいひとときを」
丁寧に再びお辞儀をして、彼は去っていった。
不思議な子。
やけに澄んだ声。
年齢はたぶんローゼルと同じくらい。
どちからといえばローゼルは童顔だし、爵位も高くない。
そのため、上流貴族の従者はローゼルを結構適当に扱ったりするものだ。
けど、あの子はちゃんとしていた。さすがクレインバール卿の従者だ。
ローゼルはワクワクしながら、さっそく封を開く。
お馴染みの柑橘系の香りが僅かに漂ってきた。
この香り、好き。
胸いっぱいにその香りを吸い込む。
それから便箋に目を通した。
『今宵は、【モード・ドゥ・ベルローズ】の店で落ち合おう。そこで待っている』
癖のある、筆圧の強い字。
簡素で素っ気ない文面。
ルシアンらしい。
(へへ、今夜もデート。
しかも、初のナイトマーケット)
ローゼルの心はたちまち弾んで、まるで羽が生えたかのように体が軽くなる。
スキップして鼻歌を歌いたいぐらいだ。
法務省の自席に座りながら、昨夜のことを思い出す。
揺れる馬車の中、ローゼルはこの好ましい香りに包まれていた。
ローゼルに覆いかぶさる大きな彼の影。
重ね合わせた手と、そっと遠慮がちに触れた唇。
高鳴る鼓動。
それはローゼルにとって、初めての口づけだった。
そっと顔を離して見つめ合う。
吐息が掛かるほど近く、そして、二回目の口づけをした。
唇から頬へ、額に、目尻に、そしてまた唇に。
降りやまないキスの雨。
あの時、何も考えられなかった。
陶然となったローゼルは痺れるような快感に身をゆだね、完全に熱に浮かされていた。
馬車はあっという間にイースティリア子爵邸に到着した。
――また明日。
ローゼル、おやすみ。
彼はやわらかな笑みを浮かべて、ローゼルを見送った。
何度も何度も名残惜しくて振り返って手を振った。
(キャー! 思い出しただけでも恥ずかしい)
ローゼルは真っ赤に染まる自分の顔を両手で覆って、いやいやと首を振る。
まずい、私、浮かれすぎ。
大抵こう浮かれているときは、周囲が見えず、とんでもないところで足を掬われる羽目に遭う。
だからこそ、気を引き締めないといけない。
そう思っているのに、口元が緩んで、ルシアンのことばかり思い出されてしまう。
どうしよう。
私、本当にあの人に惹かれている――好き。
この甘酸っぱい感情。
これこそ、大衆恋愛小説に大きい顔をして載っている「恋愛感情」というもの。
変なの。婚約者レオーネは捕縛されているというのに、全然後ろめたさを感じない。
むしろ、早く軍部から連絡をもらえないだろうかと気が焦っている。
レオーネの存在にこれ以上振り回されたくない。
一刻も早く婚約破棄をしたい――。
心置きなく、ルシアンとの甘いひとときを楽しみたい。
窓の外の木が揺れる。
心を騒がす風が吹いている。
*
モード・ドゥ・ベルローズ。
ルシアンに指定された店。
どこかで聞いたことがある名前だなぁと思っていたが、それも当然。
そこは王都でも一位二位を争う人気デザイナーのドレスも手掛けている超有名店だ。
私なんかが入っても大丈夫かしら。
ローゼルは店先に立つものの、正直足がすくんでいた。
なにせ、下級貴族の令嬢はなかなか予約も受け付けてもらえないぐらい敷居の高いドレスショップ。
貧乏子爵令嬢のローゼルには縁遠いお店。
ローゼルがいつまでも、もじもじしていたせいか、店内にいた一人の店員女性がローゼルに気がついた。
そして、女性店員の中で仕切っていた年配の女性に声を掛ける。
(しまった、不審者って思われたかしら)
ローゼルは、焦った。
無意識のうちに逃げ腰になる。
どうしよう、不審者として王都自衛警察団に突き出されてしまうかしら。
その時、ちりんという可憐な鈴の音がして、扉が開いた。
「イースティリア女官様ですか?」
さっきの仕切っていた年配の女性だ。
「は、はい……。そうです」
「お待ちしておりました。
クレインバール卿からお話を聞いておりますよ。
さぁ、どうぞ、こちらへ」
ローゼルは不安に思いながらも、店内に入った。
店は数多くのマネキンに流行りの衣装と小物を飾り立て、最高級品の鏡がいくつも並んでいた。
棚には仕立てのいい布地やアクセサリーが並ぶ。
「いらっしゃいませ」
「ようこそ、お越しくださいました」
次々と美しい衣装を着た店員たちが、お出迎えの挨拶をする。
女官の制服のまま来店してしまったローゼルは、いささかばつが悪い。「どうも」と軽く会釈をした。
落ち着かない様子で、ローゼルはちらちらと見廻した。
艶やかで鮮やかな世界。
今までローゼルには縁のなかったキラキラした装飾品ばかり飾られている。
一瞬、店の奥のマネキンに目が吸い寄せられた。
ペールブルーの裾がふんわり広がるドレス。
心がときめいた。
うわぁ、あのドレス、可愛い。
気品溢れる布地に、柔らかで上品な色合い。
一体いくらなんだろう。欲しいなぁ。
今までのお気に入りのドレスは、継母にすべて奪われてしまっている。
クローゼットには何年も前に張った古めかしいドレスばかり。
一着ぐらい自分が好きなデザインのドレスが欲しい。
だけど、ここは上流階級の人気店。
きっと目玉が飛び出すほど高いに決まっている。
「そんなに緊張しなくてもいいですよ。
こちらです」
案内するマダムはケラケラ朗らかに笑う。
「可愛らしい方ですね。
お足元、お気を付けください」
三階まで階段を昇る。
ローゼルは前を歩く彼女の背中を盗み見た。
凛然とした立ち振る舞いに、姿勢がしゃんと伸びた優雅な歩き方。
たぶん、この店の名物マダムだ。
皇族や上級貴族の数々のドレスを手掛け、彼女の腕にかかればどんな令嬢もたちまち美しく変貌させる凄腕デザイナー。
(こんなすごい人に部屋を案内されちゃって、私、いいのかな?)
ふいに彼女が声を掛ける。
「さっきのドレス」
「え?」
「一階にありましたマネキンが着ていたペールブルーのドレス、ああいうのがお好みですか?」
「えっと……。はい」
ローゼルは、視線を落として頷いた。
自分が物欲しげにドレスをじろじろ見ていたことが急に恥ずかしくなったからだ。
「ふふ、確かに貴女様のような小柄女性には、ああいう色合いとシルエットが似合いますわね。
そうですね。
とても愛らしい方なので、あそこからさらに胸元や袖には繊細なレースを施せば、可憐さが増すでしょう」
彼女は楽しそうに、ローゼルが着る前提でドレスの話をし出す。
「アクセサリーは――そう、刺繍もあるからシンプルにパールに統一すると可愛いですわ」
「素敵!
私、キラキラしたシルバーのアクセサリーしか思い浮かびませんでした。
いいですね、パール。
幼過ぎず、大人っぽさも出て」
「シルバーのアクセサリー。
それも名案ですわ」
マダムは声を弾ませた。
彼女は最新のトレンドを熟知している。
やはり彼女こそが、名物マダム――人気ドレスデザイナーのテンペリーナ夫人だ。
テンペリーナ夫人はいろいろローゼルに質問をする。
彼女は想像以上におしゃべりが上手で、聞き上手。
ローゼルは年頃の令嬢のようにはしゃいだ。
「ここの部屋ですわ」
そうして、一つの部屋の扉をテンペリーナ夫人はノックした。
「クレインバール卿、可愛い待ち人がお越しですよ」
扉を開けると、そこには書類に埋もれたルシアンがいた。
応接椅子に腰を掛け、手に羽ペンを持ったまま軽く手を上げる。
「やあ、ローゼル」
ルシアンの気さくな笑顔に、ローゼルの胸が高鳴った。
ふいに昨夜のことが蘇り、鼓動が速まる。
「ご、ごきげんよう。クレインバール卿」
紅潮するローゼルを見たテンペリーナ夫人は、「あらあら」とクスクス笑う。
「もう、クレインバール卿。
そんなあどけないお色気フェロモンを無防備に放ったら、若い女の子は卒倒してしまいますわ」
「なんだ? そのあどけない色気なんとかというのは?
相変わらず夫人は難しいファッション用語を言ってくるな」
ルシアンは顔を歪めた。
「ファッション用語じゃありませんよ。
もう、本当に軍事のこと以外は朴念仁なんですから。
それじゃあ、早速可憐なお嬢さんに似合うものを見繕って参りますわね」
夫人は意味深な笑みを残し、ひらりと手を振って部屋から去っていった。
「すまない。
急遽、集合場所を指定させてもらって」
「いえ。問題ありません」
「ちょっとばかり、書類仕事が溜まっていてね。
王城の自分の執務室だと次から次へと相談事やら会議が舞い込んで集中できないんだ。
だから、いち早くここに避難して仕事をしていた。
でもここならすぐにナイトマーケットにも行ける距離だ。
ちょうどいいかな、と思ってね」
ルシアンはローゼルに目の前の席を進めながら言う。
そして、そそくさと書類にサインをする。
なるほど、このお店は南区域の貴族街。十五分も歩けば、庶民街に到着できる。
ローゼルは真剣な表情で書類仕事をするルシアンを見た。
テンペリーナ夫人とは親しそうだったけど、知り合いなのかしら。
(ひょっとして過去に女性にここのドレスを贈ったことがあるとか?)
そう思ったら、むくむくと暗い不安が沸き起こる。
「ローゼルお嬢様。
お茶をどうぞ」
いつの間にかマルスクが現れて、椅子に座ったローゼルにお茶を差し出した。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ。もう少々お待ちくださいね。
ルシアン様のお仕事もひと段落がつきますので。
あっ、こちら、ローゼルお嬢様がマカロンをお茶受け菓子にご用意いたしました」
思わずローゼルの目が彼の手元に吸い寄せられる。
マカロン……! ローゼルの大好物のお菓子のひとつだった。
ローゼルの目がぱっと輝くので、ルシアンとマルスクが同時に「ぷっ」と噴き出した。
「ローゼル、好きなだけ食べてもいいけど、夜のことも考えてほどほどにな」
ルシアンが肩を揺らして笑う。
「なっ!
そこまで子どもじゃないです」
ローゼルは口を尖らした。
「あはは、冗談だよ。
そうそう、今日は庶民服に着替えるから。
服はテンペリーナ夫人が手配してくれる。
だけど、今度はここでドレスを贈らせてくれよ」
「え、そんな!
申し訳ないですよ」
「どうして?
ひょっとしてもう忘れたのか?
王城での舞踏会のときに約束しただろ?
ドレスを贈らさせてって」
「そ、そうでしたけど」
ローゼルは、急に恥ずかしくなって指をコネコネし出す。
あれはてっきり社交辞令だと思っていた。
(さっき夫人があんなに熱心に好みを訊いてきたのは……!)
男性が女性にドレスを贈る。
すごく特別な意味を持つ。
愛情と社会的承認、そして、「あなたを私の色に染める」という意味合い。
早とちりで嫉妬した自分を恥じて、視線を泳がせた。
「そうだ、ローゼル。
今度一緒にドレスを選ぼうか」
「え? 一緒に?」
「そうだ。
アランとかトーマスが、よく奥方とデートでこういうセレクトショップに行って、ドレスを注文すると話していたし。
な? 楽しそうじゃないか?」
ルシアンが身を乗り出した。
ローゼルは、ルシアンと二人できらびやかな店内を並んで歩くのを想像した。
シンプルな装いを好むルシアンだが、持っている小物とかはとてもセンスがいい。
きっとドレスもローゼルに似合いそうなのをあれこれ選んでくれるだろうし、ローゼル自身もルシアンにぴったりの洋服を選んでみたい。
(うん、いい。すごくいい!
絶対に楽しい気がする)
「はい。いいと思います!」
「じゃあ、決まりだな」
そう言ってルシアンが書類を手にとって作業を再開しようとする。
「あ、あの、お仕事、私もお手伝いします」
ローゼルはドキドキしながら声を出した。
「え? お手伝い?」
「はい。書類の種類の分類や承認ルートごとの仕分けは得意です。
もちろん先方への手続き申請書の記載も。
書類の内容を深く読んだりしませんし、機密に関わるような文書は断じて余所に漏らすこともしません。
なんでしたら、秘密保持の契約書にもサインします」
緊張のあまり、ローゼルは早口で畳みかけるように言った。
「いやいや、それだと無償労働になってしまうから」
「大丈夫です。
これは、その……ボランティアです。
そして、早く終わらせて、デ、デート……しましょう!」
あまりにも勢い込んで、声がかすかに上擦った。
ルシアンは小さく笑った。
「そうだね、早くデートしたいな。
それじゃあ、簡易的な書類の仕分けをお願いしてもいいかな?」
「承知しました。
秘密保持契約は良かったですか?」
「あぁ、通例なら契約を交わすものだが、軍事機密がローゼルからバレるとは一切思っていないよ。
それに、バレたところで、この書類の内容はナイトマーケットの帰りに話そうと思っていたことだしね」
「私に?」
「そう」
ルシアンの視線が手元の書類に落ちる。
「ネイト・ファーヴァ書記官とレイノルドから報告、聞いたよ。
レオーネ・ウルームの情報が――総務省の女官から漏洩しているようだ。とね」
ルシアンの声は重々しい。
「レオーネ・ウルームの捕縛は、ローゼルの不安を煽りたくないこともあって、俺の判断で黙っていた。
今処理している書類は、その関連ばかり。
あと、総務省の例の女官については別部隊が聴取を始めている」
そう言うとルシアンは再び書類を書き始めた。
羽ペンの先が擦れる規則正しい音だけが、静寂な部屋の中に響く。
「……あの、レオーネって具体的に何をやらかしたんですか?
たぶん今回は悪質極まりないことですよね?
かなり重大犯罪とか」
ルシアンは驚いた顔になる。
「どうしてそう思った?」
「え、だって私の不安を煽りたくないって……。
さっき、そうクレインバール卿が言ったから。
ということは、私が不安を抱えるレベルの犯罪かなぁって」
「なるほどね。
さすが法曹家。
よく俺の言葉を聞いていたね」
ルシアンは観念したように苦笑する。
「ああ、そうだよ。
ローゼルが動揺するような犯罪をしたかもしれない」
一瞬、心臓が止まったかと思った。
「そんなに……?」
ローゼルは、背筋が冷たくなると同時に心の中でレオーネを罵った。
(あー、もう。あの馬鹿!
一体何をしでかしたのよ!
下手したらイースティリア子爵家にまで連帯責任を求められるような事態になったらどうしてくれるのよ)
ルシアンが顔を上げて、にっこりと笑った。
「まあ……、とりあえず、この件においては追々俺から話すから。
ちょっと待ってて。
とりあえず、今宵は俺とのデート、楽しもうじゃないか」
「そ、そうですね」
そうローゼルは返事をしながらも書類を手に取った。
作業をしながらも、どうしても苛立ちが滲み出る。
王城でのレオーネの浮気を目撃して以来、よく思う。
彼と婚約して、いいことが全くない。
ここまでくると、疫病神だ。
「あぁ、ローゼル」
ふと思いついたようにルシアンがペンを置いた。
「はい、何でしょう?」
「実は――恥ずかしながら、俺、護衛で皇女たちの買い物にここに何度も付き合わされたことはあったんだ。
けど、実際自分が好きな女を誘ってデートするってことをしたことなくて」
ルシアンは恥ずかしそうに頬を掻く。
「えっ、そうなんですか?」
ローゼルは目を見開く。
こんな美しい騎士がデートをしたことがない!?
「うん、ちょっとだから——至らないところもあるかもしれない。
だが、ローゼルには楽しんでもらえるように努力するから。
何かあれば遠慮なく言ってくれ」
ルシアンは珍しく自信なさげだ。
とはいえ、かくいうローゼルだってまともなデートをしたことがあっただろうか?
答えはノー。
婚約者レオーネとはあんな状態。
彼と出掛けるくらいなら、一人でお買い物した方が断然楽しい。
「やっぱ、この年になって……未経験者って恥ずかしいよな」
「いえ!
そんなことはないですよ」
ローゼルはぶんぶん首を振って否定した。
「あはは、無理に庇わなくていいよ。
だからかなぁ、柄にもなく恋人と一緒に買い物って、ちょっと憧れてるんだよ。
今宵のナイトマーケットデートだけじゃなくて、その後も一緒にドレスを選んだりするお買い物デートってやつ? それもやりたいんだ」
目尻を赤くしながら宣言するルシアンに、ローゼルの心は焦がれるように疼いた。
「ありがとうございます……。
えっと、私も暴露します。実は私もデートしたことないんです。
だから、その、デートとか、一緒にお買い物に憧れる気持ち、すごく分かります」
ルシアンが意外そうな顔をし、どことなくぎこちなく微笑む。
「そうか。
――お互い初めて同士だな」
「はい、そうですね。
お揃いです」
ローゼルは頬が熱っぽい漣の滑っていくのを感じた。
お揃い。その言葉だけでローゼルは有頂天になる。
胸の奥が甘い熱で満たされて、頭がどうにかなってしまいそうだった。
「さぁ、早く仕事を終わらそう」
ルシアンの力強い声で、ローゼルの戸惑いとレオーネに対する怒りを払拭してくれた。
そう、今宵は庶民のお祭り、ナイトマーケットに二人で繰り出すのだ――。




