第43話 チョコレートの余韻が消えるとき
「ああ、ちょうど良かった。イースティリア女官」
振り向くと、そこには同期のネイト・ファーヴァがいた。
彼はここ刑部省の書記官だ。
「ごきげんよう、ファーヴァ書記官」
ローゼルは、あえて丁寧に軽く膝を曲げてお辞儀をした。
「ごきげんよう。
出張中に魔物退治について少々事情聴取をしたいんだが、今、時間はあるかな?」
ネイトとローゼルは、一瞬共犯めいた視線を取り交わす。
「はい、問題ありません」
それから、ネイトは涼やかな笑みをヨオンナにあえて向けた。
「ピージャンス女官、申し訳ございませんが、イースティリア女官を業務の一環のためお借りしたいのですが、お話はもうよろしいですか?」
厳格さを滲ませた声音と、凛然とした面差し。
ネイトは黙っていれば、知的な男前である。
背も高く、礼儀正しい紳士的な態度、明晰で女官受けだってとてもいい。
(ひとたび口を開けば、毒舌キレキレ男だけどね)
彼の美貌にヨオンナは気を良くしたのか、上から目線で悠然と微笑む。
「仕方ありませんわね。
ええ、どうぞ」
あくまでも自分が彼よりも年上であり、敬うべき相手なのだと誇張するかのようにもったいぶった言い方をする。
いちいち癪に障る女官だ。
「ありがとうございます。
失礼します」
ネイトは特段気に留めず爽やかに言った。
「ほら、行こう」
そっとローゼルの背中を押して、ネイトは先を歩くよう促す。
ローゼルもそれに合わせて、ヨオンナに軽く会釈して歩き進んだ。
やがて二人は息を合わせたかのように、足早に刑部省の奥の小会議のあるところへ向かう。
「もう、本当にネイト、ありがとう。
あの人に捕まると面倒なのよ」
「だろうね。本当ローゼルも災難だよな。
あの熱血男エヴァン・ゴルマンに惚れられたと思ったら、その推しのヨオンナ・ピージャンスまで目付けられちゃって」
「そうなのよ、いろいろ最悪ぅ」
「とりあえず、ここに入って。
色々込み入ったことも聞きたくてね」
ネイトは空いている小会議室の一角にローゼルを案内した。
小会議室は重厚で高級感ある造りに、大きな格子の窓が印象的だった。
臙脂色の重厚なカーテン。
磨かれた大理石の床と部屋の中央には西部地方の特産の高級絨毯が敷かれ、立派なテーブルと椅子が六脚ほどあった。
「お茶、すぐ用意するな」
ネイトが紳士的に椅子を引いて、ローゼルに座るよう勧めた。
「ううん、大丈夫。
お気遣い無用だよ。ありがとうね」
ローゼルはやんわり断りながら腰を下ろした。
「えっ、珍しいな。
お茶受け菓子もつくのに」
「お菓子は捨てがたいけど、今はいらないの」
「ふうん」
ネイトは納得したようなしていないような顔つきで、ローゼルの対面に座った。
ローゼルの口の中には、ついさっきクレインバール卿のところで頂いたお茶とチョコレートの甘苦い味がなんとなく残っていた。
しばらくこの風味を味わっておきたい。
次、チョコレートを食べるのはいつになるか分からない。
「ごめんな、病み上がりのところ。
いろいろ確認したくて」
書類をテーブルに置いたネイトは、ペンを取り出す。
「ううん、いいよ。
この前の魔物のことだよね?
珍しいね、書記官が調書を取るなんて」
「ああ、まあ、そのことも含めていろいろあってね……」
ネイトの口ぶりがやけに歯切れが悪い。
ローゼルは違和感を覚えて首を傾げた。
「いろいろ?」
「そう。いろいろ」
ネイトはますます気まずそうに苦笑し、持っていた書類を広げ、羽根ペンを持つ。
「ええっと……、まずは魔物に襲われたときのことを詳しく教えて欲しい」
「うん。そもそも……」
それからローゼルは、淡々とこの前の魔物に関して話した。
本来なら何の変哲もない出張のはずだったこと。
突如現れた魔物は思い出すだけでも不気味で、心底恐怖を覚えたこと。
続いてネイトがあれこれ質問し、ローゼルは憶えている限り、状況を説明をした。
「ありがとう。
魔物の件はこれで完了だ」
ネイトが書類をまとめ始めた。
「お役に立てたのなら光栄だよ」
ローゼルはにこっと微笑みながらも、ふと、思い出す。
(そういえば、あのとき私を庇ってくれた御者は、無事に回復したのかな)
彼は不思議な男の人だった。
赤い髪。
青い瞳。
見た目は、ちぐはぐな印象があるけど、紳士的でどこか画一した匂いのある人だった。
あの彼がいなければ、間違いなく私は死んでいた――。
ローゼルは今更ながら背筋が凍った。
「それじゃあ、ネイト。
私、もう行くね」
ローゼルは立ち上がろうと腰を浮かす。
「なあ、ローゼル」
ふいにネイトの眼光が鋭くなった。
「なあに?」
「レオーネ・ウルームとは婚約破棄したのか?」
「へ? 何を藪から棒に」
「教えてくれ」
ネイトの強い口調に、ローゼルはふうとため息をついて、座り直した。
「まだよ。父が婚約破棄の方向で動いているみたい。
けど、レオーネというよりウルーム伯爵が粘っているみたいだね。
あっちは何が何でも浮気で婚約破棄という醜聞を避けたいんじゃないかしら」
ローゼルは肩をすくめた。
「けど、ローゼル自身はアイツのこと、好きなんだろ?」
一瞬、何を言われているか分からなかった。束の間、沈黙が訪れた。
「レオーネを?
まさか。ないない」
ローゼルは笑って手を振って否定した。
けれど、ネイトの顔はいつになく真剣だ。
今までないくらいネイトの目は昏く輝き、どことなく不穏な色を帯びている。
ローゼルはなんとも言い知れぬ不安が込み上げてきて、喉がカラカラに乾いた。
チョコレートの甘い余韻は消えた。
「えっと、好きって、それはつまり、恋愛感情含めてよね?」
「もちろん」
「んじゃあ、ない」
「即答かよ」
「うん。そりゃあね、長年婚約していた分、幼馴染的な情に絆されてるところはあるかもしれないけど、レオーネにそういう恋愛感情とかはまったく持てないんだよね」
「本当に?」
懐疑的に覗き込むネイトに、ローゼルは元気よく頷く。
「うん。そもそもタイプじゃないし」
「タイプ……って、ローゼルのタイプってなんだよ」
ふいにネイトが不貞腐れるように、椅子の背もたれにも腕をかけた。
「そりゃあ、ずばり自立している人でしょ。
あと、他人に振り回されない人かな」
「なるほど。
レオーネとはほど遠い人物像だな」
「でしょ?
巷では麗しき貴公子と呼ばれているけど、口が上手いだけでなよなよしていて頼りないし、父親のウルーム伯爵がいないと領主運営も危うい。
そのくせプライドが高いから自分の非を認めないっていうか……」
「じゃあ、どうしていつも夜会に参加するとレオーネ以外の男と踊らなかったんだ?」
「え?」
「ほら、ローゼルはレオーネと踊り終えるといつも好き好んで壁の花になっていただろ?
俺はてっきりレオーネに操をたてているものだとばかり思っていたんだ」
「あはは、全然違うって」
ローゼルはケラケラと笑い飛ばした。
「案外、壁の花って最高なのよ」
「どこが。壁の花ってすなわち、社交界で孤立している女性のことだぞ。
確かにローゼルは礼儀にのっとり、婚約者のレオーネとファーストダンスを踊ってからは誰とも踊っていなかったからさ、俺はてっきり――」
「そっか。
そういうふうに見る人もいるんだね」
「あれはね……」
ローゼルは一瞬言い淀む。
本音を打ち明けてもいいだろうか。
結局のところ、レオーネは暴行罪で捕縛されている。
刑部省の傘下に入っている軍部。
そこに勤務するネイトに今更隠し立てをしても無駄だろう。
「実はね、他の人とダンスするとレオーネが帰りの馬車で怒って来るから踊らなかったの」
「は? 何で?」
「何でって……。気に入らないからなんじゃない?
なんてたって、私は今世紀最大の悪女なんて噂されている女だよ。
これ以上噂が大きくならないための自衛じゃないのかな」
「いやいや、ちょっと待って。
その噂も未だに消えていないっていうのが不可思議だけど、同僚とか同期と付き合いでダンスするのはフツーありだろ?
そこまで束縛するか?」
「ね、そう思うでしょ。
レオーネの方が束縛魔みたいよね」
ローゼルは肩をすくめた。
「ああ、まったくだ。
噂と真逆だ」
ネイトは腕を組んで、大きく何度も頷いた。
「本当に、誰が流した噂なんだか」
「だな。っていうかさ、入省前サロンで何度か一緒になった時も感じてたけど、レオーネって本当根っからの女好きだよな。
しかも、どさくさに紛れて接吻もしてたし、あれにはさすがの俺も引いたぜ」
「らしいね」
小耳に挟んだけれど、ローゼルにはこれっぽちも興味ない。
とはいえ、王城の庭園でのソフィアとのいちゃつきだけは目に余った。
ショックというよりも、あんなに無防備に浮気できるその無神経さ、その後起きるであろうことを考えられない想像力のなさに絶望した。
だからこそ、先日踊ったルシアンは例外的だった。
「けど、レオーネから他の男と絶対に踊るなってきつく言われているし。
逆らうと、逆切れして面倒だから、今までは渋々大人しく従っていたんだよねぇ」
頬杖をつきながら独り言のように、ローゼルは呟いた。
「え、もしかして、俺と踊ったこと、めちゃくちゃアイツに何か言われたんじゃないのか?」
ネイトは身を乗り出して尋ねた。
「え? ネイトと踊ったっけ……」
ローゼルはきょとんとした。
「はあ? 忘れたのかぁ?」
ネイトがありえないとばかりに、呆れ果てた。
「うそうそ。ちゃんと覚えているって。
冗談よ、冗談。
入省当時の舞踏会でネイトと踊ったことがあったよね」
「それ、忘れるなよ」
ネイトは口を尖らせ、拗ねるような表情を浮かべた。
「あはは、ごめん」
そう、あの帰りの馬車で。
――ふしだらな女
レオーネに散々罵られた。
けど、その一方でローゼルにはその言葉すら気に留めない程「仲間がいるって素敵」と心の底から感じた夜会だった。
ネイトは、たちまち歳月が巻き戻ったように、当時のことをしみじみ呟く。
「そういえば、あの時、エレナがいい爪痕を残してくれたよなぁ」
「そうそう。そうだったね。
『わたしは参加しないから』なんて豪語したエレナもなんだかんだ可愛いドレス着て登場したよね。
キレイだったなぁ」
「で、ランスとレイノルドの取り合いが始まってさ。
あれは凄まじかった。
俺、あの時が初めてだったんだよな。
エレナの素顔を見たのって」
「だよね。あの子、いつもローブを目深に被っているから。
みんな、エレナの美貌に驚いてあんぐり口が開いていたもんね」
ローゼルはクスクス笑う。
懐かしさは人をたちまち饒舌にさせる効果があるのか、ローゼルとネイトは思い出話に花を咲かせた。
「あの頃は俺達、本当青臭かったよな」
「でも、毎日が楽しかったよ」
ローゼルにとって王宮内務官になったことは、人生の大きな転換点だった。
継母の陰謀により、学校の入学も叶わなかったから余計そう思うのだろう。
自分の世界は小さな部屋から広大な王城へ、歩むたびに新しい景色が広がり、人生が別の色を帯び始めた。
そして、悪評関係なしに付き合ってくれる同期たちに出会えた。
「レオーネがいろいろうるさかった分、私ったらすっかり壁の花になってお酒を楽しむことにしたんだよね。壁の花を満喫っていうか」
「出た、酒豪発言」
ネイトが口元をニヤニヤさせた。
「だって、滅多に口にできないあらゆる最高級のお酒とおつまみを堪能できるんだよ。
ついでに最先端の甘味も」
ローゼルの目がきらきらと輝く。
「先日の舞踏会も皇帝陛下お勧めのシャンパン。
あれは最高に美味しかった」
「それ。それについて――」
不意にネイトの声が暗くなる。
「いつからだ?」
「なにが?」
「クレインバール卿とそういう仲になったのは――」
そういう仲って、一体どういう仲を言っているのだろう。
不思議そうに目を瞬くローゼルに、ネイトは深いため息をついた。
「俺の方がローゼルとの付き合いは長い。
なのに、あの軍師閣下はローゼルの事細かな事情を知っているかのような動きをしてる。
何でだ?」
「何で……って。さぁ」
あえてローゼルはしらばっくれ、指先をこねこねし始めた。
彼が私との将来のことを真剣に考えてくれているみたいだから――なんて、現段階口に出せない。
なにせ、私はまだ婚約中で、彼は軍部上層部。
いくら馴染みの同期でも、ここで彼の足枷になるような発言は控えるべきだ。
「じゃあ、聞くけどさ」
恨めしそうなネイトの声が響く。
「なんであんなふうに食堂で求婚されてるんだよ?」
「……!」
早速、足枷になるような質問が飛んできた。
「ネイト……、まさかあの場にいたの?」
ローゼルは口をパクパクさせた。
「ああ、いたよ。
ふだん官僚食堂で飯を食わない軍師閣下がいるだけでも仰天なのに、令嬢嫌いなあの方の相手がローゼル。驚いたなんのって。
腰を抜かしそうだったぜ」
「声掛けてくれればよかったのに」
「んなもん、出来るわけないだろ?
レイノルドならまだしも、俺みたいな三下が気軽に声を掛けれないって」
「そうかもしれないけど」
「っていうかさ、硬派で令嬢の誰ともダンスをしない方なのに、どうしてローゼルとは三曲も立て続けに踊ったんだ?
しまいには、軍師閣下が以前からローゼルに惚れていたという噂が流れる始末。
火のない所に煙は立たぬっていうけど、まさに俺たち同期からしてみたら寝耳に水だ」
「えっと……それは……」
ローゼルは目を泳がせた。
たぶん、あれは同情だ。
レオーネとソフィアの浮気現場を見て、私が傷ついたのだろうと察してのお誘いだった。
「それだけじゃない」
ネイトはおもむろに続ける。
「ここ最近の軍師閣下の動きは凄まじいんだ。
事件が立て続けに起きているから、ご自身の睡眠時間を削って次から次へと指示を出し、あくせく証拠収集に尽力されてるんだ」
ネイトはぐいっと、身を乗り出す。
「その上、どこぞの令嬢のために医師の手配をして、贈り物の指示もする。
滅多に使わない便箋の用意だってしている。
これ、全部ローゼルのためのものだろ?」
鋭くネイトがローゼルを射抜く。
口の中に苦いものがじわじわと広がる。
全部ネイトにバレている。
気まずい沈黙が流れた。
やがて、ネイトが、はあ、と重たいため息をついた。
「どうするの? 軍師閣下、マジだぜ?」
「どうするって……」
どうしたい。そう問われても、改めて冷静になってみると、まだ答えは見つかっていない。
――もし良かったら、俺のところに避難してくるか?
彼、ルシアン・クレインバールの声が蘇る。
ふっと、鼻のあたりに爽やかな柑橘系の匂いを嗅いだような気がした。
触れてくる彼の手、そのぬくもりが、彼の瑠璃色の目が身体の中に残っている。
ローゼルの頬がたちまち赤くなる。
応えたい、彼の気持ちに。
でも、あの人の足枷にだけはなりたくない。
「――まずレオーネと婚約破棄したい」
ゆっくりとローゼルはネイトを見据えた。
「ふうん、いいんじゃない?」
ネイトの口角がニッと上がる。
「俺もレオーネ・ウルームは止めた方がいいと思う。
アイツがローゼルを幸せにできるとは思えない」
「うん、そうだよね」
いくら彼が父と話をつけたにしても、彼がどれだけ好意を示してくれても現状は何も変わっていない。
まずはそこがスタートライン。
ふいにローゼルは思い当たる。
彼女のあの台詞――。
「ねえ、ネイト」
「ん?」
「さっきピージャンス女官から、レオーネが魔法騎士団に捕縛されたって聞いたんだけど」
ネイトの顔がぎょっとしたような表情になった。
まさに不意を突かれた、そういう顔だった。
ローゼルに名もなき影が胸に広がり、部屋中に不穏さが漂う。
「あの女官、そんなことを言っていたのか?」
ネイトの肌がどんどん真っ青になっていく。
「うん。どういう意味なの?」
ローゼルは冷静に尋ねるものの、言いようのない予感が胸をざわつかせた。
やがて、沈黙が重く落ち、部屋の空気が凍りついた。
ネイトの沈黙は、恐ろしい真実の予兆だった――。




