第39話 子爵令嬢の我慢と、軍師閣下のハメ技
ルシアンはローゼルの手を添えたまま、王宮官僚食堂を出て、刑部塔まで向かう。
食堂を出るなり、ルシアンがぎゅっとローゼルの手を握った。
もはやこれはエスコートではない。
ローゼルは動揺した。
(この展開は、なに?)
殿方と手を繋ぐ――。
ダンス以外でそんなことをしたことがない。
鼓動が加速すると同時に緊張も増して、ローゼルは胸がいっぱいになっていた。
けど、ここは職場の王宮。
「風紀が乱れます、クレインバール卿」
ローゼルは顔を真っ赤にして小声でルシアンに訴えた。
「風紀? 乱れないよ。
ほら、俺たちは未婚同士だ。
問題ない。
問題あるとすれば、既婚者同士の乳繰り合いだろ?」
「ち!……まあ、確かに……」
そのとおりだ。
時々、人目のつかないところで既婚者同士の官僚が、恋人のようにべたべたしているのを見かける。
あえて見ないふりをしているけれど、あれは目に毒だ。
――あれはよくないね。
先輩のモーデッリアと別の省庁へ打ち合わせで出向くとき、偶然見かけた不倫カップル。
心底軽蔑するような顔で、彼は呟いていた。
それが頭の中に蘇る。
大抵ああいうカップルは、仕事中にも関わらず会議中、視線を絡め合ったり、合図を出し合って愛を確かめあったりしてくる。
結婚前のカップルや新婚ならまだしも、あれは一気に会議室が凍る。
これぞ、まさに風紀が乱れる、というもの。
本当に、心の底から止めて欲しいと思う。
(それじゃあ、今の私は?)
ルシアン・クレインバールは、未婚同士だから問題ないというけれど、私にはなんだかんだ婚約者がいる。
それなのに、この見目麗しい男はお構いなしの様子。
婚約者のいるローゼルだけが後ろめたさがある一方、彼は平然と手を繋いで悪びれる様子もなく堂々と歩いている。
変なの。
こういうの良くないって思うのに。
恥ずかしいような、誇らしいような、それでいてやけに甘美な背徳感があった。
でも、駄目だよ。
このままでは身分の低いローゼルよりもルシアン・クレインバール軍師に悪い噂が立ってしまう。
ここは社交界。
身分の高い方ほど足をすくわれないようにしないといけない――。
「あの、やっぱ手を離していただけませんか?」
「どうして?」
ルシアンはけろっとしていた。
「どうしてって……婚約者でも夫婦でもないのに、男女が手を繋ぐなんて未婚同士でもよくありません。
それに私は婚約者が……」
「いいじゃないか。
別に俺は皇族に咎められても平気だぞ。
むしろ『休み時間を利用して真剣に言い寄ろうとしてるんだから邪魔するな』って言い張るぞ」
「言い寄る⁉」
ローゼルは慌てふためいてなんとかルシアンに手を放してもらおうと、腕をぶんぶん大きく振るが一向に離れない。
逆に、息が上がって上気する。
そんなローゼルにルシアンは笑いながら話し掛ける。
「そういえば、書類に俺のサイン、欲しいんだっけ?」
「はい、サインください」
ローゼルは真顔で即答した。
「ぷっ。んじゃあ、早く俺の執務室に行こう」
ルシアンは吹き出して頬を緩ませた。
ローゼルはサイン欲しさにますます何も言えなくなった。
たくさんの騎士たちから好奇心丸出しの視線を注がれながら、ルシアンの執務室に入った。
「さぁ、どうぞ。
ちょっと座って待ってて。
書類にサインだけ先にしちゃうから。」
応接セットの寝椅子に座るよう勧められ、ローゼルは静かに腰を下ろした。
「あっ、書類、くれ」
ローゼルはルシアンに書類を差し出した。
ルシアンは受け取ると自分の執務机の席に座ると書類にサインをし始めた。
ローゼルはぐるりと部屋を見渡した。
この部屋の構造は上官のライアナース卿の部屋とほぼ一緒だ。
けど、ライアナース卿のごちゃごちゃした書類や本の山を思い出すと、随分と綺麗に片づけられていた。
もっと雑然とした部屋だという勝手な思い込みがあったけれど、ちゃんと整理整頓されている。ライアナース卿の部屋よりもむしろ整っているかも。
天井まである本棚に目を通すと、ライアナース卿の部屋で見かけないような重厚な拵えの軍法や兵法などの本がきっちりと並べられている。
簡素な装丁の本も多数あれば、背表紙には署名や日付や連番のみのものも。
これは恐らく重要な報告書か何かのファイルだろう。
やはり、文官と武官とだと置いてある本も資料も異なっているようだ。
部屋の隅に大きな地球儀。
開いた空間の壁には何種類もの色んな地域の地図。
この国以外の周辺諸国の地図が多い。
(なんだろう、すごく恐れ多いのに、なぜかわくわくする)
この部屋には軍に関する秘密がいっぱい詰まっている、そんな気がした。
小さい頃、父や祖父の執務室に忍び込んで冒険するのが大好きだった。
見たことない本はもちろん、知らない研究道具や薬草、たくさんの論文があって、領土の立体地図とか知らない地名の大きな地図や魔術式や魔法陣の図、所狭しとばかりに貼ってあって、とにかく心が躍った。
(特にお祖父様の部屋は楽しかったなぁ)
父の研究室にない実験道具や魔物の化石。
ホルマリン漬けの小魔物の標本に、摩訶不思議な薬草のドライフラワー。
ほかにも研究材料が至るところに散らかっていて、それがまた面白くて、まさに大冒険した気分だった。
そのとき、扉がノックされた。
「失礼します」
モーニングコートを着た細身の若い男性がティーカートを押して入って来た。
武官の多いこの塔でモーニングコートを着てこの部屋に出入りしているということは、彼はルシアンの執事なのだろう。
年齢はローゼルと同じくらいだろうか。
藁色の短髪に灰色の瞳。
まるで小型犬のような愛くるしい容姿だ。
(あれ?)
ふと感じる彼から漂う魔力。
不思議な雰囲気を持っていた。
まるで皇族会議テロ未遂事件のときに見た宰相の“静かな男”に似ている。
彼はローゼルににっこり人懐っこい笑みを浮かべて会釈し、お茶を用意し始めた。
紅茶の湯気が静かな部屋に溶け、部屋には羽ペンの擦れる音が響く。
心を落ち着かせる旋律のように聞こえて、さっきの緊張から一転、ローゼルはすっかり寛いでいた。
「ほら、これでいいだろ?」
ルシアンがローゼルの前にサイン済みの書類を差し出した。
ローゼルは姿勢を正すと、それを受け取って内容を確認した。
すべての書類にサインが入っている。
「はい、問題ありません。
ありがとうございます」
「んじゃあ、さっきの話の続きをしようか」
どかっと、ルシアンがローゼルの隣に座った。
(なぜ、隣?)
こういうとき、部屋主の彼は対面側の一人席に座るものではないだろうか?
ローゼルが目をぱちくりさせていると、執事の彼はローゼルの前のテーブルに優雅にお茶を差し出す。
「王都で令嬢に人気という茶葉をご用意いたしました」
それから、お茶受け菓子のチョコレートを載せた皿をローゼルの目の前に置いた。
(うわぁ、キレイ)
オレンジピュールがのっていたり、アーモンドが粒状にして散らしてあったり、とても美しい。
一粒一粒個性的な宝石のようだったので、思わず目を奪われた。
チョコレートは高級品だ。
貧乏なイースティリア家ではなかなか口にすることができない珍品。
目が輝くローゼルにルシアンはくすっと笑って、執事の彼に目配せをした。
「お茶受け菓子は王室御用達『シェ・マシャイン』洋菓子屋から取り寄せたものです」
執事の彼はにっこりとローゼルに微笑む。
(えー!
王室御用達なんてイースティリア家には到底手が出せない代物だよ)
ローゼルはチョコレートに釘付けになって、目をキラキラさせた。
ルシアンはくすっと笑った。
給仕の彼は、ルシアンの前にも優雅な所作でお茶を出した。
「ありがとう。マルスク。
もう下がっていいぞ」
「かしこまりました」
彼は丁寧にお辞儀をして部屋を去っていき、そして、二人きりになった。
「さ、冷めないうちにどうぞ」
ローゼルは「はい、いただきます」とルシアンに勧められるままお茶を口にする。
その手前でお茶の香しい薫りが鼻孔を刺激した。
飲むと、ほんわか口の中に花の香りが広がった。
後味にクリームの甘さがあるのに、それが全然しつこくない。
むしろ軽やかで爽やかな甘さが鼻に抜ける。
「どう? 美味しい?」
「はい、すごく」
ローゼルは頬を薔薇色に染め、琥珀色の紅茶を食い入るように見つめる。
こんな高級茶葉、滅多に飲めない。
(私、今日ピカイチの幸せ者だ)
「気に入ってくれてよかった」
ルシアンは満足げにお茶を飲むと、ティーカップを置いた。
「ライアナース卿に事前に君の好物を聞いておいてよかった」
「え? ライアナース卿に?」
「うん。この前の皇族会議の事情聴取と同時に世間話でちょっとね」
「なるほど……」
そういうことか。
ライアナースと軍師であるルシアンとは接点がないはず。
けれど、あの事件に関して足を運んでいたのなら納得だ。
「で、さっきの話の続きなんだが」
「あっ、はい」
ローゼルはティーカップをテーブルに置いて向き合う。
ルシアンは真面目な顔でローゼルを見据えた。
「君がもし、もしもだ、あの浮気男に心を寄せていたら、俺は少し出方を変えようと思っていた。
だが、未練も何も恋愛感情すらなさそうだ。
どう? ここまで俺の認識は合ってる?」
「はい、合ってます。
レオーネには……ウルーム伯爵子息には、残念ながら、恋愛という気持ちはこれっぽちも抱けませんでした」
「言い切るね」
「はい。言い切ります。彼に持っていたとしても、たぶん長年付き添っていた情ですね。
それ以外はありません。
それをこの前の夜会のときに再認識しましたし、すでにもう嫌悪感しかありません」
「あはは、明確でいい。さすがに、浮気者を旦那様として受け入れることはできないって?」
「そのとおりです。私、そこまでお人好しじゃありませんから」
強い口調でローゼルが言うと、ルシアンは肩を揺らしながら楽しそうに笑った。
やっぱり、今日は機嫌がいい。すごく笑顔が多い気がする。
なぜかローゼルの心はほんわかと温かくなって、頬が綻んだ。
「まあ浮気に、暴行疑惑。それらを犯した張本人は、噂の火消しをするどころか放置したまま領地に引きこもり。
このまま結婚しても碌な夫にならねぇからな」
ルシアンは指折り数えながら、鷹揚に頷いた。
「ですよね」
ローゼルも小刻みに何度も頷く。
「正直、クレインバール卿が夜会のとき助けてくれなかったら、いろいろ危うかったと思います。
本当にありがとうございました」
「いや、気にするな」
ルシアンは頭を下げようとするローゼルを手で制した。
「逆に俺はあのとき、ずっと傍にいれなくて申し訳なかったと思ってる。
俺がいればあの男も君に乱暴しようと思わなかっただろうに」
「とんでもない!
あの件があったから、逆に吹っ切れたんですよ。
むしろ、背中を押してもらった感じです」
レオーネは独占欲が強い。
ローゼル・イースティリアはレオーネ・ウルームの所有物――。
それでいて、子ども。
だから、自分のモノに他人が触れるのが許せない一方、モノだから贈り物も必要ないし、わざわざ労力をつかって喜ばせる必要もない。
「あの男の父親のウルーム伯爵が、君の御父上イースティリア子爵に平謝りしているようだけど……。
その辺話は何か聞いてる?」
「いいえ、その後何も聞いておりません」
初耳だ。
父は決して憶測でモノを言わない人だ。
王都に戻って来てから、きっと父は自分の知らない数々の話を聞いて驚いているだろう。
レオーネとソフィアの話から、ローゼルとルシアンの噂だって。
けど、何も言って来ない。
ということは、この婚約はなんだかんだ継続する――。
「そういえば、君に関して変な噂を聞いたぞ」
ルシアンが思い出したように呟いた。
「噂?
ああ、ひょっとして、アレですか?」
ローゼルは思い至って口にする。
「『イースティリア女官は、女官なんていう小難しい仕事ばかりしているから、偏屈でプライドばかり高い。
令嬢としては落第。
そのうえ、仕事のストレスを従妹のデブラント男爵令嬢にぶつけていじめている。
それを見かねたレオーネ・ウルーム令息が仲裁に入り、デブラント令嬢と相談を重ねるうちに、やがて二人は“真実の愛”に目覚めた』
な~んて、いう三流恋愛小説のような内容の」
「ああ、それ」
ルシアンは苦笑した。
「私の教育係のモーデッリア卿が教えてくれたんです。
彼はひどく心配していたんですけど、『馬鹿馬鹿しいから気にしてません』って笑い飛ばしちゃいました」
ローゼルは明るい声であっけらかんと言った。
「気に病んでないようで良かった。
俺は、まるでレオーネ・ウルームの浮気を正当化するような話だったから、少々腸が煮えくり返りそうだった」
「ご心配していただき、ありがとうございます。
そうなんですよ。
しかも、これにまだ続きがあって、
『そして、イースティリア嬢はそれが気に入らず、二人の仲を邪魔している。
レオーネ・ウルーム氏が婦女暴行を働いたなどというのは全くの虚言で、婚約破棄を避けたいイースティリア嬢が広めたデマにすぎない』って。
従妹のソフィアに都合のいい筋書きで、いかにもだなぁって。
もう、私、呆れちゃいましたもん」
ローゼルは肩をすくめ、平然とお茶を一口飲んだ。
その姿にルシアンはいささか驚く。
「メンタルが強いというか……。
他人事のように言うんだな」
「私、これでも悪く言われるのは慣れてますから」
ローゼルは屈託なくにこっと笑った。
――今世紀最大の悪女。
そんな噂を立てられて早五年近く。
全然身に覚えのない話ばかりで、耳にした時は目が点になった。
けど、世間はそんなこと関係ない。
ローゼルのことを全然知らないのに、面白おかしく言って悪女と囃し立てる。
所詮、面白ければ何でもいいのだ。
「言いたい人には言わせておけばいいんです。
今回のことも」
ローゼルはフンと小さく鼻を鳴らした。
どうせ今回の噂の出所は、デブラント男爵家だ。
全部ローゼルのせいにして、ウルーム伯爵子息と娘の婚姻をするのが狙いだろう。
デブラント男爵は、貿易商として一代で膨大な富を築き上げた元商人だ。
ここらで娘が昔からある貴族と結婚して箔を付けたいところなのだろう。
男爵は商売に関する巧みな交渉術や商機を逃さない優れた目線を持っている。
だけど、人柄はどちらかと言えばあくどい守銭奴で、その辺りウルーム伯爵とは馬が合いそうな感じがする。
けれど、私は知っている。
ウルーム伯爵は純血至上主義で、成り上がりの新興貴族を毛嫌いしているって。
ウルーム伯爵が父に平謝りしているということは、伯爵としては格下の男爵令嬢を嫁に迎える気はないということだ。
(いいんだ、他人が何を言おうが。
私を信じてくれる人たちがいて、こうやってクレインバール卿が心配までしてくれて。
その上、こんな香り高いお茶にも巡り合えた。
もうそれだけで帳消し。
これで午後のお仕事も頑張れる。
大丈夫、頑張れ、偉いぞ、復活した私)
「はぁ、美味しかった……」
ローゼルはご機嫌でお茶を飲み干した。
こんなに美味しいお茶は、王都のカフェでも滅多に飲めない。
ローゼルはティーカップをテーブルに置いて、ルシアンに向き合った。
「ちなみに、クレインバール卿。
さっきの求婚について誤解なきように一ついいでしょうか?」
「ん? なんだい?」
ルシアンが優しい眼差しをローゼルに向けた。
美しい瑠璃色の双眸に、麗しき美貌とバランスのいい鍛え上げられた体躯。
自ずとローゼルの胸は熱を灯す。
「すごく嬉しかったです」
ローゼルは、自分の中でとびっきりの笑顔をルシアンに向けて微笑んだ。
ルシアンの目が一瞬気圧されるように大きく見開いた。
「私、本当に……お世辞でも演技でも、何でもいい。
とにかく、嬉しかったです。
クレインバール卿と王城の夜会でダンスを一緒に踊ってもらってから、ずっとずっと有頂天だったんです。
軍師閣下が私のような者の手を取ってくれたことが」
まるで世界の中心にいるような夢心地だった。
「私、今までずっと我慢していたことが、なんだか報われた気がして……。
それなのに、クレインバール卿がこうして求婚してくれた。
――この事実があるから、私はこの先、何があっても生きていけます」
「だったら……」
ルシアンの言葉を遮るように、ローゼルは首を振った。
――婚約破棄は女の最大の醜聞。そして、家の恥。
だからこそ、継母は、私とウルーム伯爵令息の婚約破棄を許さない。
当然だ、貴族令嬢として生まれたからには、その役目を果たすべきだ。
最終的には継母の言うとおり、女の私が我慢すれば丸く収まることだ。
私の意思なんて関係ない。
「私は家との約束通り、レオーネ・ウルームと結婚します」
ローゼルが言い切ると、ルシアンの顔が一気に強張った。
ちくっとローゼルの胸が鈍く疼いた。
(あぁ、この方はきっと、また私が暴力を振るわれないかと心配しているんだろう。
優しい人だから)
でも、私は大丈夫。
「私が我慢すれば、すべてが収まるんです。
みんなが幸せになれる。
それぐらい我慢するのが貴族令嬢というものです」
いつの間にかローゼルの瞳は潤んでいた。
ルシアンの端正な顔が悲しそうに陰り、その瞳が揺れた。
なんだろう、彼の側にいる。それだけで心を撫でられるような甘美な幸福感が押し寄せる。
ローゼルは自分の顔が火照るのを感じたけれど、その一方でこんなふうに素直に彼に想いを寄せれるのは、あと僅かだという予感があった。
私はこの時間を忘れない――。
レオーネと心は動かずとも、何気ない日々を共に過ごしていく。
不意にルシアンが低く呻くように呟く。
「我慢なんていらねぇよ」
「え?」
唐突にルシアンはローゼルの腰に腕を回して引き寄せた。
「『みんなが幸せ』ってイースティリア女官自身は?」
ローゼルは驚いてルシアンを見上げた。
「君もそこに含まれてるのか?」
「私も?」
瑠璃色の瞳が真剣に射抜いてくる。
「ああ。当然だろ。
貴族の結婚は家同士の約束だけど、せっかく縁あって一緒になるんだ。
双方が幸せにし合うべきだと俺は思う。
俺は君を幸せにしたいと思っているんだ」
その瞬間、ローゼルは視界が揺れ、予想もしなかった言葉にローゼルの胸に突き刺さる。
私を幸せに?
そんなこと、夢のようなこと、叶うんだろうか。
ルシアンはローゼルの顎に手を掛けて、そのまま顔を上げさせた。
さっきより距離が近い。
近すぎる。
彼はまるで愛おしいものを見るかのような眼差しを注ぐ。
切なげで、とてつもなく甘く、優しい。
不意に額に柔らかく湿った感触が落とされた。
ローゼルは一瞬、何が起こったのか分からず混乱した。
そして、さらに混乱極まる彼からの発言があった。
「実はね、すでに君の御父上と話はついているんだ、俺からの求婚」
「え?」
ルシアンは蕩けそうな甘い笑顔を浮かべた。
だけど、先程と違う鋭い光が灯っていた。
口の中はまだ紅茶とチョコレートの余韻が残っている。
それよりも、甘苦い疼きがローゼルの胸をかすめた――。




