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カァーム・ビュラクラト ―社畜女官ローゼルの婚約破棄奮闘録― 私は何も望まない  作者: 兎丸 蓮


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第38話 打算のない求婚と、子リスの即答

「で、保釈後婚約者殿とはその後会ったのか?」


 ルシアンがローゼルに尋ねた。


「いえ」


 ローゼルはゆるゆると首を振った。


「手紙とか謝罪の贈り物は?」


「一応、申し訳なかった的な謝罪の手紙と花束は届きました」


「じゃあ、直接会いに来て頭を下げたわけではないのか?」


「はい。あれ以来会ってません。

 あっちも領地の視察とかが忙しいらしくて、こっちには来られないそうです」


「そうか。

 寂しくないのか?」


「寂しい……。全然。

 謝罪の手紙が届いただけでも奇跡に等しいですから」


「はっ、ますます不誠実極まりない男だな」


 ルシアンは鼻白んだ。


(……なんだろう、この尋問のようなやり取りは)


 ローゼルは目の前の御仁を上目遣いでちらっと見上げた。


 ここは、官僚たちが集うアイルナバロー連合帝国の王宮官僚食堂だ。


 石造りのゴシック様式の大きな柱に、半円アーチの高い天井には豪華なシャンデリアが吊るされている。高級家具のテーブルセットが並び、文官や官僚たちがそれぞれ食事を楽しんでいた。


 利用者のほとんどが貴族なので、舌の肥えた彼らに合わせ、料理も食器も一流。

 スタイリッシュな男性給仕が慣れた手つきで料理を提供し、フルコースから軽食、甘味まで注文できる。


 これらがすべて無料。さすが天下王宮貴族官僚の福利厚生サービス。


 騎士など武官ももちろん利用できるが、訓練などで身体を動かすこともあり、たいていの武官は味付けが濃い目の下級貴族以下の従者がよく利用する王宮一般食堂まで出向いているという。


「味、薄くないですか?」


 ローゼルは、美しい所作で本日のお勧めフルコースランチ、メインディッシュの魚を食べるルシアンに尋ねた。


「いや、全然。

 バターの風味がきいていて旨いぞ。

 イースティリア女官のはどうだ?」


 ばちっとルシアンと目が合って、ローゼルは胸がどきっと弾む。

 急に胸が甘く切なく疼いて、料理に視線を落とした。


「はい、美味しいです」


 ローゼルが注文したのは、単品の鶏肉のポトフと柔らかい白パンと果物のコンポート。

 まだ病み上がりの体だ。

 さすがにフルコースを全部平らげることはできない。


「そうか。よかった。

 たくさん食わないと身体は治らないからな」


 くったくのない笑顔を浮かべるルシアンに、ローゼルは想像以上に眩しくて目を細めた。


(キラキラしてて私には目の毒だよ……)


 頭の中でいつも思い描く以上に、本物のルシアンは艶やかで鮮やかすぎた。


 それに、さっきから向けられる数々の視線がやけに気になる。

 昼休み時間は食堂の最も賑わう時間帯だ。

 やけに周囲から注目を浴び、落ち着かない。


 それもそうだ。

 ローゼルはこうしてルシアンと何度か面識はあっても、文官は滅多に武官と交流することはない。


 ましてや、膨大な魔力量で、数々の遠征で何千の魔物を壊滅させ、隣国との戦争では常に最も危険な最前線を任させるルシアン。

 その巧みな戦術を駆使し、常に勝利を収める御仁。


 他国からは最凶で最強の生物、“魔王の生まれ変わり”や“鬼騎士”と畏怖され、この国においても“鬼軍師”“鬼将軍”とも呼ばれる異名を持つ人物だ。


 滅多に武官を目にしない文官官僚にとっては、さらに物珍しい存在だ。

 

「イースティリア女官」


 ルシアンは自分の皿から白身魚のムニエルを切り分け、ローゼルの皿にそっと置いた。


「これなら体に優しい。

 少しだけでも食べてみるといい」


 その言葉に、ローゼルは胸が熱くなり、全身が微かに震えた。


「あ、ありがとうございます……」


 どうしよう、すごく嬉しい。

 傍からみたら、お行儀が悪いことでも、こうして自分を労ってくれる彼の優しさに感動すら覚える。


 ましてや口を付けた食器でそのまま、「はい」って。

 まるで仲の良い夫婦や婚約者みたい……。


 ハッとローゼルの動きが止まる。

 ローゼルはもう一度、さっきの場面を頭の中で反芻する。


 間違いなくルシアンは、自分が口を付けたフォークでそのまま切り分けた魚をくれた。


(えっ、ってことは、これ、このまま食べたら間接キス……?)

 

 全身がカッと熱くなった。


「食べないのか?」


 不安そうにルシアンがローゼルの顔を覗き込んだ。


「は、はい、はい。

 ありがたく、いただきます」


 ローゼルはどくどく波打つ心臓の音を聞こえないふりをして、お皿に取り分けたムニエルを睨みつけるように熱心に見入る。


(か、間接……キス。

 レオーネともこんなことをしたことがないのに。

 それも、こんな見目麗しい御仁と……)


 これがどれほど親密な行為か、この無自覚な完璧超人は分かっているのかしら。


 頭がパニックになりながらも、ローゼルはもらった魚を口に運ぶ。


「ん……!」


 ふんわりとしたバターと塩分のきいた白身魚の味が口の中に広がった。


「ふふ、美味しい」


 思わず笑みが零れた。


「そうか、よかった」


 柔らかく微笑む彼に、ますます鼓動が加速した。ローゼルは恍惚とした表情でルシアンを眺める。身体がますますカッカッと火照る。


(あぁ、もう、この笑顔、ズルいよぉ……)


 普段のルシアンは無骨で荒々しい口調や言葉遣いをする。

 それは武官であり、大勢の騎士たちを束ねるトップとしては当然。

 それでも、時折部下たちに見せる砕けた笑顔は殺人級に多くの令嬢たちの心を虜にしてきた。


 とはいえ、彼があまりにも女性の前ではクールかつ無口、不愛想であるため、「蝶よ花よ」と慈しみながら育てられた令嬢たちにはあまりにもハードルが高いらしく、みんなことごとく散っていると聞く。


(こうやってみると所作とかすごく綺麗。やっぱり次期辺境伯よね)


 しゃんと伸びた背筋、白身をすっと分ける美しいナイフさばき。

 口元へ運ぶまでの流れが滑らかで、彼の品格の高さが窺える。


 ちゃんとした教育を受けた上流貴族の令息だ。


 レオーネよりも綺麗に魚を食べるかも。


 こんなに完璧な人でも婚約者がいないというのが、不思議だ。


 最近は四大公爵家のひとつ、ナディア・グロウディーナ嬢が、父親にねだって彼との婚姻を強く望んでいるらしい。

 けど、残念なことにクレインバール辺境伯家が望む条件とは大きく異なるので見送られていると耳にする。


「なあ、どうしてクレインバール卿がここに?」

「さぁ。一緒にいるのはイースティリア女官だよな」

「やっぱりあの噂は本当なのか? 

 彼があの女官を以前から懸想していたとか」


 ボソボソと交わされる会話。

 じろじろと無遠慮に投げてくる視線。


(そういえば、仕事を休んだせいですっかり忘れていたけど、先日の夜会でレオーネとソフィアの逢引から暴行疑惑。

 それから、その暴行からクレインバール卿が前々から懸想していたローゼルを救ったという英雄談の噂が広まっていたんだっけ)


 そんなことを不意に思い出したので、余計に落ち着かなくなった。

 ローゼルは小さな身体をさらに小さくしながら、食事を続ける。

 

 だけど、ルシアンはそんな視線なんかお構いなし。

 口元をナプキンで拭きながら質問を再開し始めた。


「もともとレオーネ・ウルーム令息とはどれくらいの頻度で会ってたんだ?」


「え……。

 そうですね……」


 思いもよらない問いかけの内容に、ローゼルは首を傾げた。


 彼がイースティリア邸を訪れたのはいつだったろうか? 

 すぐに思い出せないくらい随分前になる。


「すみません、覚えてません」


「え?」


 ルシアンは目を丸くした。


「本当に記憶にないんです。私も王宮内務官としての仕事があるので……。

 そもそも私たち、婚約期間は長いんですけど、頻繁に会うような関係ではないんです」


 婚約した当初は彼の家で開催される毎月のお茶会に毎回参加していた。

 けれど、レオーネからの嫌味とかそれに付随する意地悪な女の子たちが嫌で、女官になってからは断るようにしていた。


 ウルーム伯爵家へローゼルが足を運ぶんだ記憶も、かれこれ数年ないはずだ。


(というか、これ、何の質問だろう?)


 ローゼルは訝しげにルシアンを見た。


「あのう、クレインバール卿。

 これは何かの尋問なんでしょうか?」


「尋問?」


 ルシアンは、果実水の入ったグラスを持ち、きょとんとする。

 それから、ふと笑った。


「違うぞ。

 これは俺の単なる好奇心だ」


「好奇心? なぜですか?」


「なぜって……」


 ルシアンは口に果実水を含みながら、困ったように逡巡する。


「ここで言うのもなんだが……」


 グラスをテーブルの上に置くと、そっと身を乗り出した。


「ローゼル・イースティリア嬢」


 ローゼルの手をルシアンがそっと握った。


「……!」


 思わず心臓が口から飛び出そうなほどローゼルは驚いた。

 おずおずと顔を上げると、視線が絡み合う。


 普段は冷徹な軍師の瞳が、今はやけに真剣で熱を孕んでいた。

 あまりにも熱心に瑠璃色の双眸で見つめて来るので、ローゼルは吸い込まれそうな錯覚に陥った。


「俺と結婚してくれないか?」


 彼の言っている台詞の意味が分かるまで、少なくとも十秒はかかった。


「はい?」


 大勢行き交う昼時の王宮食堂。

 天井の高い巨大な食堂は、ランチタイムで流れ込んできた貴族たちのおしゃべりで溢れ返って、わーんとひとつの音になって反響していた。


 ローゼルは、目の前の言葉が現実味を帯びず、夢のように遠く感じられた。

 ふわふわと視界が揺らいだ。


(何を言ってるんだろう、この人。

 私には婚約者がいるんだよ?)


 この前のデートのお誘いといい、これじゃあ、彼が横恋慕をする無礼な騎士に成り下がってしまう。

 そんな不名誉、彼に似合わない。


 頭ではそう分かっているのに、こんなに真剣な表情で射抜かれると、胸が甘く痛む。


「おい、今クレインバール卿が……」

「結婚、って言わなかったか?」


 本人たちをよそに、周囲がざわめき、波紋のように広がっていく。


 不意に食堂が静寂に包まれた。


 視線を感じて、そっと周囲を見回すと好奇心と無遠慮さを滲ませてた多くの人たちがこちらを注視していることに気づいた。

 まさにみんな固唾を飲んで見守っている状態だった。


 ローゼルはぎょっとした。


(ちょっと、みんな、何を期待してるわけ⁉)


 ルシアンはそんな視線に構わず、あの美声で甘く尋ねる。


「どうだろうか?」


 ローゼルは恐る恐る顔を上げた。


 目の前には美丈夫な彼が、ローゼルの手をさらに強く握る。

 言葉にならない想いがさざなみのように広がり、ローゼルの呼吸さえ、細やかな震えを含んでいた。


「どうって……」


 ローゼルは困惑しながら言い淀んだ。


 私にどうしろっていうの? 

 私には婚約者がいるんだよ。


 その事実が、じわじわと身体に染みてきた。

 砂でも飲み込んだような後味の悪さ。


「ローゼル・イースティリア嬢。

 俺は本気だ」


 燃えるような想いを秘めた視線が、肌を刺す。

 目尻には赤みが差し、見たこともないほどの恥じらいを秘めていた。


 ローゼルは怖いような、恥ずかしいような、舞い上がりたいような複雑な気持ちが駆け巡る。

 どうすればいい、どうすれば。


 ――婚約者以外の殿方に心惹かれるのは、邪道でみっともないこと。

 未婚の令嬢は厳格に殿方と距離を置き、貞淑でいなければならないのよ。


 継母シャルルの声が、頭の中で響く。


 頭の中がやけに醒めていく。

 冴え渡って、どこかしんと冷えていた。


「どうして私なんでしょうか? 

 確かに、最近お会いする頻度が多いですけど、軍師閣下と接点がいままでそんなにあったわけじゃないです。

 理由が分かりません」


 ローゼルは、なんとか冷静に言葉を紡ぎ出した。

 一瞬、間があった。 


「理由ってそんなに必要?」


 ルシアンは困ったような顔をした。


「必要です」


 ローゼルはきっぱり言い切る。


(そもそも冷静に考えれば、この話はおかしい。

 だって、私と結婚しても彼にメリットは何もないから)


 貴族の結婚は、家同士の約束。


 双方、メリットを求めるのが通例だ。

 例えば、レオーネのように魔法使いの血統が欲しいから、といったものなら分かりやすく素直に頷ける。


 けど、ルシアンはこの若さで一介の魔法騎士から軍師に昇りつめた男だ。

 魔法量も攻撃魔法における魔力操作も爆発的に凄まじい。

 私のようなチンケな魔力量しかない魔法使いを欲するだろうか?


(じゃあ、私の持参金が目当て?)


 イースティリア子爵領地は農作物や珍しい薬用植物が育つため、土地としてかなり潤っている方だ。


 それは、若かりし父の魔法研究であの領地は大幅な土壌改良に成功したから。

 その後も父が研究した品種改良後の作物を植えたことにより、よっぽどの天候不順に見舞われない限り不作知らずになった。


 とはいえ、数年前の父の事業失敗の余波は大きく、タウンハウスのあの屋敷は貧乏そのもの。


 シャルルはさっさと結婚させたいようだが、実際、レオーネとの結婚も持参金を用意できない理由があって延期している状態だ。


 じゃあクレインバール領土はというと、死地と呼ばれるほど危険な場所。


 だが、あそこは資源豊富な鉱山物の山々が連なり、工芸品や絹などの特産品も潤沢。

 税収はイースティリア領地の三十倍近くあるはず。


 そもそもルシアンだって二十代後半という若さなのに伯爵位と同じ軍師に就いている。

 役職手当はもちろん、危険手当に夜勤手当などなど考えてもお金には不自由していない。


 彼の身分や実家の大きさを考えても、子爵令嬢のローゼルと婚姻するのはかなり身分差がある。

 彼ほどの家柄の子息が、あえて家名に箔をつける必要性もない。


「考えれば考えるほど、不思議なんです。

 私との結婚に旨味なんて全然ないのに」


 ローゼルは口を尖らせた。


 あまりにも自分にメリットがないことをより自覚させられて、少々卑屈な気分になった。 


「そうだなぁ、理由かぁ」


 ルシアンは考え込みながら頬杖をつく。


「じゃあ、知的な君にこういえば納得してもらえるかな?」


 瑠璃色のルシアンの瞳が、すぐそこにある。


「辺境伯の妻になる素質を持っているから。

 これでどう? 納得?」


「え? 私が、ですか?」


 ローゼルはますます目をぱちくりさせた。


「私なんてしがない子爵の娘ですよ。

 それに……」


「しがない? 

 よく言うよ。

 法務大臣の懐刀の優等生女官さん」


 ルシアンはローゼルの声を遮って細く微笑む。


「確かにそう言われるみたいですけど、私なんて全然ですよ」


 ローゼルは手を振って否定した。


 下級貴族の女官はなにかと貶められがちだ。

 現に性的に繊細なことで罵られたり、しまいには愛人になれとまで豪語してきた上流貴族の官僚もいるほどだ。


(きっとライアナース卿はそう周囲に言って、私の身を守ろうとしてくれているだけなのよね)


 法曹一族の長の彼がそう評価するのであれば、下劣な官僚たちはおいそれと手を出せない。


「謙虚だね。

 君の同期のヴァービナス女官も、やけに自分を低く見積もっているけど、君たちの世代は粒ぞろいということでも有名だよ。

 他の世代とは雲泥の差。

 それは皇族会議の君の活躍をみれば、一目瞭然だ」


「はあ、そうなんですかね」


 ローゼルは生返事をした。


 確かに同期はみんな優秀だ。

 入省同期数としては最低人数だが、全員有能官僚として重要なポストに就いている。

 私を覗いては――。

 

 皇族会議。彼と初めて顔を合わせたあの事件、あれはいろいろ肝を冷やしたけれど、自分がやれることをやったまでで、そんなに褒め称えられるほどではない。


「まあ、そういうこと。

 君は自分が思っている以上に優秀だ。

 俺が君と結婚したい理由、分かった?」


 ルシアンも僅かに口角を上げる。


「いいえ、全然分かりません」


 ローゼルは即答した。

 でもニュアンスは伝わってきた。


 細かなところで疑問点は多々あるけれど、要は魔法が使える家柄で、女官になれたその実績が箔をつけ、その辺の令嬢よりはまだ使える。

 そう彼の目に映っているのだろう。


 高く評価いただいたのは大変ありがたいが、問題がある。


「だいたい私はいまだ婚約中の身です。

 他の殿方とだなんて考えら……」


「そう、それでだ。

 本題はここからだ」


 勢いよくルシアンはローゼルの言葉を被せる。


「ローゼル・イースティリア嬢はこのままあの浮気男と結婚したいと思っているのか?」


「いいえ、絶対に嫌です」


 これも即答する。だが、つい本音がぽろりと漏れてしまった。


「……あっ」


 ローゼルはしまった、と口に手を当てた。

 ルシアンの口角が分かりやすく、にっと上がった。


「じゃあ、話は早い。

 場所を変えて話そう」


 ルシアンはローゼルの手を握ったまま立ち上がろうとした。


「場所ってどこですか?」


「ここじゃない場所」


 ルシアンは突如ぐるりと周囲に睨みを利かす。

 途端に、周囲が気まずそうに目を背け、蜘蛛の子を散らすように去っていく。


「確かにそうですね。

 ここで込み入った話は禁物です。

 でも、ちょっと待ってください」


「なに?」


「場所移動するんですね?」


「うん、ここだと人目が多すぎるからな」


「それじゃあ果物のコンポート、残り僅かなので食べてもいいですか? 

 私、甘い物に目がないんです」


「え?」


 ルシアンは一瞬、目を見開いてから、クスクス笑った。


「ああ、いいよ。

 たんと召し上がってくれ」


 ルシアンは浮いた腰を再び椅子に落とした。


 ローゼルも座り直して、残り僅かなコンポートを一気に口の中に入れた。

 果実の甘さが舌に広がり、胸の奥まで温かく満たされる。


 ローゼルは必死で口をもぐもぐ動かす。

 貴族令嬢としてはしたない食べ方だけど、上官を待たせてはいけない。


 たちまちローゼルの両頬が、小動物のようにぷくっと膨らむ。 

 それを見たルシアンは、ぷっと噴き出して、くっくっと肩を揺らして笑った。


「マジで子リスだ」


 ルシアンは形の良い目元をこれ以上ないほど甘く細め、ローゼルに聞こえるか否かの極小の声でぼそっと呟いた。


 ローゼルはもぐもぐ口を動かしながら、首を傾げた。

 何がおもしろいのかしら? 


 それでもルシアンが笑顔でいてくれるのが、ローゼルにとって何よりもご褒美だった。

 ごくりとコンポートを飲み込む。


「すみません、お待たせしました」


 口元をナプキンで拭いてから、ローゼルはきりっとした真面目くさった表情で言い切った。

 ルシアンはますます我慢しきれなくなって、噴き出して、しまいには、のけぞって腹を抱えて笑いだした。


 周囲がルシアンの笑い声にぎょっとして、一斉に見た。


「おい、あの鬼軍師が爆笑しているぞ」

「まさか。クレインバール卿があんなに笑ったの、初めて見た」


 みんな一様に目を見開いてびっくりしていた。

 ローゼルは何がおかしかったのか全然分からず、ますます憮然と首を捻った。


「ああ、悪い。

 んじゃあ、行こう」


 気を取り直してルシアンは立ち上がると、ローゼルに手を差し出した。


(これはエスコートのつもりかな?)


 ローゼルは恥ずかしい気持ちもありながら、ちょこんとその手に自分の手を重ねた。



 だが、この時のローゼルはまだ知らない。

 場所を変えた彼ととんでもない関係になっていくことに――。

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